08.旧時代の遺産
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ディーティルド帝国を出て、十度目の朝を迎えた。
襲いかかる眠気に意識を朦朧とさせていたフェイヴァは、テレサに声をかけられて重い瞼を持ち上げた。
眼下には果てのない緑地が広がっていた。茸のように葉を広げて地上を覆い隠す木々が、所々で森を形成している。風が吹くと、葉は擦れあい薄く色づいた花弁が吹雪のごとく散っていく。
フェイヴァは深呼吸してみた。清々しい空気が口腔を通り意識が覚醒する。フェイヴァたちは兵士らに先導され三つの国を越えてきたが、フレイ王国は他の国よりも大気が澄んでいるように感じられた。
「おはようフェイ。よく眠れなかったみたいね」
「仕方ないよ。でも不思議。私って人間じゃないのに眠れるんだね」
「あなたの身体は人間と同じことができるわ。私がそう設定したの」
テレサと声を潜めて喋っていたが、兵士の鋭い視線を感じて二人は口をつぐんだ。
フェイヴァはテレサの肩を掴んだ手に力を込めると、天空から雄大な景色を望んだ。
見る角度によって微妙な明暗に染まる新緑の森を、山々が見下ろしていた。蒼く色づいており、遠くにあるほどその色は空の中に溶けている。夜の衣を脱ぎ捨てようとしている空に、地平線から昇った太陽が光を投げかけていた。
フェイヴァたちはフレイ王国の西の端にある都市に到着した。柵で仕切られた農地区の一角で、牛がのんびりと草を食む姿がある。麦わら帽子を被った農夫が籠を背負い、畑の野菜を収穫していた。大きな犬が猛烈な勢いで羊を追い立てている。なんとも牧歌的な風景だ。
世界で三番目の大きさであるフレイ王国は、各地に深い森が点在している。農業や畜産業に特に力を入れており、食料生産量は世界一位だ。肥沃な大地からは様々な農作物が収穫され、他国との交易が盛んに行われている。良質な木材は、グラード王国では調度品として加工され、イクスタ王国では船の材料として重宝されていた。
兵士たちに伴い商業区から馬車を使い、居住区に向かった。区画の外れに建てられていたのは、小さな家だ。壁の所々が薄汚れている。塀に囲まれた庭には手が入れられておらず、雑草の楽園と化していた。
「ここが、お前たちの暮らす家だ」
扉を開けたグリマールは、室内を手で示した。テレサは彼の隣を通り過ぎて、家の中に入って行った。フェイヴァは後に続く。以前に誰かが住んでいたのか、木目の床には細かな擦り傷がある。廊下の先には扉があり、錠前が外れかかっていた。逃亡者に用意される住処はこんなものだろう。
グリマールの表情は不快さに歪められている。自分はなんと馬鹿らしいことをしているのだろうという思いを、隠そうともしない顔だ。
「こちらから連絡をする時は兵を送る。行方をくらませばお前たちの命の保証はしない。必ず見つけ出す」
「ええ、理解しています。このご恩は忘れません。私は──私たちは、あなたがたのために必ず尽力します」
テレサは深々と腰を折った。フェイヴァも同じように頭を下げる。扉に寄りかかっていたグリマールは、叩きつける勢いで戸を押した。扉が閉まりきる瞬間に見えたレイゲンの表情は、他の兵士同様に冷淡だった。彼らの表情に何か思う前に、凄まじい開閉音が響き、フェイヴァは飛び上がらんばかりに驚いた。
家の外から聞こえる靴音が離れていき、やがて消える。
テレサはほっとしたように吐息を落とすと、フェイヴァに晴れ渡った笑顔を向けた。
「さあ、いやなことは忘れましょう。どこかに買い物に行きましょうか、フェイ」
テレサに連れ出され、フェイヴァは馬車で商業区に向かった。グラード王国で立ち寄ったヴェーヌと違い、建物はどれも木材で造られている。大通りの両脇に植えられた花が、風に揺れながら行き交う人々を見守っていた。
大型の商店で服や日用雑貨を購入し、露店で料理の食材を選ぶ。雑踏の中に飛び込んでから、フェイヴァは自分が緊張に震えているのがわかった。雑踏と無数の靴音が、聴覚に絶え間なく聞こえてくる。見知らぬ人ばかりに囲まれることに気後れを感じて、フェイヴァは自宅に帰るまでテレサから決して離れなかった。
帰宅すると、テレサは食事の用意をしてくれた。召しあがれと、笑顔で示された手料理は、今まで口にしたどんなものよりも美味しかった。とても美味しい、と満面の笑みで料理を口に運ぶフェイヴァに、テレサは幸せそうに微笑んだ。
井戸から汲んできた水の半分を沸かし、冷水と混ぜ合わせて湯を使った。薬草と花を使って作られた石鹸を使ってさっぱりした後は、新しい服に着替える。それだけで満ち足りた気持ちになる自分がいた。
「疲れているでしょう。今日はもう休みなさい。明日、書店に行ってみましょうか。あなたが興味がある本を探してみましょう。……そうだわ。広場でお弁当を食べて、農地区に行ってみましょうか。羊や牛は可愛いわよ」
食器を棚に収めながら、テレサは椅子に座るフェイヴァに言う。表情も明るく声も弾んでいて、彼女は自分と暮らせることを本気で喜んでくれているのだと実感した。
母子が暮らすように、テレサと手を取り合って生きていく。それがいつか終わる平穏だとしても、今は永遠に続くのだと思いたかった。いやなことはすべて忘れてしまいたい。これから始まる幸せな生活のことばかり考えていたい。
だが、フェイヴァの気持ちとは裏腹に、脳裏にはいまわしい影が被さった。目と鼻がなく、手足も存在しない巨大な蛹。どんなに人間らしい生活を送れても、自分が化物から生まれた人ならざる者だという事実を、意識せずにはいられない。
「……お母さん。私、夢みたいだよ。普通の人みたいにお母さんと暮らせるなんて。
……でも、自分のことがよくわからなくて、正直まだ混乱してる。話して聞かせてくれない?」
「……そうね」
食器を片付けていた手を止めて、テレサは席に腰を下ろした。フェイヴァと向き合い、机上においた手を握る。
「まず、誤解を解いておきたいの。あなたは他の死天使とは別物なのよ」
「……そうなの?」
仮面を被ったように変化しない顔。身体に傷を負っても、苦痛を感じていないように振る舞う身体。
外見だけならば、フェイヴァは他の死天使と差異はない。しかしその言動や表情には、明らかな違いがあった。
「天使の揺籃は、聖王暦の後期に製造されたものよ。文明が崩壊し精密な部品を製造できなくなっても問題がないように、細かな部品の生成から行動を司る小片の製造を一括して行う機構。揺籃は機械でもあり生体でもあるの。死期が近づくと、子供を産み落とすわ。生まれたばかりのそれは男性の頭部ほどの大きさだけど、六日も経たない内にフェイヴァが目にした大きさにまで成長する」
あの化物の子供というのは、いったいどんな姿をしているのだろう。想像してみて、フェイヴァは気味の悪さに身震いした。きっと目鼻がない、のっぺりとした物体に違いない。
天使の揺籃の実態は、フェイヴァの想像をはるかに越えていた。
「……聖王暦って?」
「現在の紀年は神世暦というの。聖王暦とは、今から千三十五年前に滅びた旧文明のことよ」
千三十五年。途方もない年月だ。そんな大昔に造られた機械について、テレサは何故こんなにも詳しいのか。
「天使の揺籃に組み込まれた天使の製造方法は、二通りあるの。私たちを襲ってきた死天使は、すべて自動で造られている。記録から人の容姿を無作為に選択して、行動を司る小片を組み込む。彼らは命令を忠実に実行するだけ。意思を持たず、痛みも感じなければ、表情を変化させることもない。動力の供給は必要ない。
そしてもうひとつ。より人間に近い天使を造る製造法よ。あなたは、これを使って創りあげたわ。喜怒哀楽を表現し、傷を負えば痛みを感じ、涙を流すことだってできる。摂取した食物が体内で動力に変換されるわ。容姿を細かく指定して構築された身体は、それだけでは動くことができないの。精神は身体が出来上がってから授ける。そうしてようやくあなたは目覚めるのよ」
「それって……?」
「あなたは他の死天使にはない、心を宿しているの。そのおかげで、あなたは感情を抱くことができる。泣いたり笑ったりするのも、心があるからよ」
「その、心が……私自身っていうこと?」
「…ええ。そうよ」
心というものは、証明することが難しい。目に見えない。掲示することもできない。
フェイヴァは自分が人と同様に思考できるということを、実感できないのだった。テレサが言うのだからそうなのだろう、という気がするだけである。
そもそも、フェイヴァが目覚めて間もなく自分を人間だと思いこんでいたのは、最低限の知識があったからだ。
例えば、この家。床や壁に見える木目から、この家が木で作られていることがフェイヴァにはわかる。机の上で優しく火を揺らしている蝋燭。これが蝋燭という名前で、火をつけて使う物だということを、フェイヴァは知っている。このように、自分自身が見たことがないものの知識が、当たり前のようにフェイヴァの中にはあった。物を見た瞬間浮かんでくる情報には、何の違和感もない。まるで自分自身で学んだもののように受け入れることができた。
生活に困らぬ程度に知識がなければ、人とともにいる内に不審を抱かれかねない。テレサがフェイヴァに知識を与えようと思った理由は理解できるのだけれど。
(そもそも、私って……心ってなんだろう?)
テレサは死天使の身体に心を授けたと言うが、それは人の手で造り出せるものなのだろうか。目に見えないものに、最低限の生活の知識を与える。母は、そんな人間離れしたこともできてしまえるのだろうか。
「心って…どこからきたの? お母さんは、ディーティルド帝国は、心を造ることができるの?」
「私は神ではないわ。そんなことは、この世の誰にもできない」
「見えないものに、まるで自分で経験したように日常の知識を教えることも?」
「それは……」
テレサは押し黙る。
考えている内に、フェイヴァの中のかすかな違和感が、雪だるま式に大きくなる。
「……私に話していないこと、まだあるよね?」
具体的に何が、とは言葉にできない。けれども言い知れぬ不自然さがテレサの話にはあった。
彼女は目を伏せる。咄嗟の仕草は、フェイヴァの質問を肯定していた。
「もちろん、あなたの身体を設定し造り出すまで……本当に色々あったわ。けれど、あなたは知らなくていい些末なことよ」
違う。私が聞きたいのはそういう話じゃない――違和感の正体を口には出せないのに、テレサが話を反らしたことだけはわかった。
「……私と同じように、喋ったり考えたりできる死天使はいないの?」
もしもいるのなら、彼──彼女から話を聞いてみたかった。
「……私がディーティルド帝国に入る前に、試作機として何体か造られたという話は聞いたわ。けれど今はどうなっているかわからない。……それに、あなたと会うこともないでしょう。ディーティルドの所有する天使の揺籃は私が破壊したわ」
(あれが、壊れたんだ……)
ほっとしたような、それでいて心のどこかが沈むような奇妙な感情を抱いた。
自分のように悩む死天使を見たくない一方で、心の痛みを共有できる存在には、もしかしたら永遠に出会えないのかもしれない。
フェイヴァは、机の上で揺れる蝋燭の炎に目を向けた。吐息が触れるだけで頼りなく揺らぐ火は、フェイヴァの心を反映しているように見える。
フェイヴァは自分のことがよくわからない。テレサに疑問に答えてもらっても、胸にぽっかりと空いた穴は塞がらない。もともとどれだけのもので満たされていたのかわからないのだ。現時点でどれだけ説明されても、この違和感や寂しさのような感情は、なくならないに違いない。
自分がどこに立っているのかわからない。この苦しみを抱き続けながら、生きていかなければならないのか。
そもそもなぜ、テレサはフェイヴァを造ろうと思ったのだろう。その行為に至るまでの思い。死をも辞さない行動。彼女を突き動かすものは一体なんなのだろう。根本的な謎が解けなければ、自分はいつまでも地に足をつけられない。
「お母さんは自分の子供が欲しかったの? だったらこんな身体の私なんかじゃなくて、普通の女の人みたいに結婚すればよかったのに」
つい、責めるような強い口調になってしまった。脳裏を蝕んでいる嫌悪を、テレサにぶつけてしまっている自分にフェイヴァは気づく。
テレサは部屋の窓に顔を向けていた。家々を見下ろすように、ほのかに光を放つ雲が見える。内に囚われた月は、どんな表情をしているのだろう。
「……普通の女としての生は、私には許されなかったのよ。幸せになるならば、あなたも一緒に。ずっとそればかりを考えて、生きてきた」
「よくわからないよ」
「そうね、ごめんなさい。……けれど、ひとつだけ断言できることがあるわ」
フェイヴァの手を、腕を伸ばしテレサが握った。蝋燭を焦がす火が、彼女の空色の瞳を輝かせている。
「あなたを愛しているわ、フェイ。誰がなんと言おうと、私にとってあなたは実の娘よ」
自分に向けられる、強い思い。それは強烈で、同時に身を切られるような悲痛を秘めていた。
テレサがフェイヴァに抱く思いは、自らが造り出したという理由だけでは説明できない。その根幹たる訳は、テレサの精神の深淵に近い場所に秘められている。何重にも鍵をかけられ、隙間から覗くことさえできない。
テレサの心の内を聞き出す余裕はフェイヴァにはなかった。なぜなら今はまだ、自分を把握するだけで精一杯なのだから。