03.傷ついた鳥
◇◇◇
足を踏み入れると、重々しい趣を感じた。しつらえられた書架と、利用している生徒たちが無意識に創り出した、学舎のように張り詰めた空気だ。
均一に組まれた石材が、壁に備えつけられた角灯によって、ぼんやりと照らされる。出入口近くには長机が三台設置されていた。多数の生徒が利用できるようにと設けられた椅子に、訓練生たちは腰を下ろしている。机に置かれた蝋燭の火によって、手元の文字を追っていた。
部屋の奥には木製の書架が立ち並んでいる。様々な知識を収めたどっしりとした佇まいは、来訪者が本を取る時を心待ちにしているように見える。
夕食を経て、湯を使う間の一時間。フェイヴァはハイネを連れて図書室にやってきていた。フェイヴァは普段、童話や絵本、動物図鑑くらいしか読まない。ユニが好みそうな恋愛小説を探そうにも、知識が足りなかった。そこでハイネの力を借りることにしたのだ。彼女が本を読んでいるのを何度か目にしたことがある。フェイヴァが闇雲に探すより、ずっと堅実に思えた。
「で、何か話があるんでしょ?」
熱心に読書をする訓練生に配慮して、フェイヴァたちは部屋の奥に移動した。書架と書架の間に、身を隠すように立つ。ハイネの声は心持ち小さめである。
ハイネには図書室についてきてほしい、ということしか伝えていない。彼女はフェイヴァが悩み事を打ち明けると思ったのだ。
「あのね、ハイネはどんな本を読むの?」
「……空想小説だけど」
フェイヴァの言葉が予想と違ったのか、それまで真面目な顔つきをしていたハイネは、気を抜いた表情をした。
「なあにそれ?」
「作者が想像した世界を描いたお話だよ。魔獣が存在しない世界とか、魔法が使える世界だとか、そういうの」
「ふ~む、難しそうだねえ」
文章だけで、自分の頭の中に映像を描き出すのは難しい。フェイヴァはそういったことが苦手だった。自分はまだ、愛らしい絵が載った絵本や童話しか読むことができない。
「ハイネが恋愛小説読む人なら、お勧め聞きたかったんだ。私よくわからないから」
「わたしがそんなの愛読するわけないでしょ。虫酸が走る」
「ええ~……」
ハイネはルカに、信頼以上の感情を抱いている。だからてっきり恋愛小説を熟読して、勉強しているのだと思っていた。
切なくも甘酸っぱい現実での恋愛と、紙に描かれたどこか幻想的な恋物語は、ハイネにとっては別物らしい。
「あんた、読んだことないなら一度目を通した方がいいよ。紙に書かれた愛の言葉って、寒気がするんだよ。それに、苦労と言えないような体験しかしてない癖に、わたし辛いんですって悲劇の主人公ぶってる奴が、幸せになったって面白くもなんともないから」
「そ、そう……」
以前、そんな物語を読んだことがあるのだろうか。ハイネの熱弁に、フェイヴァは若干引いてしまった。片頬を引き攣らせる。
「……そっかあ。誰か知らないかなあ、面白い恋愛小説」
「あんたさ、ようやくやる気出したんだね。恋愛小説なんて、現実じゃ通用しないから。レイゲンに告白するんなら協力してあげるよ」
頭を悩ませていたフェイヴァは、聞き捨てならない言葉を耳にしてハイネを見た。彼女は頬を緩めている。その笑い方は、もうずっと前に、レイゲンの背中に女装の張り紙を貼ったテレサの表情に似ていた。──面白がっているのだ。
「やめて、違うよ!」
「自分に正直になりなよ」
「もう、違うってばっ」
むきになって否定する。それだけは認めるわけにはいかない。
フェイヴァがレイゲンに抱く思いは、決して恋愛感情ではない。一緒にいると楽しくて、いつまでも話していたいのに、彼が他の女の子と喋っているとなぜか落ち着かない気分になるのだ。
胸が締めつけられ、焦りや不安や困惑が一緒くたになって押し寄せる。そんな──名を知らぬ感情。
「ユニ、ずっと療養室にいるでしょ? 何もせずにいると気が滅入っちゃうと思うから、本を持って行きたいんだ」
「ああ……なんだ」
フェイヴァが真相を告白すると、ハイネは途端に興味を失ったらしい。食事に嫌いな料理が出された時に見せる表情になる。
「ふーんだ、面白がってひどいんだー。ハイネの鈍感!」
「お前が言うな! フェイヴァの癖に生意気な!」
ハイネはフェイヴァの肩を抱くと、逃げられないように力を込めて、頭を拳骨でぐりぐりと押した。地味に痛い。
「あいた! いたたたた、やめてよもう! 禿げたらハイネの髪も全部引っこ抜くよ! そして私の頭に植えつけちゃうから! ババーン!」
「それは駄目」
「でしょう? 私もこの髪気に入ってるから、ツルツルになったらやだ」
説得のすえに解放され、フェイヴァは吐息を落とした。痛みから解き放たれたゆえの溜息ではない。
(……なんか……疲れたな)
無理をして元気に見せようとすると、身体も心も重くなる。ハイネに合わせてはしゃいでしまって、どっと疲労を感じた。
ハイネには悪いが、帰ってもらおう。このまま一緒にいたら、辛気臭い自分を見せてしまうことになる。
「……ハイネ、ついてきてくれてありがとう。悪いけど、私ひとりで探してみる。もう戻って大丈夫だよ」
ハイネの反応も確認せずに、フェイヴァは彼女を置き去りにした。部屋の最奥に歩を進め、恋愛小説が置かれた棚を探す。
(……恋愛、か)
その単語がどんな意味を持つのか。知ったのは、ユニとミルラが誘ってくれた劇がきっかけだった。あのときは疑問符ばかりだった劇の内容は、人の中での生活に慣れてきた今ならば、少しは理解できるのだろうか。
人間に転生した戦天使レイゲンと、彼に愛情を向ける聖女マティア。
舞台で展開される恋愛劇に、ユニは目を輝かせていた。劇の終盤では感極まって、泣いてしまって。ミルラはそんな彼女にハンカチを渡しながら、苦笑いを浮かべていた──。
フェイヴァは胸を押さえた。涙があふれそうになって必死に堪える。泣いては駄目だ、一度泣いたら──止まらなくなってしまう。悲しみと後悔に苛まれて、深い穴の底に落ちていってしまうだけだから。
ウルスラグナ訓練校に帰還して間もなくは、フェイヴァもユニも一生分の涙を流し尽くしてしまうかのように泣いていた。目に映る何もかもが精彩を欠き、虚無に心を食まれる。
そんな状態が、二日経ち三日経ち四日経ち、その内ひょっこり帰ってきてくれるのではないかと、幻想に似た想像さえ抱いていたフェイヴァは、ミルラはもう二度と戻ってこないのだと悟った。そうして、このままではいけないのだと決意した。
辛さに喘いで、悲しみに涙してどうする。それでミルラが帰ってくるのか。
フェイヴァにできることは、天界に旅立ってしまったミルラに代わって、ユニを見守ることだ。彼女が早く前を向けるように、笑顔で元気づけるのだ。
そして今日。ミルラが死んでしまって十四日が経過した。少しは落ち着いたが、それでもユニは授業を受けられる精神状態ではない。彼女の瞳は相変わらずがらんどうだ。ユニを支えて立ち直らせなければ。
(そうしないと……ミルラはきっと心配で、ゆっくり休めないよね)
フェイヴァは指で涙を拭って。床を踏み締めて、背筋を伸ばした。
「ねえ」
「わっ! んもう、びっくりするなあ」
ハイネが例によって後ろから声をかけてきたので、フェイヴァは文字通り飛び上がった。背後から近づいてくる彼女は、完全に気配を絶っている。涙が止まっていてよかった。
「わたし、力になれそうにないから、もう戻るね」
「うん、ごめんね」
「……あんまり無理しない方がいいよ。泣きたいときは、我慢しちゃ駄目」
「……んんっ? なんのことかな~? さっぱりですなぁ」
どうしてよりにもよって今、見透かしたかのように優しい声をかけてくるんだろう。ハイネの羽毛に似た柔らかな言葉は、フェイヴァの決意をくるんで捨て去ろうとさせる。
目尻ににじんだ涙をこぼすまいと、フェイヴァは歯を食い縛って耐えた。きっと自分はひどい顔をしている。
「……まあ、意地を張り続けるなら仕方がないな。じゃあね」
ハイネの背中を見送って、フェイヴァは書架に向き直った。本は種類別に棚に並べられている。恋愛小説、と銘打たれた棚から一冊手に取って、まくってみた。古びた紙の独特の匂いが、作者が紡いだ物語の上に漂う。
(……でも、朝のあの状態じゃ、私ひとりが行っても)
ユニの諦念が浮かんだ、渇いた瞳を思い返す。追い詰められた彼女の精神は摩耗していて、傷ついて羽ばたけない鳥と同じに思えた。まずは彼女にとって、大切な人が見舞いに行くべきだ。
(それはやっぱり……レイゲンさん、だよね)
雨が強かに降る農地区で、ユニはレイゲンに抱きついていた。
胸の中に封印して、二度と頭の中に持ち出したくないその記憶は、フェイヴァの心を小刀となって刺す。
だからフェイヴァは、レイゲンの瞳を見つめることができない。視線が合い、彼の中に眠る抱擁の続きが、克明に再現されるのが恐ろしかった。
(レイゲンさん……ユニのお見舞いに行ったのかな)
ミルラたちの魂送式後、レイゲンに呼び出されて以降、フェイヴァは彼とほとんど言葉を交わしていない。
レイゲンの目を見て話せないのは失礼だと思ったが、許してもらおう。まだ見舞いに行っていないのならば、彼は絶対にユニに顔を見せるべきだ。
ユニは、レイゲンのことが好きなのだから。




