09.名を知らぬ感情
前を歩いていたハイネが立ち止まって、フェイヴァも足を止める。農地区に到着したのだ。
かつて数多くの家畜がこの場所で暮らしていたのだろう。見渡す限りの大草原が木の柵で仕切られていた。なだらかな丘には厩舎が建てられていたが、いずれも崩壊を待つだけだった。建物内には魔獣に捕食された動物の骨が転がっているのだろう。運よく外に出られた一部の家畜も、魔獣の牙から逃れることはできず、骨となり緑の野に散らばっている。
牧草地の奥に足を進めると、無数の果樹が等間隔に立ち並んでいた。天に届くかというほど枝は伸び、黒い果実が鈴なりに生っている。舞い降りてきた三羽の鳥が、枝に留まり黒い果実をつついていた。鮮やかな青い羽を持つ、小さなくちばしの鳥だ。
連なり遠くに見える樹木は、繁った枝のせいで化物じみた影を浮かび上がらせている。
ハイネが振り返り、無愛嬌な表情をフェイヴァに向けた。
「わたしが果物を取るから、あんたは鳥を撃ち落として」
「わ、私が……?」
「嫌なの? まさか、可哀想とか言わないよね」
「……はい」
ハイネの顔に蔑みの色が広がる。
「馬鹿じゃないの。食べなきゃ肝心なときに動けなくなるよ。いい子のふりをするのもいい加減にしたら」
「ハイネさんは嫌じゃないんですか?」
「こういうものは割り切って考えるしかないんだよ。それにあんた、普段から野菜だけを食べるってわけじゃないでしょ。食事で出される肉だって、結局は同じように殺された家畜のものなんだよ。それを平気で食べてるくせに、こんなときだけ安い同情するんだね」
魔獣とは違い、人と共生していける動物たち。懸命に生きようとしている彼らを手にかけ、肉を裂いて食べる。当たり前の行為のはずなのに、フェイヴァにはとても残酷に感じられて、気後れさえした。そうするくらいなら、自分が空腹を我慢する方がはるかにましに思える。十日間空腹に耐えた経験があるのだ。二日間食事を抜くくらい、どうということはない。
何故それほどまでにためらうのだろう──方で、そんな疑問も浮かんでいた。
泡沫のように生まれるくせに、容易く消えることはない、いくつもの煩悶。それらは機械であるがゆえに抱くものだ。人間と違い、機械は自然の摂理から逸脱している。そんな自分が自分だけのために、命を狩ることに抵抗がある。
そう思いはしても、料理として出された家畜の肉には特別何かを感じるわけではないので、やはりこの感情はハイネが言うところの安い同情でしかない。つまるところ、鳥が可愛いから傷つけたくない程度の感情かもしれなかった。
「綺麗事なのはわかってます。でも、やっぱり……」
「あっそ」
ハイネは腰の帯に吊っていた散弾銃を抜いた。すでに装填されている。そもそも彼女はフェイヴァと農地区を目指す道程で一度も銃を使用していないのだ。
肩に担ぎ引き金を引いた。散らばった散弾は、距離が近かった二羽の鳥に当たる。残りの一羽は木のてっぺんにいたので、銃声とともに飛び立っていった。
ハイネに撃ち落とされた鳥は、身を震わせていた。風を捉えようと翼をばたつかせるさまが、痛ましくて見ていられない。
フェイヴァは顔を背けると、手近な樹木に駆け寄った。人間のように足をかけて登ると、固い果実を掴み手でもぎ取る。フェイヴァの身体機能ならば跳び上がって目当ての果実をとることも可能だったが、ハイネの手前それはできない。
十個の果実と二羽の鳥を皮袋に入れ、ハイネが背負う。
「重くないですか? 私が持ちますよ」
「あんたに任せると落としてぐちゃぐちゃにしそうだから駄目」
「くぅ~!」
フェイヴァはハイネの後ろに続いて、果樹園を出た。鼻の頭に水滴が落ちる。雨が、降り始めた。
「少し休憩しませんか?」
「別にいいけど」
足下の家畜の骨を避けながら、近くの厩舎の軒下に駆け込む。フェイヴァとハイネは、出入口の前で横並びになった。しとしとと降る雨は、ひんやりとした空気を運んでくる。
「よかったですね、丁度建物があって」
「ずっとここにいるわけにはいかないよ。雨がひどくならない内に戻らないと」
「そうですね。……あ」
ハイネの言葉に頷いたフェイヴァは、視線を巡らせてぎくりとした。
視界の先にあったのは、小高い丘。巨大な厩舎が掌くらいの大きさにしか見えない距離。その軒下で、雨宿りしているふたりの人物がいる。
拡大してみる前から薄々気づいていた。それがレイゲンとユニだということに。
ふたりは今のフェイヴァたちのように、横並びで立っている。ユニは顔を俯けて唇を動かしていた。思い詰めたふうな表情が、フェイヴァの中に言いようのない不安を抱かせる。聴覚を研ぎ澄まして内容を聞こうとは、とても思えない。
ユニとレイゲンの肩は、触れそうなほど近づいていた。ただそれだけのことなのに、胸が苦しくなってしまうのはなぜだろう。
ユニはレイゲンの正面に回ると、彼の背中に腕を回した。胸に頬を寄せ、抱きしめる。
(……!)
フェイヴァは無意識に、手にぎゅうと力を込めた。今まで感じたことのない衝撃が身を貫く。けれども、なぜ自分がこれほどまでに動揺しているのかわからなかった。
それ以上見ていたくない。ふたりが抱き合っているという現実が、間近にあるということさえ我慢ならなかった。踵を後ろに引いたフェイヴァは、来た道を駆け戻っていく。
(私、一体どうしたんだろう……)
自分の気持ちがわからない。こんなことは初めてだった。戸惑いが胸の内に渦巻いていて、吐き出せなくて苦しい。
樹木の下まで逃げてくると、雨の勢いが増した。水滴が礫のように叩きつける。密集した枝は激しく揺れた。
フェイヴァは髪を結んだ、帯状の織物に触れた。柔らかな水色に染められたそれは、レイゲンが贈ってくれた物だ。
今まで微笑ましい気持ちで思い返すことができていた彼とのやり取りは、唇を噛みしめてしまいそうなほどに、苦い気持ちを抱かせた。
(私……どこか壊れちゃったのかもしれない……)
肩を並べているふたりを見たときから、気分が優れない。きっとそういうことなのだろう。
「勝手な行動しないで」
追いついたハイネが、隣に駆けてきた。力強く降る雨が、果樹の実や葉を落としていく。
「ごめんなさい……」
「もしかして、丘の上にレイゲンがいたの? 誰かと一緒みたいだったけど……あの目立つ髪色はユニだろうね」
あの距離でよく、人物の見当をつけられる。思いはしたが、気持ちがざわめいて尋ねるどころではなかった。
「……私、最近変なんです。レイゲンさんがユニと仲良くしてるのを見ると、胸の中がざわざわして……。ふたりは私の大切な友達です。ふたりが仲がいいのは、喜ばなきゃいけないことのはずなのに……。私は、どうして」
数秒前に見た光景が、目に鮮やかに浮かぶ。レイゲンに抱きついたユニ。ふたりのその後を考えるだけで怖かった。
「……やっぱりあんたも、普通の人間だったんだね」
無言でフェイヴァの話を聞いていたハイネが、そんなことを口にした。疑問を覚え俯けていた顔を隣に向けると、彼女は今まで見たことがない微笑みを浮かべていた。どこか安堵しているような、柔らかな感情が透けて見える。
「どういうことですか?」
「いや、こっちの話」
ハイネは首を横に振る。意味がわからない。
「その気持ちは人間として当然のことだよ。あんたは、レイゲンのことが好きなんだ」
「私が……!?」
フェイヴァは瞠目した。驚愕の波が押し寄せたあと、強い罪悪感と自己嫌悪が膨れ上がった。
それはとても恐ろしいことだ。レイゲンは比類なき力の持ち主だが、それでも人間なのだ。一方フェイヴァは、化物の中から生まれた機械人形。もしも本当にそのような気持ちを抱いてしまっているのなら、許されることではない。
「変なことを言わないでください。そんなことは……絶対にありえません。調子が悪いだけです、きっと」
そう言い聞かせることはフェイヴァに安堵感をもたらしたが、同時にどこか切なかった。
「自信がないあんたのことだ。どうせ、こんな気持ちは許されないとか思ってるんだろうね」
図星を指され、フェイヴァは瞳を閉じる。
「わたしはたぶん……あんたのことを理解できると思う。周りの目を気にして自分を縛りつけないで、もっと正直に生きなよ」
自分をもっと大切にしろ。ハイネが言いたいのはそういうことなのだろう。彼女は肝心なことを知らない。だからこそ言える言葉だ。
フェイヴァは死天使。人間ではないのだ。創られた自分を認識するたびに、逃れようのない黒々とした現実がフェイヴァを飲み込む。
「あんたはこの世に生きてるんだ。生きて幸せになる権利がある。誰もあんたの存在を、間違ってるなんて言う資格はない。あんたは自由なんだ。それなのに、自分で作り上げた罪の意識に怯えて、せっかく掴んだ人生を棒に振るつもり?
……わたしは嫌だ。やっと人間らしく生きられそうなんだもの。誰にもわたしの幸せを壊させたりしない……!」
ハイネの言葉には熱が込められている。途中から自分自身に言い聞かせているかのように、瞳に強い光を宿らせていた。
以前同じような台詞を聞いたことがある。ダエーワ支部に囚われていた頃、ピアースがかけてくれた言葉。
「どうしてそんなふうに言ってくれるんですか?」
ハイネは自分に好ましい感情を抱いていないはずだ。言動の端々からフェイヴァはそれを感じてきた──なのに。
「自分でも不思議だよ。あんたの性格は好きじゃない。いつも愛想笑い浮かべてるところとか気持ち悪いし」
そう思うなら放っておけばいいのに。ハイネの言動は矛盾している。
それとももしかして、ハイネは彼女自身が気づいていないだけで、優しい心根の持ち主なのだろうか。フェイヴァの有り様を見かねて、こうやって声をかけて──それはありえないか。思いついてみたはいいが、納得できずに否定する。
ハイネはひとりで行動するのを好む。積極的に人の輪に入ってくるような性格ではない。唯一心を開いているのは、ルカくらいなものだ。そんな彼女が、親しくもない相手に一生懸命になるとは考えられない。
「そんなに嫌な相手に、どうして優しい言葉をかけるんですか?」
「それはきっと……あんたが、わたしにとってできの悪い妹みたいなものだから……かな」
ふと遠くを見て。ハイネは雨音にかき消されそうなほどに小さな声で、そう口にした。
言葉にしたあとに我に返ったのだろう。どこかもの寂しげな色を浮かべていた顔が、にわかに困惑をにじませる。
「……妹?」
「知り合いに似てて、放っておけないってこと。別に変な意味じゃない。
だから、いい加減その話し方やめてくれない?」
「は、はい……」
混沌とした思いが積み重なり、フェイヴァを悩ませる。




