01.呪われし魂に安息を【???視点】
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世界は、翼を広げた竜を真横から見たような複雑な形をしている。大陸の南南西。翼竜の後ろ脚の位置に、グラード王国はあった。
雄大な山々に見下ろされた大地に、鬱蒼とした森が存在した。木々は隙間なく生え身を寄せあっている。そのさまはまるで、森全体がとてつもない大樹のようだった。色の濃い葉をこんもりと繁らせ傘のごとく地上を隠し、同時に檻のように内側を捕らえている。
葉の天蓋に守られた内部には、防壁が築かれていた。太陽の光が遮られ生まれた薄暗さに、石造りの防壁はくるまれている。防壁が囲んでいるのは、喧騒に満たされた都市ではない。広大な建造物であった。
丸屋根の建物を囲むようにして、四つの尖搭が建てられている。白亜の外壁には、積み重ねられた年月が薄くこびりついている。
内装は白地の壁になっており、薄青色のタイルが貼りつけられていた。幾何学模様が描かれており、等間隔に壁に設置された蝋燭の光を受けて、青い陰影を床に投げかける。
祭壇に鎮座する聖王神オリジン像は、光の当たり具合によって悲しみとも怒りともつかぬ表情を見せる。
それを見上げるのは、ひとりの男だった。肩まで伸びた金色の髪には所々白髪が混じる。精悍な顔に刻まれたしわは影を帯びており、男の心労を物語る。けれども太い眉の下の瞳は力強い光を宿していた。彼はオリジン像に背を向けると、白い法衣を翻す。
「何か、気にかかることがあるようだな」
髭を蓄えた口許から発された声は、深みのある声だった。
短く返事をしたのは、床にひざまずいた人物だ。深紫色の外套に身を包み、頭巾を被っている。持ち上げられた顔には、白い仮面を被っていた。腰には一振りの剣が下げられている。床に突いているのは、剣を使い慣れた固く大きな手であった。仮面の兵士と呼ぶに相応しき出で立ちである。
「……ご無礼を承知で申し上げます。その文書は、誠にテロメア様が送られたものなのでしょうか?」
躊躇に満ちた声音は高く、仮面の兵士の若さを示していた。法衣の男は迷いなく首を縦に振る。
「当然だ。私とテロメアだけにしかわからぬ暗号が記されている。疑う余地はない」
法衣の男は、折り畳まれた文書を見下ろした。文面は一見すると、遠く離れた親戚の近況を尋ねるものだった。しかし、この文章の中には古から決められていた暗号が散りばめられている。それと気づくのは、世界で法衣の男とテロメアただ二人だけであった。
法衣の男は文面から暗号を解読し、テロメアが伝えんとしたことを読み取った。訓練校の年間行事。娘の特徴。限られた文章で伝えられる情報はこの程度。作戦の内容と決行日はこちらで判断した。
「悪しき者を発見されたのならば、なぜテロメア様はお戻りになられないのでしょうか!? そもそもテロメア様は今どちらに」
言い募ろうとした仮面の兵士の前に、法衣の男は屈み込んだ。片手で仮面を掴み、自身の顔を近づける。
「お前の迷いを感じるぞ……。お前は事の真偽を追及したいのではない。娘に手をかけることを、無意識に恐れているのだ。違うか?」
仮面の兵士が息を呑んだ。薄く笑い、法衣の男は仮面から手を離した。
「お前の不甲斐ない姿を見て、神はお嘆きになる。お前は、神の尖兵としてこの世に生を受けたのだ。躊躇を捨てなさい」
「……は」
白い仮面が伏せる。兵士の背中に、法衣の男は言葉を降らせた。
「お前達が行うのは殺戮ではない。救いだ。お前たちの刃に貫かれ、娘は待ち受ける苦しみから解き放たれるのだ」
仮面の兵士の周囲を歩く。靴底が床を叩き、清閑とした空気を乱した。
「生きていても破滅しかない。悪しき者に巣食われた者は、時間が限られているのだ。ならば我々がせめて、安らかな死を与えてあげよう」
仮面に空いた穴から、瞳を覗く。そこにもう迷いはなかった。
「はい……私は愚かでした」
「よい。迷いは誰でも抱くものだ。我々は神の手であり足なのだ。そのことを忘れるな」
俯けていた顔を上げて、仮面の兵士は祭壇を見つめた。裾の長い法衣をまとい、太陽と月の装飾を施した杖を握った老神は、憂いを湛える。
「特徴は記憶したな? 小さな犠牲に構うことはない。必ず、悪しき者の首を取れ」
「お任せください。トゥルーズ様」
「出立したのか?」
「カイムか。──ああ。今発った」
下階から靴音を響かせて上がってきたのは、一人の青年だった。くすんだ色をした髪は、視界を遮らないように後頭部で一つにまとめられている。蛇のように細い瞳。眼差しは鋭く、白い肌と合わさるとどこか冷血さを感じさせる。魔獣の鱗を加工して作られた軽鎧が、鍛えられた身体を包んでいた。
「俺たちが行った方が、早く始末をつけられるんじゃないか」
「ならん。十年前の襲撃を忘れたか。お前たちにはこの聖堂の防衛という、大切な役目がある」
カイムと呼ばれた青年は、トゥルーズの荘重な声に、わざとらしく溜息を落とす。
「退屈なんだよ。ここに籠って、毎日鍛練の繰り返し。腕も鈍るってもんだ」
「お前の部下も、お前同様に有能な戦士たちだ。彼らと手合わせをしていれば、力量が低下することなどありはしない」
「わかってないな、親父。部下相手に本気を出せるわけないだろ。俺は実戦がしたいんだよ。血湧き肉躍るような、命のやり取りが」
「……トゥルーズ様、だ」
「いいだろ、ふたりきりのときくらい」
カイムは聖王神オリジン像を仰いだ。青年の横顔に、蝋燭の火が陰影をつける。
「なあ、親父。本当はテロメアの位置には、俺たちがいるべきだったとは思わないか。俺はずっと神の──あんたの役に立ちたかった。マーシャリアだってそうだ。俺たちなら、器の役割を果たせると思っていた。なのに……あの女は今、一体何をやっている? 天使の揺籃を破壊したのなら、早々に戻ってくればいいものを」
トゥルーズはテロメアの姿を想起した。今は二十代前半くらいの年齢に達しているだろう。襲撃時、もしものためにと敬虔な信者のもとに逃れさせたものの、以降の行動はトゥルーズにも予想がつかない。
「……我が始祖の知識を受け継ぎし者だ。我々には推し量れぬ、思惑というものがあるのだろう。実際、テロメアが行動を起こさなければ、ディーティルド帝国は今も死天使を生み出し続けていたはずだ。
鍛練に戻れ。神は己を高める者を愛される。何事も試練と思い、自己を厳しく律することを忘れるな」
カイムは苦々しげな表情で頭を掻くと、地下に続く階段へと消えていった。トゥルーズは、彼の背中を見送る。
***
螺旋階段が眼下に伸びている。トゥルーズは靴底を鳴らしながら降りていく。最下層には寒々しさを覚えるほど奥行きのある部屋が広がっていた。突き当りに位置するのは重厚な石の扉だ。両脇に控えた仮面の兵士たちは、二人揃ってトゥルーズに礼をする。
二人の兵士の手によって、扉が開いていく。トゥルーズは室内に足を踏み入れた。彼の背後で扉がゆっくりと閉まる。
壁に備えつけられた蝋燭が照らし出すのは、ひとつの巨体。天井に頭頂部を擦りつける顔は蛙に酷似している。人の肉と金属だけを必要とする口には、凶悪な牙が生えていた。長い腕だけが生える奇形の身体。灯に照らされてとろりとした光沢が浮かぶ硬質な鎧が、その身を包んでいた。迫り出した腹部は皮も肉もなく、硝子のような透明な膜に覆われている。──天使の揺籃。
今にも張り裂けそうに膨らんだ腹部は、発光する青い液体に満たされていた。胎内で羊水に抱かれるがごとく眠るのは、金属の骨組みを持った死天使。二十代前半の容姿をした男型だ。切り揃えられた金髪が、恐ろしいほど整った顔を縁取り、人工的な印象を強めている。白い肌に覆われた身体は、足先の構築を残すのみであった。銀の粒子が魚のように泳ぎ、死天使の指を形作っていく。
古の盟約により、悪しき者の再臨を待たずして兵器を造ることは禁忌とされていた。けれども、今回の粛清にはテロメアがいない。人間の力だけでは心許なかった。天使の揺籃を起動させなければ全滅する危険性がある。
「主よ。絶えざる光で我が子らの道を照らしたまえ」
トゥルーズはひざまずき、聖王神に祈る。神の代わりに彼を見下ろす天使の揺籃は、口だけを緩慢に動かしていた。




