07.ふたり【ルカ視点】
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かすかに扉を開くと、こぢんまりした室内が覗く。机と数脚の椅子だけが置かれたそこは、寝室兼談話室で勉強ができない者に用意された部屋だった。
窓から差しこむ陽の光を頼りに、ハイネは絵を描いていた。三脚に立てかけられた画布は、ほぼ着色が終わっているように見える。
ひとりぼっちの部屋の中で、筆を動かす音だけが聞き取れた。それはかすかな潮騒のようにも、葉の小さなざわめきのようにも思える音。
ルカが扉を開きった時、金具の軋みが閑寂を破った。
その瞬間ハイネは椅子から離れると、瞬く間にルカに肉薄し、持ち変えた筆の尻を首に突きつけた。どこか憑かれたような顔をしていた彼女は、ルカの姿をはっきりと認識したらしい。さっと顔を赤らめた。
危険な物を突きつけたことを恥じるように、背中に隠す。
「ルカ! ごめんなさい、わたし……」
「お前相変わらず用心深いな。もっと気楽に構えてろよ」
「音がしたから、怪しい奴かと思ってついやっちゃった。本当にごめんなさい!」
ハイネは大振りに頭を下げる。もういい、とルカが言うと、長い吐息を吐き出した。水を張った手桶の中で筆を洗う。彼女が描いていた絵に近づいて、ルカは見下ろした。
窓を背にした少女の絵だった。儚げに微笑む彼女は、茶色とも黄金ともつかない髪色をしていた。少女の頭の上には仕掛け時計があり、三時を指している。窓からは青空と花畑が一望でき、茜色や赤色をした花が咲いていた。白い翼の鳥が一羽、空を舞っている。
「すげぇ上手いな」
感じたままを口にすると、ハイネは照れ臭そうに微笑んだ。
「ありがとう。明日にでも送れるよ」
遠方に荷物を届ける際に利用されるのが、公共区に建設されている走送屋だ。訓練生たちが配達してほしい物を教官に提出する。教官が中身を確認し、走送屋に持ち込むのだ。手紙や小型の荷物なら伝書鳩が使用されるが、大きな物となると翼竜に騎乗した職員が届けることになっていた。
ルカたちの荷物が送り届けられるのは、大陸の中心に位置するブレイグ国の真下、イクスタ国にある孤児院だ。そこはルカたちの育った施設ではない。連絡の中継地点になっている場所だった。孤児院に届けられた荷物は、数日後に別の孤児院を経由して国に送られる。
「ルカは手紙書けた?」
「当たり障りのないことを適当に書いといた」
「ルカは手紙担当だからいいよね。毎回絵を描かなきゃいけないのは大変だよ」
「お前しか適任はいないだろ。俺の描いた絵、見たことあるよな」
「個性的な絵だもんね」
ふふふ、と柔らかく笑ってから、ハイネは木製の調色板に筆をつける。
「なあ、これアーティか?」
「うん。……確か、最後に見たのがこれくらいの年齢だと思ったから」
「俺が施設を出て、もう五年も経つのか……」
繊細な筆使いで描かれた少女が、ルカにアーティとの出会いを思い起こさせる。
五つの大陸で形成された世界。翼を広げた竜を横から眺めているような大陸群。その西。ファンダス国に、ルカたちが育った施設がある。
ルカが初めてその施設に足を踏み入れた時、胸に浮かんだ思いがあった。この場所は孤児院というより、病人を隔離する檻のようだ。
各国から特定の病を患った子供たちが集められ、投薬を受けながら時をすごす場所。彼らは家庭や孤児院から、金銭を引き換えに連れてこられる。ルカもそのひとりだった。
比較的症状が軽度の者が買い取られていたが、病の進行速度は個人差がある。病気が一気に進行し、命を落としてしまう者も少なくなかった。彼、または彼女らは施設の裏にある墓地に葬られた。
やがて、二年ないし三年の期間をすぎると、子供たちは外国の使者に連れられて施設を出ていく。帰ってくる者はひとりもいない。先生に尋ねても、堅く口を閉ざすだけだった。
それがルカたちにとっての日常。普通のことだった。だから、病状が急激に悪化していく者には極力近づかないようにした。彼らの哀れみを誘う瞳は、ルカを憂鬱な気持ちにさせる。子供ながらに、相手と距離を取って接した。すぐに断ち切れるうわべだけの人間関係を築くようにした。──いなくなっても、悲しくならないように。
『今日から新しくみんなの仲間になる、アーティよ』
痩せ細った女の先生が連れてきたのは、まだ四つか五つくらいの幼女だった。
(こいつもすぐに死ぬかもしれない)
ルカはそう思い、彼女の存在を記憶することを避けた。
アーティはなぜ自分がこの施設にいるのか、わかっていないようだった。親と碌に会話せぬまま売り飛ばされたのだろう。ルカと同じだった。
『ここはどこ? お父さんとお兄ちゃんは?』
『察し悪いな、お前。売られたんだよ、俺たちは』
何日も泣き顔で過ごしているアーティが鬱陶しくて、ルカはそう口走ってしまったことがある。彼女は琥珀色の瞳に涙を溜め泣き出した。口を大きく開けて、父親と兄を呼ぶ。
(お兄ちゃん、か……)
母親は、ルカが物心ついた頃に言った。この子じゃなくて、あんたが死ねばよかったのにと。ルカの下には二歳離れた弟妹が生まれる予定だったらしい。彼もしくは彼女は、母親の腹の中で死んだ。母親はそれをルカのせいにし、ことあるごとにルカに暴言を浴びせた。父親はそういったことに無関心だった。ほどなくして弟が生まれると、両親は呪われているルカよりも弟を溺愛した。
『……悪かったよ。これやるから、泣き止めよ』
ルカは庭先に咲いていたフェイヴァの花を、アーティの手に押し付けた。一輪の花を握り締めて涙を流し続けていたアーティは、泣き疲れて疲労が溜まったのか、それとも自分の境遇から逃げ出したくなったのか、気を失うように眠った。
それからアーティは、ルカの後ろをついて回るようになった。弱者を攻撃する趣味がないルカは、彼女を無下にできなかった。
現実を受け入れてからの彼女は、諦観したかのごとく振る舞うようになった。幼い顔にいつも浮かぶのは、寂しげな微笑みだ。そんな彼女が放っておけず接している内に、いつしかアーティは、ルカにとって庇護すべき存在となった。
それが三年後、急速に増悪し、点滴を手放すことができない身体になってしまったのだ。手紙でそれを知ったルカは、手段を選んでいられないことを知った。
椅子を手繰り寄せると、ルカはハイネの隣に腰かけた。背もたれに寄りかかり、頭の後ろで手を組む。
「ここの生活、どんな感じだ? 何か困ったことはないか?」
「普通だよ。心配してくれてありがとう」
ハイネは熱心に筆を動かしている。自分を語ることが苦手な彼女は、筆を使って自分の思いを描いているのだろう。それを証明するかのように、絵と向き合う彼女はどんな時よりも生き生きとして見えた。
「わたしはルカの方が心配だよ。あなたは優しいから、周りの面倒を見ようとするでしょう? 誰とだって打ち解けられるし」
「これでも気をつけてるんだけどな」
「そうかな。レイゲンたちといるルカ、とっても楽しそうだよ」
つきあいが長いと、本性を見透かされてしまうものだ。
いつ死ぬかわからない他者と、壁をつくって接していた子供の頃とは違う。ルカは自分を偽って他者とつきあうことが苦手なタイプだった。気が合う人間や信用に足る人間といると、どうしたって楽しいし、何か困っているなら手を貸してやりたい。
一方ハイネは、自分の大切なものとそうでないものには、明確に線引きができた。例えば今ここで、何の脈略もなく訓練生の誰かが襲いかかってきても、迷うことなく一蹴するだろう。命の危険が迫れば、殺害さえやってのけるかもしれない。
ハイネは出会ったばかりの頃とは、変わってしまった。
各国から特定の病を患った子供たちが集められる施設。しかしその年だけは、珍しいことに健康な子供が集められた。けれども彼らは一様に怯えた表情をしており、目が合えば慌てて顔を反らした。ハイネはその集団の一員として、施設にやってきたのだ。
『お前、今日から新しく入ったんだって? よろしくな。俺はルカ』
『わたしアーティ。お名前はなんて言うの?』
『……ハイネ』
ルカとアーティが声をかければ、ハイネは伏し目がちに答えた。なんて陰気臭い奴だろう。
『なぁ、なんでお前ら人の顔見ようとしないんだよ。なんかビクビクしてさ』
『……それはわたしたちが』
話を聞いて驚愕した。ハイネたちはルカたちと違い、特別な能力を持っていたのだ。
ハイネはよく笑う少女だったが、それは嫌われたくないゆえの愛想笑いだった。彼女は他人に嫌われることを異常なまでに怖がり、余計なまでに気を使った。
『ふたりとも、これ食べて。わたしお腹すいてないから』
『アホか。お前昼から洗濯当番だろ。そんなんじゃ身体もたないぞ』
『気を遣わなくていいよー』
『……で、でもわたし、これからもふたりに仲良くしてほしいから、何かしなきゃと思って』
『物で釣るなよ。お前鈍臭いからさ、これからも面倒見てやるよ』
『あ、ありがとう……』
他人との関係の築き方を知らず、どこか抜けた面がある彼女は、人の心を感じてしまうため傷つきやすかった。それでも気を許した相手には一途になる、温かみのある少女だった。
三人はずっと一緒だった。先生の八つ当たりが辛い日々も、互いに励まし合えば乗り越えられた。そんな暮らしが変化したのが、六年前だった。
ハイネと、同時期に来た子供たちが、施設から出ていったのだ。彼女たちはかつて施設から去っていった子供たちと同じように、外国の使者とともに馬車に乗って帰らぬ旅に出た。
ハイネたちは一体どこに行き、今何をしているのだろうか。先生たちにかじりついて聞いても、無視されるか悲しい顔をされるだけだった。
子供の数が減り、やがて日常が戻ってきた。アーティは寂しさに涙し、ルカはいなくなってしまったハイネの身を案じた。
そんな生活が、半年も過ぎた頃。
やがてルカと数人の子供たちを迎えに、外国から使者がやってきた。
その国に足を踏み入れたルカは、自分たちが何をされ、何をしなければならないかを知った。
『お前……ハイネか?』
ルカはひとりの少女と出会う。
確信があったわけではない。ただその少女の顔つきが、あまりにもかつてのハイネの表情に似ていたから。
少女は目を見開いて──今にも泣いてしまいそうに、顔を歪めた。
『わたし、色々変わっちゃったから……わかってくれなかったらどうしようって思っちゃった。この髪も、気持ち悪い色してるでしょう?』
『そんなことない。……綺麗な葉っぱの色だ』
『ルカ……ありがとう』
ハイネは、気弱な少女だったのが嘘のように強く、そして危うくなっていた。力を自覚し、少々のことでは動じなくなったが、その堂々とした態度は虚勢のようにルカには思えた。彼女は自身の強さに依存して、辛うじて現実に立っているだけだったのだ。
「どうしたの? ぼーっとして」
ハイネの声に我に返って、ルカは首を横に振った。
「昔のことを思い出してたんだ」
「……そっか」
ルカの言葉を皮切りに、ハイネは表情を曇らせた。彼女が施設にいた期間はルカより一年短い。施設を離れてからの生活は、悲惨極まりなかったのだ。翳りを帯びた顔は、それを物語る。
「……聞いてもいいかな」
「ん?」
話題を変えようとしたのだろう。ハイネは顔料を混ぜながら尋ねてきた。
「……リヴェンは、ルカのこと覚えてた?」
「いんや。俺は見た瞬間すぐにわかったけど、俺が売られたのはあいつが五歳になるかならないかくらいだからな。忘れてるだろ、俺たちが兄弟なんて」
「……そう」
「お前の方はどうだ? フェイヴァとは深い話したか?」
「してないし、できないよ」
尋ねられたハイネの顔は険しい。彼女がフェイヴァに複雑な感情を抱いていることを、ルカは知っていた。けれどもその感情をフェイヴァと共有することは許されない。
「あいつ、人の目を気にするところがあるでしょう? いつもにこにこして。……そういうの見てると、昔のわたしみたいで苛々する」
「ああ……」
「もっと自分に自信を持てるはずなのに、人間より自分を下においてる。最初は演技してるんじゃないかって思った。本性を隠すためにわざとああしてるんだろうって。……でも、たぶん違う。自分にあまりにも自信がないから、あんな態度を取ってるんだ。それを自覚しているのなら不幸なことだよ」
「そうかもな」
施設に来て間もない頃の、ハイネのように。
「わたし、あいつに昔のことを聞いてみたの」
「なんだ、ちゃっかり話てんじゃねーか」
「……少しだけ。そうしたらあいつ、言ったんだ。自分には記憶がないって」
ルカは耳を疑った。
「は? そんなわけないだろ」
「嘘を吐けるようには見えないから、本当なんだと思う。おそらく意図的に記憶を喪失させられてるんだ。なぜそんなことをされたのか、目的がわからないけど」
青空を舞う鳥に、ハイネは色を塗り重ねる。鳥は翼の純白を濃くしていく。
「あんなに感情豊かに喋る奴が、人間じゃないわけない」




