06.人の世界
フェイヴァと出歩けるのが嬉しいのか、テレサは張り切って都市の説明をしてくれた。
国に点在する都市は、国王によって任じられた都侯が治めている。都侯は農民に賦役や貢納を課したり、税を徴収する。治安維持部隊である守衛士を組織し、都市の秩序維持や防衛にあたのだ。これはグラード王国のみならず、他の国も採用している統治制度らしい。
各国の都市もまた、規模は違えど区画の数は同一だ。
まず、旅行者や狩人を出迎える玄関となる商業区。全ての商店がこの区画に集まっており、放浪者に欠かせない宿泊施設や劇場のような娯楽施設も建ち並んでいる。
次に教会や治療院など、生活に欠かせない施設が建設されている公共区。住民の住まいが広がる居住区。生産を担う家畜や農作物を管理している農地区である。
四つの区画は長距離の街道によって繋がっており、移動には主に馬車が利用される。
商業区の中心に伸びる大通りは、人でごった返していた。音楽に合わせて身体を揺らす者や、机で酒を飲む者、赤ら顔で言い争い、今にも拳を交えそうな者。千差万別だ。彼らの話し声は、吹き荒れる嵐の如く大音量になっているが、繊細な音色はフェイヴァの耳に確かに届いていた。無数の硝子玉の中で一際光輝く宝石のように、自ら魅力を主張する旋律だったのだ。
人の数の多さに怯んでしまったフェイヴァは、テレサの背中に隠れた。背後から視線を感じる。レイゲンが厳しい表情で自分を見ているのだろう。
フェイヴァたちは商業区を北に向かった。途中踊り子の行進に遭遇する。胸と下半身だけを覆うきらびやかな衣装は花弁を糢していて、健康的な肢体によく映える。くるりと身を翻すと、三つ編みにした髪が宙で揺れる。頭頂に留められた金属の花飾りが、優雅な踊りによって角度を変えながら陽光を照り返していた。
「今日は芸術祭だったのね。懐かしいわ」
「……知ってるの?」
「これは、国中で行われる祭典なのよ。グラード王国は高名な画家や音楽家、歌手や舞い手を数多く育成しているわ。芸術祭はそういった表現者たちが活躍するために、百年ほど前から催されているものなのよ。私は十三歳の頃、この国の夫婦に引き取られたの。ときどき勉強の息抜きに屋敷を出て祭を見て回っていたわ」
テレサの穏和な横顔は、過ぎ去ってしまった穏やかな過去を思い描いているようだった。
「少し見て回りましょうか。露店の食べ物は、安宿の食事より美味しいと思うわ」
「本当!?」
「駄目だ」
レイゲンに即答され、フェイヴァの喜びは瞬く間にしぼんだ。後ろからついてくる彼を、テレサは苦々しげな顔で見る。
「たまには芸術を鑑賞するゆとりを持つべきよ。生き急いでもどうにもならないわ」
「適当なことを言うな。お前たちは自分が監視される立場であることを理解していないようだな」
「よーく理解しています。レイゲンはもう少し寛容になるべきよ。だから顔がいいのに、彼女いない暦と年齢が比例して」
「黙れ白髪女」
フェイヴァはしばし不安を忘れて踊りに見入っていた。が、頭上から不安定な空気の流れを感じ取って仰天した。慌てふためいて後ろに転倒すると、頭に何かが落ちてくる。
「ひぇっ!? 何っ?」
手で払い落としたものは花弁だった。
見上げると、四階建ての商店の窓を開けて、年若い母と幼子が色とりどりの花弁を振り撒いている。母子だけではない。住民たちは片手に花弁を入れた籠を持っており、踊り子たちに振りかけている。花弁の舞いに包まれた踊り子は、薄化粧が施された顔を喜色に輝かせていた。
「びびび、びっくりした」
「……大丈夫よ。ここにはあなたを傷つけるものは何もないわ」
テレサはフェイヴァを助け起こすと、泥で汚れた衣服を手で払った。
椅子に座って、あるいは立ったままで酒を酌み交わす人々は、心地よい音楽ときらびやかな舞いに酔って周囲を見ていない。フェイヴァもテレサも、千鳥足の酔っ払いにぶつかりながら衣服屋を目指した。濃い酒の匂いに、テレサは顔をしかめていた。
「ここにしましょう」
宿から出て二十分ほど経っただろうか。テレサは立ち止まった。白い煉瓦の店を見上げる。窓枠や扉には細かな装飾が施されていて、洗練されている印象を受けた。
店先を掃いていた店員は、フェイヴァとテレサに顔を向けると、頭を下げた。テレサはフェイヴァの手を引くと、弾んだ足取りで店に向かう。肩にかけられた鞄も彼女の気持ちを反映したように弾んでいる。しかし、フェイヴァは抵抗感を拭えなかった。
「本当に入るの?」
「……嫌なのね。なら、外で待っている?」
人が利用する店の中に、自分がいるのは場違いな気がする。テレサは言葉にせずとも察してくれた。フェイヴァが深く頷くと、彼女は気落ちを感じさせる溜息を吐く。フェイヴァと一緒に買い物を楽しみたかったのだろう。彼女に悪いと思いながらも、フェイヴァは母の背中を見送った。
後ろから、声高に騒ぐ酔っ払いの集団が歩いてくる。フェイヴァは隠れなければという思いに駆られ、あたりに目を走らせた。テレサが入っていった衣服店と隣の店の間に、細い脇道がある。迷わず駆けこんだ。
狭いけれど人の目を感じさせない道に、ほっと息を吐いたのも束の間。存在を忘れていたレイゲンが脇道に入ってきて、フェイヴァは目を見開いた。後退した足が滑る。フェイヴァは勢いよく転んでしまった。
「ひゃっ!? くぅ~!」
フェイヴァの口から飛び出した珍妙な声に、レイゲンは口を半開きにし動揺を覗かせた。
「お前は一体なんだ」
「私にもわかりません。……お母さんについていかないんですか?」
「なぜ俺が女物の服屋に入らなければならん。それにお前をひとりにすれば、どんな行動をするかわかったものではないからな」
腕組みをし、レイゲンは冷たい眼差しでフェイヴァを見下ろしてくる。背の高さも相俟って、威圧的ですらあった。
死天使というだけで、人を傷つけると決めつけられるのは悲しい。どうにかしてわかってもらえないだろうか。フェイヴァは真剣な眼差しで、レイゲンを見上げる。
「私は誰も傷つけません」
「そんな言葉を信じると思うか」
「どうやったら信じてもらえますか?」
「お前のことを信用するつもりはない」
「そ、そんな! ……この、わからずや!」
衝動のまま口走ってしまって、フェイヴァは口許を押さえた。長い睫毛に縁取られたレイゲンの瞳が、鋭さを増す。
「す、すみません! 言い過ぎました! あなたはわからずやじゃありません! ……ただちょっと顔が怖いだけです」
「……いい加減にしろ」
図星を指したのだろう。レイゲンは低音で凄んだ。彼の明らかな怒りを感じ取り、フェイヴァは自分の身体が矮小になっていくような錯覚をする。
フェイヴァが口にした通り、レイゲンは顔つきがよろしくない。怒りを秘めたように険しい瞳。かすかにさえ笑わない唇。これではどんなに秀麗な容貌も、厳しく冷淡な印象を与えてしまう。
彼を見ていると、フェイヴァは森の中に深々と降る雪を連想するのだ。積もった雪は白く地表を覆い凍てつかせてしまう。草も木々も凍ってしまうほどの冷気に包まれ、大地は永遠に春を迎えることはない。
「お前は反帝国組織の命令以外で人を害することは許されない。わかっているだろうな」
「はい。私だって、自分だけのために人を傷つけることはできません。まだ傷つけてもいないのに、そんな目で私を見ないでください」
レイゲンは不快げに眉を寄せた。苛立ちを募らせているのがわかる。人の情を感じさせる言葉を機械が発しているのが、我慢ならないのだろう。
自分は彼に化物として見られている。直感はフェイヴァの中で確信となった。
「お前の言葉は耳障りだ。それ以上喋るな」
人々の喝采と穏やかな喜びで満たされた大通りと違い、脇道には冷えきった静寂が横たわった。フェイヴァは肩を落とす。こんなことになるなら、テレサについていくべきだった。
「……レイゲン。どうしてついてこないの」
突如かけられた声は、フェイヴァにとって光明に思えた。テレサが引き返してきて、脇道から顔を覗かせていたのだ。レイゲンのそばから離れたフェイヴァは、彼女に駆け寄る。
「お母さん。私も一緒に行く」
「レイゲンに酷いことを言われたのね。こんなに可愛い子を捕まえてなんてことを言うの」
「人間でないものが人間の言葉を喋れば、こう反応するのが当然だ」
「……あなたは他の人とは違う。フェイの気持ちがわかるはずよ」
「俺はこいつを理解できんし、するつもりもない」
テレサは深く長く、吐息を吐き出した。瞼を閉じた横顔が憤りを感じさせる。
「レイゲン。私にはあなたの過去が読めるわ。あなたがこれ以上フェイを傷つけるというのなら、私にも考えがある」
レイゲンの瞳が大きく見開いた。次には悔しそうに歯を噛み締める。
テレサは対照的に、透き通った水を思わせる顔つきをしていた。冷静でいて、くすぶる火種のような怒りを宿した双眸。彼女の顔を見続け、秘めた過去を深く探られるのを恐れたのだろう。彼はフェイヴァたちに背を向けた。
テレサの手が素早く伸びる。彼女はレイゲンの背中に、服屋から持ってきた張り紙を貼りつけたのだ。紙面にはこう書いてある。
『女装が大好き』
文面だけを見れば、レイゲンの隠された性癖を掲示しているように思える。張り紙には破った跡があり、テレサは後ろ手に握っていた紙をフェイヴァに見せた。『な方も大歓迎!』
すっとしたわ、とテレサは声に出さず口だけを動かした。何も知らずに自分たちから距離を取るレイゲンがおかしいのだろう。込み上げる笑みに形のよい唇を歪めて、レイゲンの背中を指差した。
「う、ふふっ」
フェイヴァはつい笑ってしまって、片手で口許を押さえた。