12.かけがえのないもの◇
フェイヴァの頭上を跳び越え、駆けていく少女の姿があった。緑青色の髪を振り乱し、鎧の重さを感じさせない身のこなしはまるで疾風。【絶壁】に肉薄しざま、彼女は両手で掲げていた大剣を叩きつけるようにして振り下ろした。刃は首の肉を深く抉り、熊は苦悶の呻きをもらす。
「ルカ、大丈夫!?」
ハイネは大剣を構えたまま、足下に倒れているルカを気遣った。フェイヴァの目から見れば、後ろ姿のハイネがどのような表情をしているかは見えない。けれども、ルカを最も大切に思う彼女のことだ。怒りに燃えた眼差しを敵に向けていることは容易く想像できた。
「あんま熱くなるなよ。少し油断しただけだからな」
ルカは地面に落ちていた自分の大剣を手に取った。痛みを堪える様子もなく立ち上がる。彼の言う通り、大事には至らなかったようだ。鎧の胸部には熊の爪跡が刻まれていた。
肩越しにルカの様子を確認したハイネは、安堵したのか柔らかな笑みを見せる。敵に顔を向け、跳びかかろうとしたその時──グレイシャーが猛々しく吠えた。口内に集束した光が黄緑色に輝く。
「よそ見してんじゃねえ!」
リヴェンの怒鳴り声に正面に目を向ければ、接近していた熊がフェイヴァに前脚を振り下ろしたところだった。
ルカたちに意識を取られていた。避けるだけの時間は残されていない。フェイヴァは瞳を固く閉じた。
グレイシャーの絶叫が響き渡った。フェイヴァは瞳をうっすらと開け、そうして自分の身体に影が被さっているのを知った。
「レイゲン、さん……」
正面に立ちふさがったレイゲンが、熊の首を深く斬り裂いていた。
「剣を取れ。戦いはまだ終わっていない」
フェイヴァを後ろから襲おうとしていた【地を弾む】は、銃撃を受け仰け反った。木立の間から姿を見せたのは、ユニとミルラだった。二人揃って斜面を滑り降りてくる。
フェイヴァはルカたちの身を案じた。首を巡らせると、ふたりと相対していたグレイシャーの電撃はすでに放たれていた。下生えは燃え尽き、炭と化した樹木が崩れ落ちる。熊から距離を離していたルカとハイネは、言葉を交わさず目で示し合うと、二手に別れ木の間を縫うようにして駆け出した。地を蹴り幹を足場にすると、左右から熊に刃を振り下ろす。
(……皆)
助けを喜んでいる場合ではないのに、フェイヴァの心には喜びが満ちた。胸に灯った火のような温かさは、失意と嫌悪に縛られていたフェイヴァの精神を、解きほぐす。
「はい!」
フェイヴァは大剣を地面から引き抜くと、レイゲンの隣に立って武器を構えた。
レイゲンは地を蹴ると、彼の身長を越えるグレイシャーの首に大剣を振り抜いた。肉は二度の斬撃でズタズタになり脊椎が覗くが、頭部と切り離していないせいで傷は瞬く間に再生し始める。熊は野太い悲鳴を発し、口腔に光を集束させた。
電撃放射を放とうとした顔が、激しく揺れた。ユニたちが撃った散弾が顔面に直撃し視覚を奪ったのだ。痛みに怒りを覚えたのか、繰り出された前肢をフェイヴァは前に跳んで避ける。上半身を捻ると大剣を斜め上に振り上げた。何度も斬撃を受けた脊椎は、フェイヴァの一撃に耐えられず完全に断たれる。血糊を散らして頭が転がった。
グレイシャーが死亡したのを確認したレイゲンは、残る敵の排除に取りかかった。戦闘で生じた緊張と危機から救われた幸福感により、フェイヴァは反応が遅れてしまう。気づいたときには、レイゲンはこちらに向かってきていたスライトの群れに駆け出していた。
接近し、流れるような動作で大剣を左に構える。そのまま腰を落とし、斜め上に斬り上げた。その剣圧はすさまじく、周囲の下草を散らせ、離れた場所にいるフェイヴァの髪を強く揺らすほどだ。一匹のスライトは首を刎ねられ、吹き飛ばされた。
レイゲンは更に踏み込み、半身を捻る。跳びかかってきた一匹に返す刃で斬り払った。鼠は歯を剥き出しにする暇もなく、的確に頭を斬り落とされる。左手を地について疾走の勢いを殺した彼は、地を蹴ると跳び上がった。空中で一回転し、大剣を突き出す。狙いを定められた鼠は、身動ぎする時間さえ与えられずに、首を縫い止められた。着地したレイゲンは、鼠の首を貫いた大剣を引き抜くと血を払った。
(すごい……。こんなに速く三匹もの魔獣を片づけてしまうなんて)
フェイヴァは改めてレイゲンのすさまじさを実感した。自分の力を最大限に引き出して戦ったように見えるが、違う。死天使を相手にし、傷ひとつ負わなかった彼だ。グレイシャーの首を斬ったときも、レイゲンの腕なら一撃で骨まで砕くことができたはずだ。小型の魔獣程度なら、蹴りの一撃だけで頭を吹き飛ばすことだって可能だろう。それを、周囲の目を考慮して訝しまれない程度に力を抑えている。レイゲンが見せたのは、その強大なる力の一片に過ぎない。
(私も頑張ろう)
もっともっと強くなろう。レイゲンに及ばずとも、彼と肩を並べて戦えるように。決意を込めて、フェイヴァは大剣の柄を握り締めた。
既に二匹のスライトを仕留めていたリヴェンは、レイゲンに助けてもらったことが気に入らないのか、不快感を顔に露わにしていた。斬り落とした鼠の頭を、八つ当たり気味に蹴飛ばす。
「なんだテメェ、俺はひとりでも余裕なんだよ。しゃしゃり出てくんな」
「大層な口を叩く割には、こんな小型に時間を取られ過ぎているように見えるが」
「あぁ!? この俺が本……」
何か言いかけたリヴェンは、舌打ちをすると口をつぐんだ。怒りに任せて魔獣の胴体を蹴りつける。
(リヴェン、レイゲンさんに噛みつくなぁ)
世界中から優れた能力を持つ者を集めている、ウルスラグナ訓練校。その中でレイゲンは特別に背が高いわけではない。けれどもその実力は頂点に君臨しており、教官たちからも期待されている。そんな絵に描いたような優等生のレイゲンが、リヴェンは気に食わないのだと、以前ルカが話してくれた。
(背が低いことも気にしてるみたいだって、ルカ言ってたな)
リヴェンを励ますことで、レイゲンに対する認識を改めるきっかけになるなら。フェイヴァは二人に駆け寄った。
「リヴェン、背を伸ばすには魚の骨がいいんだって。今度食事に魚が出たら、骨だけ外してリヴェンにあげるね!」
「いきなり割って入ってきて何言ってんだテメェ! 新手のいじめかよ!」
(……怒られちゃった)
フェイヴァは肩を落とし溜息を落とした。
「お前ら、俺らのことは心配もしないのかよ」
グレイシャーを仕留めたルカとハイネが近づいてきた。後ろに続くユニとミルラは、銃を持ち上げ留め具の確認を行っている。
「助けが必要そうには見えなかったからな」
「いや、結構大変だったぜ。それにしてもやっぱりお前はすごいな。三匹を瞬殺かよ」
「周りを見る余裕があるのに、結構大変だったのか」
レイゲンに冷静に返されて、ルカは苦笑いを浮かべる。
背中の帯に散弾銃を固定したユニが、一歩前に踏み出した。海を映した瞳は憧れに煌めいている。
「レイゲン……かっこよかったよ」
「ルカの方がずっとかっこよかった」
「お前便乗すんなって」
レイゲンが言葉を返す前に、ルカに向き合ったハイネが頬を染めてそう言った。ルカに一言突っ込まれる。
ユニがむっとした表情でハイネを見やり、その後ろでミルラがつまらなさそうに爪先で地を叩いていた。
***
木々の間を、レイゲンとリヴェンを先頭に駆け抜ける。小型の魔獣は二人が斬り伏せ、フェイヴァたち五人は彼らが討ちもらした魔獣を相手にした。
魔獣の襲撃が途絶えたのは、終着点である門扉が見えてきた頃だ。
視界を遮っていた木々はわずかになり、望洋とした空が見渡せた。到着予定時刻を大分過ぎてしまったようだ。遠方の山々が逆光により黒く染まり、太陽が沈み始めていた。どっしりと構えられた煉瓦造りの防壁が、夕焼けに染められ飴色に輝いている。空に滲む茜色が、目に染みるほど眩しい。
「ねぇ、サフィはどうしてるの?」
彼の姿がないことに不安を覚えていたフェイヴァは、ユニやミルラを振り返って尋ねた。もしも大怪我を負ってしまっていたら。
「大丈夫。足を怪我してたけど、大したことじゃない。水医に見せれば一日で完治するよ」
ユニとミルラが答える前に、口を開いたのはハイネだった。フェイヴァは前を行くハイネとルカに身体を向けた。
「酷い怪我じゃないんですね? ……よかった」
フェイヴァはほっと溜息を吐いた。後で心配をかけたことを謝らなければ。
周囲に魔獣の姿がないことを確認して、フェイヴァは立ち止まった。まだ皆に助けてもらった礼を言っていなかったのだ。六人はフェイヴァが足を止めたことを知らずに歩き続けている。木々の間から差し込む夕日が、下生えに降り注いでいた。
言葉を発しようとしたフェイヴァは、以前も同じような経験をしたことを思い出した。
(ディーティルド帝国の兵器開発施設から脱出して、反帝国組織に助けられた時だ。私、あの時兵士の人たちにお礼を言ったんだ)
返ってきたのは、困惑と戸惑いを露わにした眼差しだった。中には嫌悪を浮かべている者もいた。普通の人間のように受け入れてもらえると期待していたわけではない。けれども、彼らの瞳と自分の気持ちに越えることのできない隔たりを感じ、フェイヴァは悲しみを覚えたのだった。
過去を想起し沸き上がった苦い気持ちを、フェイヴァは内心で振り払った。今、フェイヴァが向かい合っているのは、フェイヴァと関わりがない兵士ではない。短い間ながらも勉学をともにした友人たちなのだ。
「みなさん、助けに来て下さってありがとうございます。迷惑をかけてごめんなさい」
フェイヴァは勢いよく頭を下げた。みんなはどんな反応をするだろう。それを思うと怖くて、顔を上げることができなかった。
「別にあんたのためじゃないよ。わたしはルカを助けたかっただけ」
ハイネならそう言うと思った。予想していた答えが返ってきて、どこかほっとする。
フェイヴァがゆっくりと姿勢を正すと、恐れていたものとは違う表情が迎えてくれた。
「頭下げないでよ。相変わらず堅苦しいんだから」
「うん。フェイが無事でよかった」
ユニとミルラは曇りのない微笑みを浮かべている。フェイヴァの視界が涙でにじんだ。
ディーティルド帝国の兵器開発施設で目覚めてから。フェイヴァは、兵士たちの人ならざる者を見る眼差しに晒されてきた。どこか恐怖さえ滲んだ瞳を目にするたびに、フェイヴァは自分が他人に受け入れてもらえることはないのだろうと、思わざるを得なかった。テレサと暮らし、レイゲンと親しくなっても、その暗い思いはフェイヴァの中から消えなかったのだ。
けれども、フェイヴァの生活は変わった。最初は不安でしかなかった、兵士養成学校での暮らし。それはフェイヴァにかけがえのないものをもたらしたのだ。
こんな自分でも、誰かに受け入れてもらえるという事実を。
「嬉しいよ……。皆、本当にありがとう」
「俺はお前のことを心配していない。迷惑をかけるな」
それまで無言でいたレイゲンがそう口にすると、ルカが彼の頭を叩いた。彼の突飛な行動が予想できなかったのだろう。いてっ、とレイゲンらしくない声を上げる。
「なーに言ってんだよ。どうせいても立ってもいられずに出てきたんだろ?」
「色気づいたガキか、テメェは」
リヴェンの言葉が気に障ったらしい。レイゲンは眉間に皺を寄せる。
「黙れ、このチビが」
「テメェはデカすぎんだよ! 背ばっか伸びて脳まで筋肉野郎が!」
「やめろって」
レイゲンが一言嫌味を言うと、リヴェンは倍の数の暴言をぶつけてくる。止めるルカも大変だ。
フェイヴァはうなだれた。レイゲンがこんなに苛立つということは、おそらくユニとミルラに説得されて嫌々助けに来てくれたに違いない。
フェイヴァは人間ではない。助けてもらえて当然だと思うことは、あまりに傲慢だ。けれども少し悲しかった。
「……ごめんなさい。今後はこのようなことがないように気をつけます」
「期待している」
レイゲンはそれだけを答えると、足早に去って行った。
「あいつ、素直じゃないよな。な?」
近づいてきたルカが、肘でフェイヴァを突ついた。鈍く伝わってきた衝撃に、フェイヴァは顔を上げる。
「ごめんね。今少し落ち込んでるの」
「お前、あいつの言う通りに受け取ったのか? 察し悪いよなぁ」
「う~ん?」
ルカの言わんとすることが理解できず、フェイヴァは首を傾げる。
「ルカも早く素直になってね」
「ん? 俺は自分の気持ちに正直に生きてるぞ」
「なら、もっと周りを見て。……あなたを、想っている人がいることに気づいてほしいの」
ハイネは恥ずかしげに視線を落とす。ルカはきょとんとした顔をすると、周囲を見回した。
「え? そんな奴いるのか?」
「ルカも人のこと言えないよ……」
「おい、そこのふたり! 見苦しいから人がいないとこでやれや!」
「リヴェン、嫉妬してるの? 男の嫉妬は醜いよ」
「あ? んだとこの海藻女! ぶっ飛ばすぞ! いってぇ!?」
ハイネとリヴェンの不毛な言い争いに終止符を打つために、ルカがリヴェンの頭部に鉄拳を振り下ろした。
それを見たミルラが笑う。フェイヴァも三人のやり取りを微笑ましい気持ちで見つめた。ふと、背後から視線を感じて振り向く。
ユニがひとりだけ笑っていなかった。微笑むと華やかな印象になる顔は伏せられ、唇を噛み締めている。
「ユニ、どうしたの?」
フェイヴァが駆け寄って話しかけると、彼女の表情が更に曇った。
「フェイ……。アタシ今、話したくないの」
傍らを通り過ぎていったユニに、フェイヴァは瞳を瞬いた。さっきまで笑ってくれていたのに、何があったのだろう。
「気にしなくていいよ。ユニ、ちょっと落ち込んでるだけだから」
ミルラがフェイヴァにそう声をかけ、ユニのそばに駆けていった。フェイヴァは困惑しつつふたりの背中を目で追う。
***
ウルスラグナ訓練校の練習場には、試験をやり遂げた生徒たちが集合していた。怪我を負った者はいたが、幸いにも死者が出ることはなかった。整列し、試験結果発表を聞くみんなの表情は、心なしか誇らしげである。この経験を経て、訓練生たちは戦いの心構えと自信を育んだのだ。
一位を獲得したのは、フェイヴァが予想した通りレイゲンとミルラの班だった。
「ちっ、クソが」
フェイヴァの後ろで、リヴェンが土を蹴り上げる音がする。壇上からロイド教官の怒号が響いた。




