08.わたしのせいにすればいい◆
◆◆◆
「フェイヴァ!?」
悲痛な悲鳴を響かせた少女は、意識の糸が途切れたように気を失ってしまった。
サフィはフェイヴァの足に歯を突き立てている猿型の魔獣に大剣を振り下ろした。持ち前の敏捷さで飛び退いた【酩酊する刃】には当たらず、刀身は地面に刺さる。
足を踏み締めると焼けるような痛みが走った。サフィは顔をしかめたが、苦痛に悲鳴を上げることはなかった。入学した当初は一発殴られるだけで怯んでしまっていたが、教官のしごきや連日行われる対人戦を経て、痛みにある程度耐性を持つことができたのだった。
サフィは倒れたまま動かないフェイヴァと、今にも襲いかかってきそうな【酩酊する刃】と【絶壁】を見た。
(フェイヴァが気がつくまで時間を稼がないと)
フェイヴァの前に足を踏み出すと、大剣を地に突き立ていつでも握れる状態にした。腰の帯に吊っていた散弾銃を抜く。瞬間、地を弾んで猿が近づいてきた。サフィは咄嗟に無事な方の足で猿の腹部を蹴りつける。足の裏に伝わってくる鈍い衝撃と肉の柔らかさ。猿は絞り出すように鳴いたが、怯む様子はない。肩から刃を外し、それを振るう。旋回する刃に集中し、サフィは転がって避ける。ここに来るまでに装填は終えていた。狙いを定め引き金を引く。
撃ち出された散弾が見事命中し、顔面を血塗れにする。死角が瞬く間に暗闇に染まり、アンダニムは困惑したようだった。
サフィは散弾銃を足下に落とすと、大剣を抜いた。止めを刺そうと、痛む足に鞭打って駆ける。
視界の端に、黄緑色を捉える。猿の後方に留まっていた熊が、口内に光を集中させている。激しい音を立て火花が散る。
(──不味い!)
地を走りながら迫ってくる電撃だ。ほんの少し足を動かしたからといって避けられるものではない。
グレイシャーが口の中に集束させた光の瞬きが更に強くなる。次の瞬間には、その口内から人の身体を焼きつくす雷撃が放射されるのだろう。
サフィは立ち止まり、フェイヴァを助けるため戻ろうとして、もうそんな猶予さえないことを悟る。
最期に見るものが、不気味な魔獣の口だなんて。
サフィの脳裏に、ユニの可憐な微笑みが浮かぶ。せめて瞼を閉じた暗闇の中だけでも、幸せな気持ちでいたい。
弾が撃ち出される激発音が、木々の間を突き抜けていった。
その音に瞳を開ければ、サフィに向かって雷撃を発射しようとしていた熊が、前にのけぞっていた。口内で渦を巻いていた光が消失している。
銃撃されたのだ。一体どこから。
顔を巡らせたサフィの目に飛び込んできたのは、グレイシャーの後方で散弾銃を構えるユニの姿だった。銃口からは硝煙が立ち上っている。彼女が引き金を引いてくれたおかげで、魔熊の攻撃は阻まれたのだ。
ほっとしたのもつかの間、アンダニムが驚異的な跳躍力で宙に跳んだ。サフィは大剣を振り抜くと、打ち下ろされた右腕を斬りつける。
痛みに反応したのか、グレイシャーはユニに向かって高らかに吠えた。尻に穿たれた銃創から散弾が放り出され、塞がっていく。
グレイシャーが駆け出した。土煙を巻き上げながらユニに接近する。彼女の後ろから飛び出した人物が、熊に向かっていく。
ハイネだ。彼女は通りすがりざま熊の胴を斬り払う。鮮血が吹き出すが、彼女にかかることはない。
「ねえ。こっちはわたしがどうにかするから、あんたはその猿を始末してよね」
「アタシたち、でしょ!」
叫んでいるわけでもないのによく通るハイネの声に、ユニの張った声が被さる。
ユニが撃った銃弾はグレイシャーの目を押し潰した。熊の後ろに回り込んだハイネが、大剣の刃を走らせる。
加勢したいのは山々だが、今は目の前の敵に集中しなければ。サフィは大剣を構えた。ぱっくりと開いた右腕が、血を滴らせながらも塞がっていく。アンダニムは後ろに距離を取ると、肩から刃を外し振り投げた。足を強く地に押しつけると、痛みに汗がにじむほどだ。挫けそうな気持ちを振り払い、サフィは大剣で刃を弾いた。旋回した刃が持ち主に戻る前に、距離を詰める。大剣を前に突き出して、アンダニムの首を捉えた。猿は身を震わせると、首から噴出する血とは反対に、動きを止めた。
サフィは荒く息を吐きながら、ハイネたちに視線を転じた。
途端、視界に広がったのは血塗れのグレイシャーの顔だった。瞬く間に肉薄してきた熊をサフィは避けようとするが、足の痛みに転倒しかけた。前脚がサフィめがけて振り被られる。
「右に跳んで!」
ハイネの指示に従って、サフィは右に跳んだ。叩きつけられた前脚が地を陥没させる。
熊から距離を取り体勢を立て直したサフィは、巨体の後ろ脚から迸る赤黒い血を目撃した。グレイシャーの後ろ脚を斬り払ったハイネが、その巨躯を足がかりにし熊の背に跳び乗る。首に大剣を振り下ろすが、頭部までを覆う鱗に防がれた。
サフィは立ち上がると、ハイネに加勢するために熊に駆け寄る。
ハイネを振り落とそうともがいていたグレイシャーは、背後からユニの銃撃を受け怯んだ。サフィは熊の顔の横で足を止めると、鱗の境目を狙い大剣を突き出した。わずかな隙間から突き通した刃を、すかさず上に振り抜いた。鱗が剥がれ落ち、露わになった肉から血が吹き出す。
「ふぅん、やるね」
ハイネは感心したように、サフィと同様のやり方で首の鱗を外しにかかった。間髪を入れずに大剣を薙ぐ。
上と下から首に刃を受けて、熊の身体は激痛に痙攣する。
「あんた、男でしょ。もっと力込めてよ」
「も、もう無理、だよ……」
首の肉に刃を食い込ませたはいいが、骨を断つまでには至らない。ハイネはサフィに期待を懸けるが、サフィはすでに疲労が限界に達しており、大剣を支えるだけでやっとだった。
ハイネが吐息を落とした。それはもう少しで敵に止めを刺すことができるのに、という焦燥からくるものではなく、単純な歯痒さを思わせた。
大剣を引き抜いたハイネは、
「──はっ!」
振り上げた刃を、両の手に力を込めて振り下ろした。一太刀で骨まで到達し、わずかな肉で繋がった頭が地面に落ちかける。次いで後頭部に踵が落とされた。頭部の重量で千切れ始めていた肉が、蹴りの衝撃で完全に断たれる。赤黒い目を剥き出しにして、グレイシャーの頭が落下した。サフィは崩れてくる熊の身体から逃れようとして、倒れ込む。
「もっと体力つけた方がいいよ」
「そうだね……」
魔熊の背から滑り降りてきたハイネに言われ、サフィには返す言葉がなかった。膝をつき少しでも体力を回復させようとする。彼女は両手で血のついた大剣を払った。刀身に付着した血が飛び散る。
(すごい……。女の子なのに、あんな巨大な魔獣を)
ハイネの横顔にさえただならぬ迫力があって、サフィは言葉を失う。
戦いの主導権を握っていたのはハイネだった。筋骨隆々の身体つきで顔だけ女にすげ替えたような女子なら話はわかる。が、彼女の背丈はサフィより低く、身体つきも少女らしいのだ。そんな肉体のどこに、男子を上回る体力が秘められているのか。
病弱な母の元で育ったサフィは、昔から女は庇護されるべきか弱い存在だと思っていた。だが、ウルスラグナに入学してから自分の中にあった常識が、覆りつつある。
(きっと、ハイネがすごいんじゃない。僕の体力がなさすぎるんだ。彼女は僕よりも実技成績がよかったんだっけ。……フェイヴァだって、僕とあんまり変わらない成績なのに、必死に僕を助けようとしてくれて)
気を失ったフェイヴァのことを思い出して、我に返ったサフィは立ち上がった。その途端頭に鈍い痛みが走る。
「いったー……サフィ、大丈夫?」
サフィが物思いに耽っている間に近づいてきたのだろう。ユニが顎を押さえて涙目になっていた。彼女はサフィよりほんの少し背が高い。サフィが唐突に立ち上がったものだから、ぶつかってしまったのだ。
「ご、ごめん! ユニの方こそ大丈夫?」
(涙を我慢してる顔も可愛いな……)
「ええ、平気よ。ちょっとびっくりしただけ」
ユニはそう言って、柔らかく微笑む。彼女の笑みは温かく、見る者を清らかな気持ちにする。神話に登場する恋天使は、きっとこんな微笑を浮かべるのではないだろうか。
「そういえばフェイは? 一緒の班だったわよね」
ユニの後ろに、フェイヴァに近づいていくハイネの姿を見つけて、惚けている場合ではないとサフィは走り出した。
ユニはサフィを目で追い、フェイヴァを視界に入れたのか駆け寄ってきた。
「寝てるの、こいつ」
「違うよ。魔獣に噛まれて気を失っちゃったんだ」
ハイネはフェイヴァから歩幅三歩分ほど離れたところに立って、彼女を見下ろしていた。早口に答えたサフィは、フェイヴァのかたわらに腰を落とす。フェイヴァの太股には赤く歯形が刻まれていた。
サフィは傷口に手をかざす。
サフィの持つ水の能力は、傷を治癒することができる。自身の精力を分け与え、相手の治癒能力を高めるのだ。瞳を閉じ、精神を集中する。サフィの掌が淡く水色に輝き始めた。瞼の隙間から、ほのかな光が差し込んでくる。
疲労感が肩にのしかかる。大きく息を吐き出して、サフィは瞼を持ち上げた。これで傷は塞がったはずだ。
しかし、予想していなかったことに、フェイヴァの傷口は一切の変化を見せていなかった。血がぬらぬらと光っている。
「な、なんで……力が使えないなんて」
原因がわからず目眩がした。足が震えて、後ろに倒れそうになる。小さな頃からずっと発現してきた力なのだ。こんなことは今まで一度としてなかったのに。
「戦闘後の興奮のせいで、上手く精神集中ができないんじゃない?」
ハイネの言葉に、サフィは自身の震える手を見つめた。確かに、興奮と言ってよいのかわからないが、自分は今心乱れている。いつどこから魔獣が襲ってくるか分からない、平穏とはほど遠い環境。
ハイネは荒々しく歩き出し、フェイヴァに近づいた。足下に散乱していた落ち葉が散って、フェイヴァの太股のみならず傷口にまで付着した。フェイヴァ自身の血によって、葉は傷口に張りつく。
ハイネはフェイヴァの鎧を掴み、上半身を浮かせた。人を介抱しているとは思えない乱暴ぶりで身体を揺さぶる。
「ほら、起きなって」
フェイヴァは反応を示さない。閉じられた瞼はわずかにさえ震えず、がくがくと頭を揺らした。後頭部でまとめられた長髪が弾む。
「ちょ、ちょっと。気を失ってるのにそんなに乱暴にするなんて」
「そうよ! フェイに何かあったらどうするのよ!」
失神している人間を無闇に揺さぶるものではない。原因がわからないのだ。まずは身体を安静にし、呼びかけるべきである。
「馬鹿丁寧に介抱してる場合じゃないでしょ」
サフィとユニに止められ、ハイネは苛立った表情で返す。フェイヴァの頬を二度叩くが、やはり反応はなかった。一過性の意識消失ならば数分で回復するはずである。意識が戻らないところを見るに、ただの失神では片づけられない。ハイネが乱暴に扱ったせいで、フェイヴァの状態をより深刻にしてしまった可能性がある。
ハイネはフェイヴァから手を離すと、魔獣の死体に近づいていく。
「こいつはここにおいていく」
ハイネの言葉が信じられなくて、サフィもユニも固まった。彼女は今口にしたことなど気にもとめずに、ナイフを引き抜くと熊の脇に屈んだ。
「ほ、本気で言ってるの……あなた」
「何ぼさっとしてるの。手伝うとか周囲を警戒するとかしなよ。早くしないと腐り始める」
「三人もいるんだから、僕が担いで行けば」
「じゃあ、好きにすれば。でも、わたしは待ったりしない。おいていくから」
言いかけたサフィを、ハイネは心ない言葉で制す。サフィは自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
フェイヴァを担いで、たったひとりで魔獣の巣窟であるこの外界を無事に抜けきれるわけがない。殺到してきた魔獣が、前から後ろからサフィに襲いかかるだろう。
「そもそもこいつが悪いんだよ。こんなときに気を失うなんて、見捨てられても仕方ない」
フェイヴァを諦める──。その選択肢に吐き気を催しそうになったが、同時に心が傾きかけているのをサフィは感じた。
「嫌よ、フェイをおいていくなんて!」
ユニはフェイヴァのそばに膝をつき、彼女を抱き起こそうとした。白い頬に朱が差し涙がこぼれる。
「あなた、どうしてそんなに酷いことが言えるの? アタシたち一緒に学ぶ仲間じゃない。それが欠けたっていいの?」
「仲間? わたしはそんな風に思ったことはない。よく考えなよ。そこの、サフィだっけ? あんたが担いだとしても歩みが遅くなるだけ。ぐずぐずしてたら敵が殺到してくるよ。そうなったらみんな死ぬ。ここで四人とも死ぬか、わたしたちだけが助かるか。答えはひとつしかないと思うけど」
グレイシャーの牙を外すと、ハイネは皮袋に詰め込んだ。彼女と違って、サフィは猿の刃を剥ぎ取る気が起こらなかった。
この間まで普通に語り合っていた友人を見捨てるというのに、ハイネはなぜ欠片も動揺しないのだろう。サフィには理解できなかった。
「足の傷、手当てしてよね。痛くて歩けないなんて言われても迷惑だから」
「……あ、うん」
サフィは背中の背嚢から薬草と包帯を取り出すと、授業の内容を思い出しながら処置をした。
皮袋を担いだハイネは、思慮深い表情から一変、敵の接近を感じ取ったのか真顔になった。背中から大剣を引き抜く。小高い丘から、今まさに鼠の姿をした魔獣が三匹跳び下りてきたのだ。力強く四肢が地を蹴り、土煙や落ち葉が舞い上がる。
「ユニ──あんたでいいや。援護して」
ユニは茫然としているようだった。涙を溜めてフェイヴァを見下ろしている。彼女が役に立たないと判断したのか、サフィを肩越しに見やりハイネは言う。
鼠――【地を弾む】が肉薄してくるまでの間、サフィは排莢と装填を終わらせた。構え撃つ。それと違わずハイネが駆け出す。
「こっちはいいから、あいつをどうにかして」
先頭にいた鼠を斬って捨て、ハイネはそのまま後方に斬り込む。
サフィはユニに近づくと、彼女に手を差し伸べた。
「ユニ、行こう」
「でも!」
「僕たち三人だけじゃどうすることもできない。早く門扉に戻って、教官に報告しよう」
ここで手をこまねき三人とも死んでしまっては、フェイヴァの状態を伝えることさえできない。まずは生きて帰ることを優先するべきだ。
ユニはフェイヴァの肩に手をおいたまま、唇を噛み締めた。
鼠の甲高い悲鳴が響き渡り、鞘に大剣を収めたハイネが駆け寄ってきた。ユニの腕を掴むと無理矢理立ち上がらせる。
「迷惑かけないで」
「フェイ……許して」
「わたしが見捨てようと言ったんだ。わたしのせいにすればいい。あんたたちが罪の意識に苛まれることはない」




