05.都市ヴェーヌ
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世界には五つの大陸があり、九つの国家が存在している。古に残された地図には、まるで翼を広げた竜を真横から俯瞰したような形をした大陸が描かれていた。
フレイ王国は、北東──竜の上顎から頭部に位置する国家だ。尾の部分に国家を構えているディーティルド帝国から南下し、フェイヴァたちはひたすらに東を目指す。竜の後ろ脚と前脚と下顎にあたる、グラード王国とイクスタ王国とロートレク王国を経れば、やっとフレイ王国にいたることができる。十日間の長旅だ。
ディーティルドを越えてから海を過ぎるまで、二日ほどかかった。やがて大地が近づいてきて、グラード王国に差しかかる。それまでは、ときおり小高い丘やたくましい枝を持つ樹の上で短い休憩を挟んでいたが、やっと十分な休息が許可された。
グラード王国。その南にある都市、ヴェーヌに降りたのだ。
兵士たちの目を盗み、テレサが小声で教えてくれた。芸術大国で名高いグラード王国は、工芸品や装飾品などを他国に輸出している。意匠が凝らされた被服は特に有名で、各国の富裕層から愛されているのだ。
鉄の鎧は、反帝国組織の正式な装備なのだろう。兵士たちは休憩中に鎧を着替えていた。簡素な革の鎧、もしくは戦いとは無縁な住民の衣服を身につけている。グリマールが手で示すと、兵士たちは翼竜を降下させる。緩く羽ばたきながら降りていく翼竜の背から、視界に収まりきれないほどの都市が近づいてくる。
そのあまりの広大さに、フェイヴァは驚嘆を声に出しそうになった。密集した建物の大きさは指の先ほどしかないのに、依然として都市の全貌は見渡せない。
死天使の瞳には、拡大や縮小の機能があるようだ。フェイヴァは無意識にその機能を使いこなし、建造物の色鮮やかさを楽しんだ。建物のどれもが赤茶や橙の煉瓦造りであり、三角屋根とすっきりとした外観が、洗練された雰囲気を醸していた。
グラード王国に入っていくつか都市を通り過ぎたが、どの都市も規模の違いはあれど、外周には分厚く頑丈そうな防壁が建てられている。四階建ての建造物と同程度の高さを誇り、壁付近にある道や建物には、濃い影が被さっていた。
(どうしてぐるっと壁に囲まれてるんだろう?)
フェイヴァの方を振り向いたテレサが、指で手をつついてくる。私語は禁止されているので、こうして身振りで意志を伝えるか、兵士の目を盗んで小声で会話をするしかない。
目で尋ねるフェイヴァに、テレサが地上を指す。所々岩盤が顔を出し起伏に富む土地に、跳ねるように動く無数の影があった。動物の群れだ。
テレサの示す先を詳細に見たフェイヴァは、驚き彼女の背中にしがみついていた。
フェイヴァが最初に目にした動物は、鼠だった。それもただの鼠ではない。特筆すべきはその大きさと、醜さだ。
本来ならば掌くらいの大きさしかないはずの鼠の身体は、人間の赤子ほどに巨大だった。灰色の毛は所々剥がれ、赤墨色の肉が脈動している。背中には、角らしき湾曲した突起物が生えていた。顎を覆っているはずの神経も肉も皮もない。剥きだしになっている黄色く変色した顎骨。密集した牙が噛み合わされる。
群れを成して移動している鼠に負けず劣らず、周囲をさまよう獣達も奇怪だった。
大きく開いた口は歪んでいる。左腕が異様に長く、刃状に変形している猿。骨が浮き出るほど痩せ細った身体。背中に鋭い角を生やした、今にも飛び出しそうな眼球を持つ猫。
「彼らは魔獣と呼ばれているわ。驚異的な再生能力を持ち、凶暴で人を襲う。鳥や翼竜を模した魔獣は存在しないから、飛び越えられないほどの壁を建てれば襲撃は防げる。完全に、とまではいかないけれど」
「そ、そうなんだ」
フェイヴァは、声を潜めるテレサに倣った。
翼竜は都市の玄関である商業区に着々と近づいていた。真っ直ぐに伸びる大通りには人があふれ、両脇には競うように大小様々な商店が建てられている。人々の頭上に飾られた無数の布が目に鮮やかだ。建物と建物の間を差し渡して結ばれている布は、虹の橋に見えた。
フェイヴァの聴覚に軽やかな笛の音が届く。視界の先、大通りの奥には舞台が設置されており、そこで五人の人間が緩やかに動いている。舞台上を拡大してみると、かっちりとした正装に身を包んだ初老の男たちが、手に笛やレモス──穴を開けた木の箱に弦を差し渡した物。指で弾いて音を出す──を持ち、穏やかな音楽を奏でていた。
レモスの伸びやかな旋律に、笛の軽やかでいてどこか切ない音色が絡み合う。
生まれて初めて聞く音楽は、フェイヴァの心にゆっくりと染み入った。瞼を閉じて、楽器の調べに身を浸らせる。
宿に隣接された旅人の足を預かるための小屋。兵士たちは広場に降下すると、小屋に翼竜を引いていき、手早く繋いだ。休息と食事を得るために宿に向かって行く。
宿の主人が慌てた様子で扉を開けた。ふくよかな腹を揺らしながら走り、早速翼竜を留めおく料金を請求する。
翼竜から降り、テレサとともに兵士たちの後ろをついて行っていたフェイヴァは、緊張に身を固くした。翼竜を繋いでおく小屋は宿屋の裏手にあるため、大通りを目にすることはない。しかし人の往来を感じさせる喧騒が伝わってきて、フェイヴァを落ち着かない気持ちにさせた。
フェイヴァが知る人間はあまりに限られている。テレサと、ディーティルド帝国の兵士と反帝国組織の兵士だ。
都市で生活を営む住民たちは、フェイヴァを一体どんな目で見るだろう。自分は人に蔑まれてしまう存在であると、フェイヴァは思いこんでいた。
宿の中に足を踏み入れたフェイヴァたちは、店の者に別室に案内された。そこは脱衣場が連なる湯を使うための石造りの部屋だった。中央には子供ひとりが伸び伸びと浸かれそうなほど大きい桶があり、湯が並々と満たされている。
脱衣場の棚には、着替えも用意されている。飾り気のない麻の服だが、返り血で汚れた白衣を着続けるよりマシだろう。白衣の釦を外し終えたフェイヴァは、隣で服を脱いだテレサを見た。
(お母さんの身体……まだ湯を浴びるには早すぎるんじゃ)
「心配してくれるのね。大丈夫よ、もう随分よくなったわ」
下着を脱ぎ露わになったテレサの肢体は、痛々しい傷が塞がり小さな瘡蓋が出来ていた。人間では考えられない治癒力だ。
細身でいて胸も腰も女性らしい丸みを帯びている。銀の髪は絹のごとく滑らかで、絡まることなく肩を流れた。瞳は空を映した澄んだ色をしている。テレサの端正な容貌は、自然の創りあげた芸術品のようだった。
白衣を脱ごうとしたフェイヴァは、途端に恥ずかしくなって釦を指でいじった。テレサの瑞々しく、それでいて成熟した身体を見ていると、自分の貧相な肢体が哀れになってくる。
「お母さんが先に使って。私はここで待ってる」
「恥ずかしがらなくてもいいじゃない。私はあなたのお母さんなのよ。あなたの裸は何度も見ているわ」
そういえば自分は寝台の上に裸で横になっていたのだ。テレサだけではない。助手の男や兵士にも自分の身体は見られていたかもしれない。それを思うと悲しいやら恥ずかしいやらで、頭から湯気が立ち上りそうだった。油断したフェイヴァの胸元に、テレサの手が伸びる。
「えいっ」
「きゃっ!」
鮮やかな手つきで白衣が剥ぎ取られ、フェイヴァはとっさに身体の恥ずかしい場所を手で覆った。顔が火照る。
「うう、お母さんひどい」
「隠さなくていいわよ」
「だって……私の身体、変じゃない?」
「そんなことないわ。可愛いわよ」
掌に収まりきる小さな胸と棒のように細い手足は、魅力的には思えないのだが。テレサにはそう見えるらしい。きっと親の贔屓目というものだろう。彼女に手を引かれて、フェイヴァは脱衣場から移動する。
テレサは湯加減を確認すると、布で石鹸を泡立て始めた。甘い花の香りと香草の爽やかな香りが混然となって漂う。
「座って。身体を洗ってあげるわ」
「じ、自分でできるよ」
「どうやって洗うかわからないでしょう。こういうことは、女の子のたしなみとして覚えなければならないわ」
豊かな泡に包まれた布が背中に触れ、フェイヴァは身体を震わせる。あまりに恥ずかしくて瞼を閉じると、感覚がより鋭敏になる。温かな布が肌を滑っていくと、くすぐったさと羞恥心が混ざり合って堪らなくなった。
「わぎゃっ! な、なんか変……」
「目を閉じてるから変に感じてしまうのよ。開けていたほうがいいわ」
フェイヴァは薄目を開ける。背中を洗い終わったテレサが、フェイヴァの正面に回ってきた。
「前も洗いましょうね」
「えええっ!? も、もう勘弁してぇ!」
フェイヴァは否応なく、隅々まで身体の洗い方を学ぶ破目になった。
湯を使い終わったフェイヴァたちは、脱衣場の前で見張りをしていた兵士に連れられて部屋に向かった。監視されながら少量の食事を取る。
長机に並べられたのは、豆の入った汁物と固い麺麭だった。汁物は薄味、麺麭はがさがさしていて口の中の水分を奪っていく。お世辞でも美味しいとは言えなかったが、生まれて初めて食物を口に入れたフェイヴァは感動した。喜びに声を上げそうになって、口許を押さえて咀嚼する。豆の汁物を完食したテレサは、顔を不機嫌そうにしかめていた。「これなら私が作った物の方が遥かに美味しいわね」小声でそんなことを口走っていった。
食事が終わると、兵士たちは思い思いに休憩し始めた。テレサは椅子から立ち上がり、上座の席についていたグリマールに近寄る。
「すみません。替えの衣類を購入したいのですが」
荷物を持って来ている兵士たちと違い、テレサは小さな鞄をひとつ持っているだけだ。ヴェーヌから発った後は、都市に立ち寄る予定はないのだという。着替えは不可欠だった。
外套を脱いだグリマールは、髭を生やした顔を、今にも舌打ちしそうに歪める。
「お前はまだしも、そいつは人間ではないのだ。替えの服は必要ないだろう」
テレサの横顔に怒気が滲む。掴みかかろうとした彼女を、フェイヴァは押しとどめた。
「……冗談だ。行ってもいいが、監視の目から逃れる真似はするなよ。レイゲン、行け」
「はい」
グリマールの声に席を立ったレイゲンは、氷のような眼差しをフェイヴァに向けた。