03.記憶に潜む赤き影◇
視界に映っていたユニの顔が、食堂の景色が、色褪せ変質し始めた。
夢から覚めたように我に返る。視界の端で弾む、柔らかに波打った黄金色の髪。ユニの視界を通して、フェイヴァは彼女の過去を認識していた。ごみが散乱した路地を、小さな足でユニは駆けている。淡い水色で染められた筒上の衣服がふわりと翻る。
背を向けあった建物が作り出す薄暗い空間は、背丈が低いユニの瞳を通すと果てなく続いているように見えた。
『こっちだよー!』
弾む声で呼びかけながら振り向いた。ユニの視界に、後ろをついてくるふたりの人物が映る。帽子と燕尾服を身につけた紳士と、落ち着いた装いをした淑女だ。
『待ちなさい、ユニ!』
ユニと同じ髪色をした男が、荒い呼吸の合間から声を出す。ふたりは、狭く物が多い路地のせいで、ユニと距離を詰めることができないでいる。彼の後ろから、女も声を張り上げた。
『危ないでしょう! 戻ってきなさい!』
当時のユニの記憶が流れ込んでくる。彼らはユニの両親であり、ふたりと劇を鑑賞し帰るところだったのだ。
貿易会社を経営し莫大な利益を得ていた彼女の両親は、日頃から多忙であり、ユニは寂しい思いで屋敷で過ごすことが多かったのだ。
だからその日、ユニはひとつの悪戯を思いついた。自家用の馬車を待っている間、素早く路地に走り込んだのだ。ふたりに構って欲しかった。追いかけられて、愛情を確認したかった。そんな至って子供らしい思考。
両親に追いかけられて、ユニはますます嬉しくなった。こんなこともできるよ、と誇らしい気持ちで、積まれていた木箱を跳び越える。普段から飼い犬のシャノンと競争しているので、体力と脚力には自信があった。
『お父様、お母様、遅ーい! ……あっ!?』
肩越しに両親に声をかけながら走っていたユニは、身体が何かにぶつかって、転倒した。肌が地面に擦れて血が滲む。その火傷のような痛みにユニは泣き出した。
『ジオ・セイルズだな?』
ユニがぶつかったのは、引き締まった筋肉を持つ長身の男だった。一本の傷跡が、目の下を横に走っている。
『な、何者だ!』
『名を知ってどうする? あんたらが生きていたら困る人がいるんだよ。ここで死んでもらう』
絹を裂いたような悲鳴が迸る。そのあまりの悲痛な叫びに、ユニは驚いて涙を止めた。不吉なものを感じて父の後ろを見やる。
『……ラティス!』
ユニたちに背を向け立っていた母は、上品な白い衣服を鮮血に染めていた。崩れ落ちる母を、父が受け止める。
母の後ろから、もうひとりの刺客が迫っていたのだ。長い外套を身にまとった目の細い男は、母の血で濡れた小刀を拭った。
『ラティス! しっかりするんだ、ラティス! ……ああ、なんということだ……』
『最期に言い残すことはないか? 聞いてやるぞ』
『……金ならいくらでも払う。娘と私を助けてくれ』
『悪いがそれはできんな。あんたらが死ねば、残された金の半分を好きにしていいと言われているんでね』
父の顔が絶望に染められる。青白い顔の中で、深海を映した瞳が揺れていた。
『……ならばせめて、娘だけは。娘だけは助けてくれ。頼む、この通りだ』
死の恐怖に身体をわななかせながら、父は深く頭を下げた。
『親を失った子供が幸せになれると思うか? 残念ながら、娘の買手も決まっていてね。成長すればいい女になりそうだな』
『や、やめてくれ! 頼む!』
父の首に小刀が当てられ勢いよく引かれるのを、ユニはただ見ていた。
鮮血を壁に撒き散らして、父は倒れる。
そのさまがゆっくりとユニの瞳に捉えられた。
『楽な仕事だったな。……お前のおかげだよ、お嬢ちゃん。仲良く追いかけっこをしてくれたおかげで、人目のつかない場所で殺せた。お前のせいで両親は死んだわけだ。まったく、とんだ親不孝者だな。え?』
髪を引っ張られ、無理矢理立ち上がらせられる。事切れた父と母を前にして、耳元で囁かれた言葉は、ユニの脳を鈍く揺らした。
(……お父様もお母様も、どうして動かなくなっちゃったんだろう)
死んだのだ、と心のどこかが囁やく。殺されたのだ、この男たちに。そしてこのまま大人しくしていれば、自分も同じような末路を辿るかもしれない。
(──殺せ)
散り散りになりそうな精神の深淵から、立ち上ってきた一つの声。
強い寒気を覚え、フェイヴァは一瞬だけユニの意識と分離する。
(殺せ、殺すのだ。その汚ならしい手を切り落とせ)
なんて氷のように冷血な声だろう。
それは暗示となってユニの心に組み込まれる。まるで彼女自身がそう思考したかのように。
(……そうだ、殺さなきゃ。悪いことをした人は死ななきゃ駄目なんだ)
髪を掴んでいた力が抜け、ユニは座り込んだ。路地に、男の絶叫が谺する。
生温かい液体が髪にかかって、疑問に思い目を移す。ユニの膝下には、男の腕が転がっていた。刃物で斬り落とされたように、皮膚の端切れもない切断面から、鮮やかな色をした肉と骨が覗いている。
『……これなぁに?』
ユニは自分の周囲を漂う、無数の欠片を目にした。それは闇夜を凝縮したかのごとく暗黒色をしており、それぞれ若干大きさが違うものの、鋭いひし形をしていた。まるで花畑を舞う蝶のように、研ぎ澄まされた刃はひとりでに浮遊している。
『こいつ、覚醒者か!?』
『馬鹿な、そんな情報はないぞ! それに、この力は……!』
脂汗をかきながら、衣服の袖を千切り腕を止血した男は、ユニを警戒して後ろに下がった。代わって、背後から気配が近づいてくる。母と父の死体を乗り越えて、男が踏み込んでくる。振り返る間もなくそれは起こった。
外套の男の方に、刃は一斉に殺到した。間隙もないほど密集した細かな切っ先は、男の肌を裂き肉を抉った。血があふれ出し、男は悲鳴を上げることもなく物言わぬ肉の塊になった。男が完全に動かなくなっても、刃は執拗に肉を引き裂いていた。最後にはそれが人であったことすらわからないほどの有り様となる。濃い血の臭気が路地を満たした。
腕を落とされた男は、表情を恐怖に染めた。靴底が地を擦って、足音を一際大きく響かせる。
ユニのそばに戻ろうとふわふわと揺れていた刃は、その音に反応したのか、ユニの視界から消失するほどの速さで男に襲いかかった。悲鳴が絶叫に変わり、まるで無数の虫に集られたかのように、男は滅茶苦茶に四肢を振る。動かなくなるのに数分もかからなかった。男の身体から流れてきた血が、ユニの膝下まで近づいてきて、止まった。
男の身体を刻み終えた刃たちは、音もなく空気に溶けた。
静かな路地で、ユニはひとり座り続けた。立ち上がることも、助けを呼ぶこともできない。やがて血の臭いが衣服に染みついたが、ユニはそこから動くことができなかった。




