01.他の生き方を知らない◆
◆◆◆
鈍く響き渡る鐘の音が、夜明けの静謐な空気を揺らす。
ウルスラグナ訓練校の朝は早い。まどろみから叩き起こされた訓練生たちは、一階の広場に向かう。そこで教官による点呼が行われるのだ。
重い頭を寝台から引き剥がしたユニは、壁にかけていた制服に袖を通した。梯子の軋む音がする。二段の寝台の上から下りてきたミルラが、欠伸を噛み殺していた。
「ユニ、おはよう」
「おはよ」
「……元気ないね。大丈夫?」
ユニは苦笑いを浮かべた。
ミルラは昔からユニの調子が悪いと、こうして声をかけてくる。水色の眉が作り出す表情は深刻だ。これでは友人を心配していると言うより、病床に横たわった母を気遣う娘のようだった。
「……なんでもないわ」
正直に言うと、放っておいてほしかった。
昨晩レイゲンに断られてから、ユニは傷心の思いで図書室に向かったのだ。実を言うと課題はほとんど終わっていた。あとは細かい調整と見直しだけ。レイゲンとふたりきりになれた暁にはさっさとそれらをすませ、会話を楽しむつもりだったのだ。どんな話をしよう。彼はどんな反応をしてくれるだろう。想像するだけで胸が高鳴った。それなのに、緊張しながらやっと実行に移した行動は、実らなかった。
ひとりになりたかったのに、途中ハイネとルカがやってきて気分はさらに落ちた。寝台に入ってからもその気持ちは変わらず、ほとんど寝ることができなかったのだ。
(早く忘れちゃいたい。気持ち切り替えなきゃ)
「フェイ、まだ寝てるんでしょ? 起こしてあげないと」
「うん」
ミルラは一瞬だけ、顔に悲しみの色をよぎらせる。
フェイヴァが眠っている二段の寝台は、部屋の奥にあった。下の段の寝台で、フェイヴァは抱き枕のように毛布にしがみついていた。
身体を乗り出して、フェイヴァの肩に手をかけようとしたユニは、立てかけられた梯子に人の気配を感じた。上の段を寝床にしているフィーナが下りてきたのだ。ユニとミルラは後ろに下がり場所を開ける。
「おはよう。ねぇ、ふたりとも知ってる?」
「何?」
「そこの地味子のことなんだけどさ」
肩までの長さの巻き毛を指先でいじりながら、フィーナはフェイヴァを顎でしゃくって示した。
フェイヴァは女子のほとんどから、地味子というあだ名で呼ばれていた。言動は大人しく目立たない、試験の成績も平々凡々。退屈で面白味がない少女という意味だ。あだ名をつけた本人たちは、ただの愛称としか考えていないようだった。
「昨日の夜、露台にレイゲンとふたりきりでいたんだって。いい雰囲気だったって、見た奴言ってたわよ」
「嘘」
ユニは信じられない思いでフェイヴァを見下ろした。驚きが怒りに変わり、自然と眉間にしわが寄る。
(どうしてフェイばっかり……。アタシは、断られたのに)
「こいつ、あんたがレイゲンを好きだってこと知ってるんでしょ? なのに抜け駆けなんてして、卑怯よね。こいつと友達続けてくの考え直した方がいいわよ」
フィーナは薄く笑みを浮かべると、壁際で制服に着替えていた友人たちのもとに歩いて行った。
「……ユニ、ごめん。ふたりに露台を勧めたの、あたしなの」
「なんですって?」
声音に隠し切れない苛立ちがにじむ。振り向いて睨みつけると、ミルラはたじろいで視線をユニから外した。
「フェイ、レイゲンさんに無視されてたのね。それが可哀想だったから、一度じっくり話した方がいいと思ったの。……きっと、ユニが心配してるようなことにはならないよ。フェイ、人を好きになるってことがどういうことか、わかってないみたいだし」
「そんなの、アタシたちが断言できるわけがないじゃない!」
衝動のままにユニは怒鳴った。
ミルラは昔からそうだ。いつも自分の恋を応援してくれない。好きな人ができたと言っても、寂しそうな顔をするだけで背中を押してくれたことなど一度もなかった。
「どうしてアタシの邪魔をするの? あんた、アタシに恨みでもあるの? アタシたち、小さい頃からずっと一緒なのにっ!」
「ごめんなさい……」
ミルラは肩を落として、小さくなった。消え入りそうな彼女の声に我に返ると、部屋中の女子がユニに注目していた。
ユニは普段から声を荒げる方ではない。明るいが穏やかなキャラとして通っている人間が、突然激情を露わにすると、周囲は引くのだ。
「……ふたりとも、喧嘩してるの?」
ユニの怒鳴り声で目が覚めたのだろう。寝台から飛び起きたフェイヴァは、ユニとミルラに不安げな視線を送った。
(あんたのせいよ。アタシの気持ち知ってる癖に、どうして遠慮しないのよ。初めて会ったとき、レイゲンはただの友達だって言ってたじゃない)
口に出して責めることもできた。しかし、ユニは周りの目を気にしてしまったのだ。自分の感情を優先するより、良い人を取り繕う方を選んだ。それでもふたりと一緒にいるのは耐えられず、ユニは大きく吐息を落とし部屋を出た。
***
朝日は分厚い窓硝子に遮られ、薄ぼんやりと差し込んでいた。部屋から出てきた訓練生たちが、たわいない話をしながら広間に向かう。ユニもその内のひとりとなり、黙々と廊下を歩いた。
「はー、お腹空いた。今日の朝食何かな?」
「また根菜蒸した奴かもな。あれ味薄いよなぁ」
「そうそう、もうちょっと濃くしてほしいよね。ふふ、ルカと意見が一致するなんて嬉しいな」
「は? お、おう」
ユニの前を歩いているのは、ルカとハイネだった。弛緩した空気を物語るように、朝食の話に花を咲かせている。不愉快な気持ちがさらに強まった。
(見えないとこでやりなさいよ)
途中親しい女子に声をかけられたが、今は喋りたい気分じゃないからと、断った。
ひとりになってみると、熱されていた気持ちが落ち着いていくのがわかった。改めて冷静に考えてみる。
ユニがレイゲンを好きだと知っていても、彼と親しくなるのはフェイヴァの自由だ。友達だから遠慮してもらって当然だと思うのは、間違っているのかもしれない。
『レイゲン様とマティアさんがずっとべたべたしてたでしょう? 家族じゃないのに、どうしてそんなことするのかわからなくて。それに、レイゲン様はマティアさん以外の女の人に愛してるって言われてたけど、なんでそれを断ったの? みんな一緒に仲良くした方がいいじゃない』
恋愛を主題にした劇を観たあとに、こんなことを言うのだ。ミルラの言う通り、フェイヴァは恋愛感情というものが、心の底からわかっていないのかもしれない。
(でも、今はわからなくても、後々理解できるようになるかもしれない)
そうなったら、レイゲンは自分を選んでくれるだろうか。自分でも気が早い未来予想だと思う。レイゲンとはまだ何も始まっていないのだ。ふたりで時間をすごしたことも、深く会話をしたこともない。
(まだ機会はあるわ。フェイには負けないんだから……!)
決意を新たにしたところで、朝からずっとふたりと距離をおいていたユニは、それをやめることにした。勝負は正々堂々と行わなければならない。フェイヴァを無視して彼女の心を傷つけるのは簡単だが、そんなのは公平じゃない。
(良い子にしてないと、レイゲンもきっと好きになってくれないわ)
幼い頃に孤児院に入ったユニは、人の喜ぶ顔が何より好きな少女だった。先生の言うことをよく聞き、手伝いも率先して行なった。自分の中の正義を信じて、いじめをやめさせた。そのたびに先生たちは嬉しそうな顔をし、あなたが好きよと言ってくれた。
ユニはいつからか、良い子を演じていれば自分を好きになってもらえるのだと考えるようになっていた。誰だって人には嫌われたくない。声高に負の感情を訴えるより、善人を装っている方が気が楽だった。




