08.一歩近づいて◆
訓練室に足を踏み入れたレイゲンは、出入口付近に目を止めた。
桃色の髪をした背の低い少女がいる。隣に立つのは、いつもユニと一緒にいる少女だった。名前は知らない。
足早に場所を移動しようとしたが、視線を感じたのか少女はふとこちらを向いた。紫色の瞳が見開き、それから困ったような表情になる。
「レ、レイゲンさん……」
距離が離れており、その上周囲では木剣の打ち合う音が響いている。常人なら聞こえないほどの声量だが、レイゲンには聞き取れた。
聞こえなかったふりをして去って行こうとした。後ろから追いかけてくる足音がして、腕を掴まれる。少女にしては積極的な行為に疑問を持ちつつ、振り返った。
「ちょっと、無視するなんて酷いよ! 人の気持ち考えたことあるの?」
そこにいたのは、名前を知らない方の少女だった。臆することなくレイゲンを見上げ、強い口調で言う。
薄い髪色と大人しそうな顔立ちが消極的な印象を抱かせるが、人は見かけによらない。
「お前には関係ないだろう」
「関係あるの! ほらフェイ、そんなとこにいないでこっち」
手招きされ、距離をおいていた少女が歩み寄ってきた。レイゲンの前で立ち止まると、不安を示すように胸に手を当てる。
「あの……私、ずっとお話ししたかったんです」
「用件はなんだ。さっさと言え」
「……ここでは、ちょっと」
少女はあたりに視線を投げる。人の目を気にするということは、自分が死天使であることについての話なのだろう。
「露台に行ったら? ここより人が少ないと思うよ」
「今夜でなくてもいいだろう」
「今夜と言ったら今夜! 話を聞いてくれないなら、自由時間の間ずっとレイゲンさんにつきまとうよ。フェイが」
「えぇっ!?」
少女は大げさに身を引いて驚いて見せる。入学してから極力顔をあわせないようにしていたが、子供のような反応の仕方は変わっていない。
「こういう鈍い人にはぐいぐいいかないと駄目なんだって」
(こいつ一言多いな)
「う、うん。わかった。話を聞いてもらえないなら私、レイゲンさんにつきまとって露台露台って言い続けます!」
「……わかった」
溜息を吐いて、レイゲンは了承した。
「じゃあフェイ、頑張ってね! あたし部屋に戻ってるから」
「ミルラ、ありがとう」
階段を登り露台に出る。周辺を見回したレイゲンは、すぐにこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
(あのミルラとかいう女……謀ったな)
露台は本来、訓練室に入れなかった生徒が鍛練するための場所だ。転落防止のための柵に囲まれていて、灯火が等間隔に設置されている。
レイゲンたちが露台に出た時、互いに向かい合って木剣を構えていた男女は、一斉に構えを解いた。そうして気を抜いたように、ふたりで隣り合って夜空を見上げた。中には今にも触れそうなほど顔を寄せて、抱き合っている者もいる。
誰も本来の目的で利用していない。階段から足音が聞こえてきた時、または翼竜に乗った見張りが空を駆ける時だけ、訓練をしているように見せているだけだ。
望洋とした星空に見下ろされているこの露台は、恋人たちの逢い引きの場になっているのだ。
「ここは静かですね。でもどうしてみんな、男女で分かれているんでしょうか?」
「……お前は馬鹿か」
「くぅ~!」
何も知らないふうに、誰にでも予想がつく答えを投げかけてくる少女に、レイゲンは思ったままをぶつけた。彼女は衝撃を受けたように涙目になる。
レイゲンは少女をおいて歩き出した。最奥には人がいない。そこならば話を聞かれる心配はないだろう。駆け足で後をついてきた少女は、レイゲンの隣に立った。
距離が近く、レイゲンは三歩ほど離れる。髪を揺らす風は少し冷たく心地いい。
露台からは広大な練習場が望めた。人の目から見れば夜陰に包まれているが、レイゲンは地面に引かれた白線も、遠方に見える公共区の建物も日中と同じ明瞭さで読み取ることができた。
「何の用だ。この場所を選ぶからには、人に知られては困る内容なのだろう」
「はい。……試験の日から、レイゲンさん私を避けているみたいだったから。なんでかなって」
思い詰めたような表情で口にする少女に、レイゲンはそんなことかと呆れた。
「私、あんまり頭がよくないから。だから、考えてもわからないんです。もしもあなたを傷つけてしまったのなら、謝りたいんです」
「その必要はない。大体、お前はもうひとりではないだろう。俺が世話を焼いてやらなくても、あいつらと好きにやればいい」
「確かに、私によくしてくれる人たちはいます。ふたりと一緒にいると、自分が人と違うってことを、時々忘れてしまいます。ふたりは私にとって大切な人です。……でも、レイゲンさんも、私にとって大切なんです」
柵を握り締めて、少女はレイゲンを仰いだ。真っ直ぐな眼差しは、少女が嘘偽りのない思いを言葉にしていることを物語っていた。
(こいつ、ちゃんと言葉の意味を理解してるのか?)
少女は、普通の人間だったなら特別な関係の者にしか言わない台詞を、ためらいもなく発する。
「レイゲンさんが、私とふたりきりでいたくないのはわかります。……それは私が、人とは違うからですか?」
「……そうじゃない」
口にするまでに要したわずかな暇は、ダエーワ支部での生活ですっかり覆ってしまった少女に対する印象を認めるために、必要だった。
(俺はこいつを、死天使として見ることができなくなっている)
試験当日。少女と並んで練習場に向かいながら、受験参加者の顔が認められる距離になったとき。レイゲンは急に、少女と一緒にいたくなくなった。
それはただ単に気恥ずかしかったから。隣に立つ少女と、特別な関係であると思われたくなかった。思春期の男子らしい、子供じみた感情。
それはささいな一因に過ぎない。いつの頃からかレイゲンを苛み始めた思い。それが、少女から距離を取らせた最大の理由だった。
「……私が人に危害を加えた時、レイゲンさんが私を破壊しなければならないからですか?」
それがまさか、破壊対象である少女の口から発されるとは思っていなかった。レイゲンは瞠目し少女を見下ろした。
「なんとなく、わかっていたんです。死天使を単独で倒せるような人はあなたしかいない。だから問題が起こった時すぐに対処できるように、ダエーワ支部にいたんですよね?」
気づかれているのなら、隠しても無駄だ。
「……そうだ。お前が暴走し人を殺害した場合、俺がお前を始末することになっている。ウルスラグナに入ってからもそれは変わらない」
少女は口許を歪ませた。諦観と悲哀が入り交じった微笑みが広がる。
その表情を見続けていることが、なぜだかレイゲンには耐えられなかった。
「やっぱりそうだったんですね。なら、私を監視しなくちゃいけないんじゃないですか? 私はどこで何をしているかわかりませんよ」
空を仰ぎ、少女は悪戯っぽく笑う。深い紫色をした瞳の中で星屑が瞬いていた。
「……馬鹿を言うな」
(お前が理由もなく人を傷つけるわけがない。兵士の理不尽な暴行にも耐えきったお前が)
そんなことを、心の片隅で思っていると悟られてはいけない。
「今日授業が終わってから、ユニとミルラと劇を観に行ったんです」
唐突な話の転換に、レイゲンは目を瞬く。
「その帰りに、狩人の人たちに話しかけられて。ミルラが殴られてしまったから、私、かっとなってしまったんです。怒りに任せて相手を殴ってしまって」
「……お前」
「屋根まで吹き飛んで動かなくなったその人を見た時、殺してしまったと思ったんです。友達が傷つけられたからといって、人に暴力を振るうべきじゃなかった……自分が許せませんでした」
少女は顔を伏せた。レイゲンはその横顔を見つめる。視線を感じたのか、彼女は首を持ち上げた。夜風が静かに渡って、花の色をした少女の髪をなびかせる。
「私に情を移して、私を壊したあとに嫌な思いをしたくないんですね」
以前の自分なら。こいつと関わる前の自分なら、鼻で笑って即座に否定しただろう。そんなことがあるわけがない、と。
だが今となっては、とてもそんな真似はできない。少女と距離を取ろうとしたのがその証拠だ。彼女を避けることで、いつかくるその日の心痛を少しでも和らげようとした。そんなことが、できるわけがないのに。
(俺は……兵士失格だ)
「もしも私が、人を殺してしまったら……」
細い指で髪を掻き上げる。絹のように艶やかな桃色の髪は、灯火の光を受けて薄紫に色づいていた。
「あなたにご迷惑はかけません。自分でけりをつけます」
恋人たちの笑みを含んだ囁き声が、遠くに聞こえた。
レイゲンはしばらく、少女と見つめあっていた。彼女は深刻な話に似合わないくらい、にっこりと笑った。
「だからあの……前みたいに仲良くしてください!」
「どうしてそこまで俺にこだわるんだ」
「レイゲンさんは、私を暗闇の中から救ってくれました」
「俺は何もしていない」
「いいえ。あなたは私と話してくれて、食べ物を持ってきてくれた。勉強を教えてくれた。あなたがいてくれなければ、私はきっと耐えられなかった」
「……それが俺の任務だ」
「それでも、嬉しかった」
少女は一歩一歩、レイゲンとの距離を縮めていく。靴音を小さく鳴らせて、彼女はレイゲンの目の前に立った。少女の瞳に映るのはレイゲンの困惑した顔。
「私は、あなたと仲良くなりたい。あなたの役に立ちたい。あなたに、恩返しがしたいんです」
いまだかつて、家族以外にこんなにも正直に気持ちをぶつけられたことはない。女たちが向けてくる媚を売ったような眼差しは、レイゲンの容姿を気に入ったからだ。誰もその裏側にあるものを見ようとはしない。
しかし少女は、今まで出会ってきたどんな女とも違っていた。死天使を苦もなく破壊するレイゲンを恐れるどころか、近づいてくる。自分がいつか破壊されるかもしれないと知りながら。
鉄格子に仕切られた部屋の中に閉じ込められていた少女。レイゲンは以前、彼女に自己を重ねたことがあった。おそらくは彼女も、人とは違うレイゲンに己を見ているのだろう。
(……仕方がない、か)
死天使の行動を監視し、問題が起こった場合即座に破壊する。少女と顔をあわせる前に、父であるベイルから下された命令。ウルスラグナ訓練校に入ってから、知らぬ内にその命令に背いていた自分。子供じみた理由や、個人の感情を優先して任務を放棄するわけにはいかない。自分は、可能な限り少女を監視していなければならない。
それにもう、少女に深く関わりすぎてしまった。その存在を無視し続けていくことはできないだろう。ハイネに投げ飛ばされた少女を受け止めた時、はっきりと自覚してしまったのだ。
(俺はこいつを、放っておけない)
「いいだろう。お前は力の制御の仕方もわかっていないようだからな。それが原因で正体が知られたら、今までの苦労が水の泡になる」
素っ気なく口にすると、少女の表情がぱっと明るくなった。両腕を上げ、子供のように喜びを表現する。
「はいっ! ご指導のほど、よろしくお願いします!」
意気込んだ調子で言い、少女は腰を折った。彼女の無邪気なさまを見て、レイゲンは己の口許にかすかな笑みが浮かぶのを感じた。
隣りあったふたつの影を、月が優しく照らしていた。




