04.人の心はあまりに遠い
敵を排除し終えると、兵士たちは近づいてきた。
青年の軽装は、六人の兵士たちと並ぶと浮いて見える。鋭い瞳が警戒心をありありと感じさせていた。
隊を率いる立場なのだろう。六人の兵よりも意匠が凝らされた鎧を着た兵士が、前に出る。兜から覗く太い眉は泰然とした雰囲気を醸しだしており、口許が隠れるほどの濃い髭が蓄えられている。
「私はグリマール三壮である。我々は反帝国組織のベイル総司令の命令により、お前たちを救援に来た」
テレサが小声で教えてくれた。壮とは兵士の鍛練を行ったり、隊の分隊長を努める軍の階級のひとつである。
「ご協力いただき、ありがとうございます」
テレサは深く頭を下げる。彼女の黒い衣服は赤黒く染まっていた。生地は裂け、乾ききっていない血が肌を濡らしている。そのさまを見て、兵士らは動揺したように目を見開いた。ただひとり、青年だけは表情を動かすことはない。
「貴様、なぜその傷で騎乗していられる。常人ならばとうに意識を失っているはずだ」
グリマールの厳しい声を聞いて、フェイヴァは今さらながらにテレサの正体を疑った。
人間の女が、大勢の兵士に囲まれて無傷で逃げられるわけがない。そもそもフェイヴァと出会ったあのとき、死天使を倒すことすらできないはずだ。
もしかすると、テレサもフェイヴァ同様に人ならざる者なのだろうか。
(……私と同じ)
意識を苛んでいた痛みが消えていることに気づいて、フェイヴァは自身の身体を見下ろした。脇腹の銃創に触れてみると、肉が覗いていたはずの場所には、新しい皮膚が被さっていた。
(再生してる……)
背中にじわりと生温い汗がにじんだ。血が肌にこびりついていなければ、フェイヴァが傷を負っていたとは誰も思わないだろう。
「総司令から命令を下された時は、耳を疑った。兵器開発施設から死天使を連れだしてくるので、保護を頼みたいだと。女がたったひとりで、死天使と兵士が大量に配備された施設から逃げられるわけがない。しかし現にお前は、それをやってのけた」
グリマールの鋭い眼光が、テレサに向けられる。
「テレサ・グレイヘン。貴様は何者だ?」
「それをあなたがたにお話しすることはできません。時がきたら司令にお伝えします。だから今はどうか、ご容赦ください」
テレサはグリマールと兵士たち、そして青年を見回すと深々と頭を下げた。
グリマールは表情を険しくしたが、やがて翼竜を方向転換させフェイヴァたちに背を向けた。
「まずはここから離れるぞ。手当てをしてやる」
白い花をつけた木々が、甘い香りを漂わせている。渓流を挟み樹木が生い茂る地に、兵士たちは降下した。
曲線を隠す鎧に身を包んでいるせいで気づかなかったが、女がひとり混じっていた。彼女はテレサに声をかけると、救急箱を持ち、人目の届かない場所に移動する。ふたりの兵士がテレサたちの後ろについていく。襲撃される危険性があるということだろう。
テレサが心配になり駆けだそうとしたフェイヴァだったが、目の前に銀の軌跡がよぎり、踏みとどまった。青年がフェイヴァの身体の前に大剣をかざしたのだ。
「な、なんでしょうか」
「動くな」
一言口にしたきり、青年は押し黙った。身じろぎさえはばかられて、フェイヴァは後ろの気配を探る。グリマールと二人の兵士が距離を離して立っているのが、彼らが発する物音の小ささから察せられる。剣の柄に手をかける音が、聴覚にはっきりと届いた。フェイヴァは緊張に身を強張らせる。
テレサたちが戻ってくるまでの間、フェイヴァは気まずさに押し潰されそうだった。ときおり木々の奥から獣の唸り声が聞こえて怯える。しかし場に立ちこめた重苦しい沈黙が、不安な気持ちを口にすることや、声の正体を聞くことを許さないような気がした。
しばらくすると、傷口に包帯を巻かれたテレサと兵士らが戻って来た。木に繋いでいた翼竜に乗ると、空に舞い上がる。
フェイヴァとテレサは兵士たちに囲まれて飛行した。先頭をグリマールが行き、ふたりの周囲を五人の兵士が固めている。後方をひとり、大剣を抜いたままの青年がついてくる。
翼を使って飛行していたフェイヴァは、兵士たちの目が気になった。歴戦の強者らしく感情を顔に出さないように努めてはいるが、ふとした瞬間に見せる眼差しからは困惑や恐怖が透けて見える。
理由は探さずとも理解できた。彼らはフェイヴァが天使の揺籃から生まれた死天使であることを、テレサから伝えられているのだろう。
深い森林を移し取った色をした、鎧の化物。赤い眼光は血のようで、思い出すだけで震えが走る。自分の存在を考えるたびに、フェイヴァは自己嫌悪とともに揺籃の異容を思い浮かべてしまう。
(あんなに気持ちが悪い化物の中から生まれたんだもん。私のことを悪く思っても仕方ない)
なぜならフェイヴァも、自分自身が一番気持ちが悪いから。
けれど、気味が悪いと思われているからといって、何もせずにいていいのだろうか。彼らはフェイヴァたちを救ってくれた。礼を言わなければ。
フェイヴァは深く呼吸をする。兵士たちの頭であるグリマールに話しかけようとした時、隣を飛んでいたテレサがフェイヴァの気持ちを読んだらしい。左手をフェイヴァの前にやり、とどめた。
「みなさん。少しよろしいでしょうか」
羽ばたきが生み出す乱気流の中でも、テレサの凛とした声はよく通った。
グリマールが振り向き、兵士たちはふたりに顔を向けた。
姿勢を正して白衣の襟を握り締めたフェイヴァは、テレサに優しく背中に触れられて、口を開いた。
「お母さんと私を助けていただいて、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げたあと、フェイヴァはそろりと顔を上げた。自分に向けられる不審の目つきが、少しでも和らぐことを期待して。
兵士たちは困惑の念を更に強めただけだった。口許を引き攣らせている者。眉を寄せて、顔をしかめている者。いずれの兵からも好ましい感情は感じ取れない。青年もまた、動揺を隠しきれない様子でフェイヴァを見ていた。
フェイヴァは落胆とともに彼らの表情を瞳に入れ、面を伏せた。桃色の髪が目に被さる。
「ベイル総司令にお伝えしました。フェイヴァは他の死天使と違い、心を持っています。ですからどうか、普通の人と接するようにこの子と話してあげてください」
お願いします、とテレサは頭を下げる。
フェイヴァは先ほどまで戦っていた死天使を思い返した。無表情は、攻撃を受けても崩れることはなかった。痛みを感じていないように、ただ目の前の敵を排除するために大剣を振り続ける。兵士たちにとって、死天使とはそういうものなのだろう。意思表示せず、言葉を投げかけることもない。
フェイヴァの存在は、彼らにとって不気味でしかない。
「我々はお前たちを送り届けるだけだ。余計な言葉を交わすつもりはない」
人が人を見る温かみのある眼差しではない。世にもおぞましい存在を目にし、気分を害したように語調を荒くしたグリマールは、前方に向き直ると翼竜の胴を蹴った。強く羽ばたき翼竜は距離を離していく。
人間ではない証を見せつけ続けるのは、もう耐えられなかった。察したテレサが翼竜の速度を落とした。フェイヴァがその背中に腰を落とすと、翼は微かな音を立てて背に収まった。手を後ろに回して触ってみても、そこに翼があったとは思えないほど滑らかな肌の感触がある。
泣いてしまいそうになって、フェイヴァは瞼を強く瞑った。
「いやな思いをさせてしまってごめんなさい。私ひとりではあなたを守りきれる自信がない。だから、彼らに協力をお願いしたのよ」
テレサが言葉を投げて気を紛らわせてくれたおかげで、フェイヴァは煩悶に落ちこまずに済んだ。
「お母さん。反帝国組織って何?」
「ディーティルド帝国を倒すためにロートレク王国が立ち上げた、非公式の下部組織よ」
「……反乱軍、なの? そんな人たちに助けられて、私たちこれからどうなるの?」
ディーティルド帝国と敵対する組織に助けられたのだ。もしかすると、ディーティルド帝国に居続けるのと変わらないことをさせられるかもしれない。
テレサの顔は憐憫に染まっている。
「私は彼らと取引をしたの。しばらくの間は、自由が約束されているわ」
籠の中から脱することができたと思った矢先、視界の先にはまた別の籠が扉を開いて待っていた。そんな気分だった。
フェイヴァたちの自由は永遠に続くものではない。当たり前だ。彼らはディーティルド帝国を倒すために活動している組織だ。なんらかの益がなければ、救ってもらえるはずがない。
「しばらくっていつまで? 期間が終わったら、私たちは何かをしないといけないの?」
テレサは振り向くと、フェイヴァの手をぎゅっと握った。彼女の柔らかな手は、乱れたフェイヴァの心を少しだけ落ち着かせる。
「今は、そのことは考えないようにしましょう。あなたはこれから、フレイという国で、私とふたりで暮らすのよ。都市のいろんな場所をお散歩しましょう。美味しい料理をたくさん教えてあげるわ」
フェイヴァはテレサの手を握り返しながら、俯いた。それではまるで、普通の人のようだ。テレサと一緒にいられることに安堵はしたが、人ではない自分が人のように過ごすことに戸惑いを抱いた。
「おい。無駄話をするな」
後ろから近づいてきた青年に声をかけられ、フェイヴァは肩をびくりと跳ねらせた。
「あら、ごめんなさい。フェイヴァ、彼の名前はレイゲン・デュナミスよ。ご挨拶なさい」
「……初めまして」
テレサがレイゲンの方を向いたまま、フェイヴァに言葉をかける。挨拶を促されて無視をするのは相手に悪い。フェイヴァはぺこりと頭を下げた。
レイゲンは答えない。テレサを睥睨する。
「話は聞いていたが、まさか本当に心が読めるとはな。俺はお前たちと親しくなるつもりはない。気安く名前を呼ぶな」
「あら、ごめんなさい。あなたは恥ずかしがり屋みたいだから、代わりに紹介した方がいいと思ったのよ。それにしても、無駄話は酷いわね。娘が不安がっていたら、励ましてあげるのが親の努めよ」
「娘だと? 笑わせるな」
レイゲンの辛辣な言葉に、フェイヴァは伏せていた顔を上げた。怒りか悲しみか判別できない感情が、胸の内を満たす。
レイゲンは鼻で笑った。フェイヴァに目を止めると、かすかな嘲笑を浮かべていた彼は、唐突に真顔になる。
レイゲンの表情の変化の理由がわからず、フェイヴァは彼の視線を追った。そこで初めて、白衣の下の肌が露わになってしまっていることを知った。赤面し、慌てて両腕で胸を隠す。
「きゃあっ! 見苦しくてすみません!」
「……励ます前に、まず身だしなみを注意しろ」
青年は顔をしかめると、翼竜の飛行速度を落とした。後ろに下がって行く。
きっと死天使との戦いで、胸元の釦が外れてしまったのだ。フェイヴァは指を震わせながら、白衣の釦をとめる。恥ずかしさで今にも涙がこぼれてしまいそうだ。
「うう。変なもの見せちゃった……」
「そんなことないわ。あなたは普通の女の子と同じ身体つきなのよ。彼は内心で狂喜乱舞して、とてもいやらしいことを妄想しているわ。この変態」
「ほ、本当?」
(それはそれで……いやだなあ)
控えめに言って、気持ち悪い。
「ふふっ。冗談よ」
テレサの口許が柔らかく笑った。フェイヴァは口をあんぐりと開ける。
「馬鹿が。ふざけたことを抜かすな」
レイゲンは心外だと言わんばかりに、怒気を孕んだ声で言う。
テレサは片手で翼竜の手綱を握り、指で下瞼を引っ張った。舌を出して彼を挑発する。
「人に失礼なことを言うんだもの。お返しよ」