03.黒と白の天使
視界に映る城が急速に小さくなっていく。
フェイヴァがほっと吐息を落としたのもつかの間。笛の音が虚空に打ち上げられた。
青い空の中、灰色の翼竜に乗った兵士が迫ってくる。城にいた兵士と同様の鈍色の鎧を身につけて。竜具に装着された吊革つきの鞘に槍を差し込んでおり、背には長剣を負っている。右手には、片手で操作できるように大きな取っ手が取りつけられた銃を握っていた。
前方に兵士の姿を捉えたフェイヴァは、翼竜の羽音を耳にして首を巡らせた。フェイヴァたちを押し包むように、四人の兵士が接近してくる。
テレサは翼竜の胴を蹴り、正面突破を試みた。首を後ろに引いた翼竜は翼を大きく広げる。テレサに御されるまま兵士に突撃した。
前方の兵士は銃の引き金を引いた。高らかに響く激発音。テレサが展開させた盾は、彼女の眼前で散弾を阻んだ。
翼竜は速度を落とさずに、兵士の真横に並ぶ。テレサが振り抜いた拳が、兵士の肩を強か打ち据える。兜の下の顔が苦痛に歪んだ。手から銃が滑り落ちる。
兵士が槍を引き抜く前に、テレサは彼を抜き去った。フェイヴァたちの後ろを取った三人の兵士は、銃の引き金を弾く。発射された散弾はしかし、フェイヴァと翼竜に触れることはない。淡く光る壁が立ち塞がり、弾き落とす。
フェイヴァは後ろを振り向き、兵士たちを見た。三人の兵士は、片手を取っ手にひっかけて銃を回転させるという独特の動作で、装填と排莢を行う。引き金に指をかけると、無数の小さな弾を撃ち出した。
そのすべてを、テレサが構築した盾が防ぐ。
銃を構えた兵士たちの後ろから、テレサが銃を弾き飛ばした兵士が後続する。右手には大きな笠状の鍔がついた槍が握られていた。
いくら騎乗中に扱える銃とはいえ、片手で翼竜を御すのは限界がある。銃撃中はどうしても飛行速度を落とさなければならない。その間が着実に、フェイヴァたちと兵士らの距離を離していく。
逃げられる。白衣の胸元をきつく掴むほどの緊張を、フェイヴァは解きそうになった。
瞳に、唐突に飛び込んできたものがあった。
兵士たちの背後に浮かんだ、小さな影。最初はただの黒点にしか見えなかった。だが距離が近づくにつれ、それは鳥の姿に変わり、ついには翼を背負った人間だと判明する。
フェイヴァの恐怖が伝わったのか、テレサは突如高度を下げた。が、翼竜の飛行速度を越える速さを持つ彼らには、無駄な抵抗だった。上空から振り下ろされた刃が、テレサの肩から血を吹き出させる。彼女の身体が前のめりに傾いた。
「ああっ……!」
フェイヴァの口から思わず呻き声がもれる。テレサの身体が翼竜の鞍から落ちる──フェイヴァは咄嗟に彼女の衣服を掴んだ。
痛みに顔を歪めながらも、テレサの目は反撃の意志を失っていない。光を纏った手刀を振り抜くが、距離を取って躱された。
テレサを斬りつけたのは、黒い衣服を着た男女だった。浅黒く焼けた逞しい身体つきの男。透き通った肌をしている金髪の女。二人の顔は共通して無表情だった。彼らの肩からは翼が広がっており、羽ばたきながら空に二人を繋ぎ止めている。
柔らかな陽射しを受けて、羽根の一枚一枚が光を照り返す。漆黒の金属で造られた翼だった。
(死天使……)
兵士が口にしていた名称。フェイヴァと同じく天使の揺籃から生みだされた、人ならざる者。その面には、フェイヴァと違い表情の変化というものがない。そういえばテレサに倒された少年も、顔を殴られたというのに苦痛に歪むことはなかった。
(この人たちは、本当に私と同じなの……?)
テレサを支えていた手が外されるのを感じて、フェイヴァは物思いから脱却した。
テレサの肩に深々と刻まれた傷に、フェイヴァは茫然とする。鮮血によって肌の色も黒い衣服も色を変えていた。斬り開かれた肉が濡れ光っている。骨が覗いていないのが不思議なくらいの重傷だ。
(こんなに、酷い傷)
「消耗が激しい。一体はどうにかなったけれど、今の状態で二体を相手取るのは……」
荒い呼吸をしながら、テレサは悔しげに言葉にする。彼女は死んでしまうのではないだろうか。フェイヴァは恐怖に震えた。
「ここは食い止めるわ。私をおいて逃げなさい」
翼竜の羽音が被さっていても、テレサの冷静な声ははっきりと聞き取れた。
「あなたも彼らと同じように、翼で空を飛ぶことができる。ここから西に進路を取りなさい。味方が助けにきてくれているはずだわ」
「そんな! あなたも一緒に」
テレサはフェイヴァの胸をぐいと押した。フェイヴァは虚空に投げだされる。しかし、身体が風の中を突き抜けていく感覚はなかった。
フェイヴァの肩甲骨部分から、金属の羽が立ち上がる。そこから無数の羽根が展開し、翼を形成したのだ。
身の丈を越えるほどの翼を広げたフェイヴァは、死を司る天使とはあまりにかけ離れていた。
その翼の色は、暗闇の中で小さく、しかし強く瞬く光。純白だったのだ。陽光を吸収しているのか、羽根は淡く発光する。
またひとつ、自分が人間ではない事実を突きつけられて、フェイヴァは目を伏せた。
「あなたを生かすためだけに、今日まで生きてきたの。お願い……フェイ、ここから逃げて!」
死天使がテレサに向かってくる。
死天使たちの表情からは感情が伝わってこない。にもかかわらず、まるで目標の命を断つ瞬間を心待ちにするかのごとく、速度が増した。
テレサはフェイヴァを置き去りにすると、死天使たちに接近する。
先頭を行く男の死天使が剣を払った。テレサの拳と接触すると、硬質な音を響かせる。
男を飛び越えた女が、テレサの上空から強襲する。急降下とともに振り下ろされた刃を、テレサは直前で身を引いて躱そうとした。が、避けきれずに腕を斬られる。血が迸り、青の景色の中で赤が異彩を放った。
死天使の後方から兵士たちが散弾を撃つ。死天使に当たるのも厭わない銃撃だ。実際に弾が直撃しても、死天使たちは動きを止めることはなかった。
テレサは翼竜と自分を守るべく光の盾を構築する。
兵士たちの銃撃はテレサにとって脅威となることはなかった。だがなぜか、死天使の攻撃からは身を守ることができていない。
(──もしかして)
テレサは人の心を読めると言った。相手の思考から攻撃を先読みし、防ぐことができるのかもしれない。しかし人ではない死天使に対しては力を及ぼすことができない。だからこんなにも苦戦している。
このままでは、テレサは殺されてしまうだろう。
彼女を残して逃げてしまいたい。
フェイヴァの身体は、そう望んでいた。痛い思いをしたくない。死にたくない。
けれどもその思いは、一度捨てたものだった。
天使の揺籃から生まれた自分に、優しく白衣をかけてくれたテレサ。あの時の表情はまさしく、娘の世話を焼く母親そのもののように思えた。彼女の言葉があったからこそ、フェイヴァは生きてみようという気持ちになれたのだ。
テレサはフェイヴァを助け出しただけでなく、生きようとする意志までも授けてくれた。
(ここであの人を見捨てたら、私は絶対に後悔する)
ならば、やるべきことはひとつだ。
弱々しく震える気持ちを奮い立たせて、フェイヴァは翼を羽ばたかせた。背を向けている死天使に肉薄する。
肩を掴み払った弾みで、死天使と向かい合った。彼は動揺の一片さえ見せずに、フェイヴァを視界に入れる。振り上げられようとした腕を掴むと、フェイヴァは膝を叩きつけた。肉がひしゃげ骨格が軋むような感触が、膝に伝わってきた。そのまま手から大剣をもぎ取ると、死天使の腹を足蹴にして距離を取る。
テレサを背にしたフェイヴァは、大剣の切っ先を敵に向けた。
異常な力を持っていたのはフェイヴァも同じだった。分厚く長い刃を持つ大剣が木の枝のように軽い。戦い方など知らないはずなのに身体が自然に動く。
フェイヴァもまた、戦うために造られた天使なのだ。
「フェイ……」
呆けたようなテレサの声が、背中に投げかけられる。驚愕の表情を浮かべる彼女の顔を、フェイヴァは思い浮かべることができた。
「何をしているの! 早くここから離れなさい!」
「そんなことできない! だって、私に生きたいって気持ちを教えてくれたのは、あなただから!」
テレサがはっと息を呑むのが、フェイヴァには聞こえた。
「私はまだ何も知らない。自分のことだって嫌いだし、どうやって生きていけばいいのかわからない。──でも! あなたと一緒なら怖くない。あなたとなら生きていける。ふたりでここから逃げようよ! 私たちはまだ、始まったばかりなんだもの。そうでしょう? ……お母さん!」
自分の身の内にあることも知らなかった翼は、フェイヴァの手足と変わらぬ馴染んだ動きをする。
突き出された女の大剣を、フェイヴァは刀身を振り上げ受けた。刃が噛み合い互いの力を受けて震える。
フェイヴァは片足を振り上げて女を蹴る。しかし足先が届く前に女が上昇し、刃を振り抜いた。フェイヴァは後方に下がり回避しようとするが、避けきれず切っ先が首を浅く斬る。
背後から響く空気を震わす発砲音。死天使の動きにばかり集中していたフェイヴァは、兵士たちの存在をすっかり忘却していた。散弾が広がっていき視界に迫る。
テレサが翼竜を駆りフェイヴァの前に踊り出ると、光の盾ですべてを弾いてみせる。
「駄目よフェイ。このままでは……」
焦燥に染まったテレサの声音。彼女は弾かれたように、上空を仰いだ。
不安が胸を圧迫する。フェイヴァは自然と、テレサが見ている方角を目で追っていた。
視野に広がったのは、兵士たちの後方から迫る無数の影だった。
彼方から翼竜を駆ってくる新手の集団は、空に広がった黒雲のように見えた。その中から一つだけ突出した竜が、高度を下げながら急接近してくる。
手綱を引いているのは、まだニ十代にも満たない青年だった。切れ長の瞳と、鼻筋の通った端正な顔立ちは、彼を大人びて見せる。動き易さを追求した青い衣の上に、革の鎧を着込んでいる。艶やかな髪の下で、瑠璃の虹彩に朱が混じった独特の双眸が、兵士たちを見据えた。
兵士たちは青年に気がつくと、それぞれ方向転換をし、引き金を引く。
予期していたのか、青年は翼竜に散弾が当たらぬように高度を下げていた。背中に負っていた大剣を鮮やかな動作で抜くと、刃の背を走らせて自分におよびかかった弾を弾く。類稀なる動体視力を持たなければ、不可能な技だ。
青年は翼竜の手綱を繰り、兵士たちの傍らを抜けて行った。急ぎ彼の背中を撃とうとする兵士たちだったが、青年の後に続いて戦場に到着した国籍不明の兵士たちによって阻まれる。
テレサが翼竜を上昇させ、青年に道を譲った。
斬りかかろうとしていた女の死天使が、翼を広げ彼女の後を追う。
青年は翼竜を巧みに御し、死天使の背後を取った。青年の気配を察知し、女は振り向きざま大剣を突き出した。それを首を傾けて躱すと、彼は両手で振り上げた刃を打ち下ろす。
死天使は翼を使い降下すると、斬撃を避ける。そのまま上昇するかに見せかけて、翼竜を狙い刃を薙いだ。
翼竜が致命傷を負えば騎乗者の死に直結する。
青年は鞍を両足で音が鳴るほど強く挟むと、身を乗り出し大剣を突き下ろす。
死天使の大剣と青年の大剣がまともにかち合い、驚くべきことに青年の腕力が勝利する。死天使の大剣は弾き飛ばされ、虚空に消えた。距離を取ろうとした彼女の胸の中心に、大剣の刃が突き立つ。
女の死天使は大きく身を震わせると、傷口から血と火花を散らしながら、落下して行った。弱々しくなっていく火花のきらめきが、命の灯火が消えていくかのようだ。
青年の戦いぶりに気を取られてしまっていたフェイヴァは、鋭い風切り音を捉えて、やっと我に返った。
翼を強く羽ばたかせ、後方に距離を取る。死天使の拳が鼻先をよぎる。
刃を振り上げ、フェイヴァは男の死天使の腹を狙う。男は身体を空中で一回転させて、それを躱してみせる。その上回避と同時に突き出された足がフェイヴァの肩を打つ。フェイヴァの身体が後ろに押しやられ、内部の骨組みが軋むような痛みを受けた。
「どけ」
「え? きゃあ!?」
乱暴に押し退けられて、フェイヴァはよろめいた。体勢を立て直したフェイヴァの横を、青年が駆け抜けていく。
青年は男の死天使に肉薄しざま、大剣を突き出した。死天使の拳が刃の背を狙って繰り出される。拳を打ち当て刃の軌道を反らそうというのだろう。しかし、彼の目論見は外れた。
死天使の拳が到達するより速く、青年の大剣が胸の中心を捉えたのだ。
フェイヴァは驚愕し、口を叫びの形に開けた。
自らの胸に刃が突き刺さったというのに、死天使は顔色さえ変化させない。青年が距離を離せないのをいいことに、首に手を伸ばす。気道を締めつけるつもりだ。
フェイヴァは助けようと、死天使の背後に回り込んだ。が、懸念は現実とならなかった。
青年は柄から片手を離すと、死天使の顔面を強か殴りつけた。頭を形成している骨格が凹み、潰れた肉が剥がれそうになる。細身の身体からは考えられない、驚異的な膂力だ。
死天使の頭が後ろに揺れる。その隙に、青年は大剣を両手で押し込んだ。骨組みと刃の接触面から青い火花が散る。全身から力が抜けると、死天使は地上に吸い込まれて行った。
フェイヴァは眼下に消えていく死天使から、青年に目を転じた。彼は刃に付着した血を大剣を振って払う。刀身が日の光を照り返し、一際強く光り輝いた。
自分に注がれる視線に気づいたのか、青年はフェイヴァを振り向いた。赤みがかった瑠璃の瞳が、睨みつけるように細められる。
(……この人、顔が怖い)
翼竜が隣に飛んできて、テレサがフェイヴァの手を握った。
「よく頑張ったわね、フェイ。もう大丈夫よ。彼らは味方よ」
テレサの手を握り返して、フェイヴァはやっと安堵の吐息を落とした。
「この人たちは誰?」
「彼らは反帝国組織の兵士たちよ」
後方ではディーティルド帝国の兵士たちが、反帝国組織の兵士たちと戦闘を行なっていた。上半身に着込んだ鉄製の鎧。腕部と脚部は必要最低限の鉄片で補強してある。
何枚もの鉄片を重ねて造られた、機能性だけでなく洗練された構造をしたディーティルド帝国の鎧と比べてみると、明らかに貧相だった。だが、彼らが握る長剣と鎧はディーティルド帝国の兵士のような真新しい物とは違う。それはそのまま戦歴の差を示した。
翼が羽ばたく音がして、フェイヴァは顔を向けた。大剣を片手に構えた青年が、仲間のもとに向かって行く。
悪い予感がする。フェイヴァは顔を反らし、テレサの手を握りしめた。
翼竜の背では弾込めができない。五発の装弾を撃ち尽くしていたディーティルド帝国の兵士たちは、剣を抜き反帝国組織の兵士を迎え撃った。
力の差は歴然だった。反帝国組織の兵士たちが、ディーティルド帝国の兵士に躊躇なく長剣を振り下ろす。フェイヴァの聴覚に響く、人の末期の絶叫。
逃げるためには、自分たちが生き残るためには相手を殺さなければならない。フェイヴァにもそれは理解できていた。だからといって、実行に移せる勇気と思い切りは持てない。
フェイヴァの心を敏感に察知するテレサも、おそらくはフェイヴァの気持ちを察して敵の息の根を止めることはなかった。しかし、そのままではいずれ殺されていただろう。それが戦いというものだ。
それでもフェイヴァは、自分が激しく動揺するのがわかった。