02.大都市の洗礼◇
***
ネルガル。王都に次ぐ規模を誇る、ロートレク王国第二の都市だ。
緩やかな傾斜の山の上に防壁が聳え立つ。背が高く分厚い煉瓦造りの防壁の上から、更に万全を期して鉄線が張り巡らされていた。その内部に円を描くようにして四つの区画が存在し、約四千人が生活している。
フェイヴァとレイゲンは明朝にネルガルに到着した。門前に降下すると、翼竜の背から降りる。レイゲンは翼竜の角を撫でると、行け、と命じた。方向転換すると翼竜は空に飛び立つ。ダエーワ支部に帰っていくのだ。
開門の合図である鐘が二回鳴らされて、澄み切った朝の空気を震わせる。守衛士が重々しく扉を開いた。フェイヴァとレイゲンは都市の玄関である商業区に足を踏み入れる。石畳に紙袋やごみが転がっている。清掃は行き届いていないようだ。
フェイヴァはフレイ国の景色を懐かしんだ。ネルガルのように石畳ではなかったが、軽く土を踏み固めただけの地面にはごみひとつ落ちていなかったのだ。
フェイヴァは首を巡らせて、これから暮らすことになるかもしれない都市を観察した。
グラード王国と同じく煉瓦造りの建物が多い。にも関わらず、そのどれしもに温かみを感じない。グラード王国の色とりどりの煉瓦と違い、ロートレク王国の煉瓦は味気のない灰色か、くすんだ茶色をしていた。フレイ王国のように、道の脇に樹木が植えられているわけでもない。温かみのある煉瓦と鮮やかな緑がない都市は、精彩を欠いているように見える。
「なんだか暗いところですね」
「そうか? まあ、フレイと比べるとそうかもしれんが」
大通りに差しかかると、まばらだった人の数が急激に増えたように感じた。埃と赤黒い血痕で汚れた外套を纏っているのは狩人だ。彼らは外界に出て魔獣を狩り、毛皮や牙などを武具店に卸すことで生計を立てている。
片手に籠を持ち子供の手を引く母親。はたまた周囲には目もくれず目的地に足早に歩く者。呼び込みに精を出す店員。
フェイヴァは緊張に唇を引き結ぶ。レイゲンの隣から離れると、彼の背中に隠れながら歩いた。
見知らぬ人間に囲まれるのは怖い。その思いは、ダエーワ支部での生活を経てから更に強くなってしまった。
「おい、何をやっているんだ」
「知らない人ばかりに囲まれると緊張するんです。だから隠れています」
「やめておいた方がいいぞ。目立つまいとして逆に怪しくなっている」
「あわわ」
フェイヴァは周囲の様子を確認し、すれ違う人々の視線が自分に向けられているのを知った。知らない人に囲まれるのも怖いが、見られるのはもっと怖い。フェイヴァは渋々レイゲンの背中から離れて、再び彼の隣を歩いた。
「お前はこれからその見知らぬ人間の中で生活するんだぞ。そんな調子でどうする」
「……どうしましょう?」
「怯えるな、堂々としていろ。顔を上げて姿勢を正せ。自分は強いと思い込むんだ」
フェイヴァはレイゲンに言われた通りにした。前屈みになっていた背筋を真っ直ぐにし胸を反らす。視線を足下から正面に向ける。
「わかりました。わ、私は強い!」
「その調子だ」
「私は選ばれし者で最強! どこからでもかかってこい!」
ぐっと身構えると、レイゲンが嘆息した。
「段々痛い奴になってるぞ。そのくらいにしておけ」
商業区の北には宿泊施設が建ち並んでいる。ウルスラグナ訓練校入学試験は今日行われ、明日の朝に結果が発表される。一晩を過ごす部屋が必要だった。
レイゲンは店前に建てられている看板で費用を確認し、一番安い宿を利用することにした。白い煉瓦造りの建物に、黒い屋根を乗せた可愛いげの欠片もない宿だ。
簡素な扉を開けば、外観同様可愛げのない店内が露わになる。広間は酒場として使われているのか、部屋を横切って三台の机が設置されている。十人ほど集まっている客は、世辞にも行儀がいいとは言えない姿勢で椅子に腰かけていた。小麦色の酒を注いだ杯を品なく傾けている。
酒場にいる人間のほとんどが狩人なのだろう。そう思わせるほどの、筋骨隆々の肉体と強面をしている。中には魔獣との激戦を物語るように、顔に傷痕を残している者もいた。食べかけの揚げ物や和え物が、こぼれ落ちて天板を汚している。
(うーん。ちょっとここには泊まりたくないかも……)
極めつけは、フェイヴァとレイゲンに向けられる野卑と言ってもいい視線だ。彼らはフェイヴァたちが隣を通ると、口笛を吹いたり、値踏みするように頭から爪先までをじっくりと見つめてくる。どこかから、顔はいいけど胸がねぇな、という声が聞こえてきた。言い返すこともできず、フェイヴァの顔が火照る。
レイゲンは周囲の様子など構わずに、広間の奥にある勘定台に近づいていく。椅子に腰かけた頭髪が疎らな中年の店員が、新聞を片手ににやにやと笑みを浮かべていた。フェイヴァは小走りでレイゲンを追いかける。
「部屋の空きはあるか」
「おう。部屋は狭いが寝台は広いぞ。隣に音はもれねぇからな。今なら浴場も空いてるぞ。金次第で貸しきりにしてやる。楽しんでこいよ」
そう言って引き出しからひとつ鍵を取り出し、レイゲンに放った。店員の笑みは更に深くなっている。この人は何が面白いのだろうと、フェイヴァは疑問を抱いた。
(もしかして……私の顔が面白いのかなぁ?)
確認したいが手元に鏡がない。フェイヴァは仕方なく、両手で顔を覆った。
「何を勘違いしているんだ。部屋はふたつだ」
レイゲンは掴んだ鍵を店員の顔の前で揺らしながら、苛立ちが滲んだ声音を発した。
「え? 私は一緒の部屋でいいですよ。……もしかして一部屋に寝台がひとつしかないんでしょうか? もしそうなら私が床で寝ますから、レイゲンさんは寝台を使われてください」
フェイヴァは顔から手を話して、レイゲンの背中に声をかけた。どんなに安い宿代だろうと、二部屋取れば二倍の金額になる。ならば一部屋にして、半分ずつ金を出しあった方がいい。しかしレイゲンは気に食わなかったようだ。
「お前は黙ってろ」
怒られた。
「おいおいいーのかよ彼女をひとりきりにして。俺が鍵壊して襲っちまおうかな?」
勘定台の近くでフェイヴァたちの会話を聞いていた男が、酔いが回った赤ら顔に下品な笑みを貼りつけていた。一緒に飲んでいたふたりの仲間は大声で馬鹿笑いする。
「そりゃいい。おい坊主、いらねぇならその娘、俺たちにくれよ」
「天界に連れてってやるぜ」
神話についてほとんど知識がないフェイヴァでも、天界くらいなら知っていた。絵本で読んだことがある。善行を積んだ人間が死後に昇ることができる楽園だ。
(一体どういう意味なんだろう……はっ!)
彼らの言葉の意味を理解して、フェイヴァは戦慄した。男たちはきっと、天界の使者なのだ。フェイヴァを殺し天界に連れていこうとしている。
「わ、私は死んでも天界にはいけませんから、勘弁してください!」
フェイヴァはとうとうレイゲンの背中に隠れた。彼の背中からちらりと顔を覗かせると、男たちは頭に疑問符を浮かばせているような顔をした。
レイゲンさえも、こいつは何を言っているんだという思いを隠そうともしない。
「もういい。出るぞ」
レイゲンは鍵を投げ返すと、フェイヴァの腕を掴んで宿を出た。
代金が安い店ではまともな接客を受けられない。結局、それなりの値段の宿を取ることになった。




