52.死の山(1)
(これは夢だ)
そう確信できたのは、今やお決まりとなった光景が目の前に広がったからだ。
闇の中に灯る、一対の赤。
エルティアは金縛りにあったように体を動かせず、それを見ていた。しかし不思議と恐怖はない。セントギルダが襲撃を受けたあの夜、ウォルザらしき影を夢で見た時は、恐れで身体が震え出すほどだったのに。
闇がのそりと動いて、エルティアに立ち塞がるように人の形を取っていく。エルティアを越えるほどの上背。ほっそりとした身体は、女性的な曲線美を描き出す。波打った頭髪は腰までの長さをしている。──女だ。女の妖魔。
(守護者階級の女は、ひとりしかいない)
末妹のフラメイだ。エルティアはその影に意識を集中する。そうすることで、彼女の能力の一端を掴めないかと考えたのだ。──しかし、その思惑は外れてしまう。
フラメイらしき影は微動だにしない。妖魔であることを示す赤い瞳だけが、暗闇の中存在を主張する。
やがて夢の世界はぼやけ、景色がゆっくりと溶けていく。目覚めの時が近づいているのだ。
「エルティア」
名前を呼ばれて、エルティアははっと目を見開いた。視界には青空。自分は草むらの上に横になっている。
「目覚めたか。随分唸っていたぞ」
傍らに座っていたレイシスが、のんきに声をかけてきた。
共同体を出発して二日が経過した。死の山に到着する前に休憩を取ろうと、レイシスとふたり、見張りを交代しながら短時間の睡眠を取ったのだ。
「それを言うならうなされてた、でしょ。唸ってたって……女の子に使う言葉じゃないわよ」
「ふむ。本当に唸っていたのだから仕方がない。……例の夢か?」
レイシスが背嚢の中身を探る。取り出した樹脂製の筒と麺麭を、エルティアに手渡した。エルティアは筒の蓋を捻って開けると、中の水を少しだけ飲んだ。
「そうよ。死の山にいるのはフラメイね。体つきが女だったから」
「それは上々。だが、敵の正体がわかっても油断はするな。まだ能力は判明していないのだから」
「わかってる」
エルティアの無意識が、夢として強敵の存在を知らせるように。妖魔はそれぞれ固有の能力を有している。レイシスは人間の手が加えられた建材を操ることができ、次兄のブルウィーは人間そのものを操る。
フラメイの能力は一体なんなのだろう。山に根城を構えているのだから、それにちなんだ力なのだろうが。
「ねえ。ひとつ聞きたいんだけど」
「なんだ」
クロエに貰った黒っぽい麺麭を千切り、エルティアは口に放り込む。咀嚼して飲み込んだ。
「初めてこの夢を見た時、怖くて堪らなかったの。なのに今では身体が震えもしない。怖いという感情さえ浮かんでこないの。これはどうしてだと思う?」
「ふむ」
レイシスは麺麭を頬張っていた。流石の彼でも、食べながら喋るという最低の行為はしないようだ。ちゃんと口の中のものを飲み込んで、話し始めた。
「それは鍛錬と戦いによって、お前の地力が格段に上がったからだろう。無意識は、お前自身の力を正しく把握しているのだ。
エルティア、お前は今や私よりも強い。おそらくはディヴィアに迫る勢いだろう」
「あたしが……?」
静かな驚きが胸を突く。けれども、考えてみれば思い当たる節もある。ブルウィーとの戦いで、エルティアは軽症しか負っていないのだ。あの時点ですでに、エルティアはブルウィーを凌いでいたのかもしれない。
「もう私が教えることはない。胸を張れエルティア、卒業だ」
口許に笑みを浮かべながら、その眼差しはどこか寂しげで。いつもなら笑い飛ばせるレイシスの表情の変化が、この時は何故か胸に痛かった。
(なんだろ。なんか……嫌だ)
旅を始めた当初は、頓狂な物言いをする困った妖魔だと思っていた。しかし、力の制御の方法を学ぶ内に、一対一で剣を交える内に、いつの間にかレイシスは、エルティアの中で頼れる存在になっていったのだ。だから今、役目は終わったとばかりに小さく悲しげに見える彼の姿を、エルティアは認められない。
「何言ってんのよ!」
「痛って!」
レイシスの背中を強く叩く。彼は声を上げ、手の中の麺麭を落としそうになる。
「あたしはディヴィアを越えるくらい強くならなきゃいけないの。そんなあたしの相手をできる奴なんて、あんたくらいでしょ? 勝手に卒業させんな」
エルティアは起き上がると、足下に置いていた金具つきの帯を肩にかけた。抜き身の大剣を金具に差し吊るす。
「寝てたら身体が固まっちゃったわ。鍛錬につきあってよ」
「やれやれ……大手を振って隠居できるかと思ったのだが」
「お爺さんみたいなこと言わないの」
エルティアとレイシスは、互いに背を向けて距離を取ると、向かい合った。
レイシスが自身の手元に漆黒の剣を生成する。エルティアは背中の柄に手をかける。間合いを詰めようと踏み込んだ足は、あまりの力に地面に深い穴を穿つ。
***
山の稜線を目映い茜色が照らす。空が黄昏れていく中、足下の草や背を越えるほど高い樹木は、逆光の影響で暗く色を変える。
ひとしきり鍛錬をしたエルティアたちは、再び天空に飛び上がった。
空が黄昏から暮れる頃、目的地が見えてくる。
レイシスが共同体で手に入れた地図を広げる。遠目に、盆地を囲むように広がった防壁が望めた。おそらくあれが、アウラと呼ばれる都市だろう。
「アウラの周囲の山で、最も大きな……ここか」
アウラは、山に囲まれた盆地に位置していた。峻険な連山は、空の上から見ても広大で、果てがないように見える。
レイシスが指差したのは、都市を囲む山脈の中で最も大きな山だった。妖魔の視力であっても、山肌に潜む妖魔の姿を発見することができない。起伏のある地形を隠すように、深い森林が広がっている。
エルティアは、地図を背嚢にしまったレイシスに近寄った。
「先制攻撃する?」
「どうするつもりだ」
「巨人を創って、この邪魔な木を全部薙ぎ倒す。敵を見つけやすくなるでしょ?」
レイシスは死の山を見下ろして、首を横に振る。
「やめておこう。今もまだ、アウラから人が拐かされている可能性がある。もしも木々ごと人間を薙ぎ倒してしまったら大変だ」
確かにレイシスの言う通りだ。上空からでは、妖魔も人間も見分けがつかない。巨人が山の地形を変えるほど暴れ回ったら、巻き込まれた人間はひとたまりもないだろう。
「……まあ、理解できなくはないけど。じゃあ、敵の掌の上とわかっていて、飛び込むしかないのね」
「そういうことだ。行こう」
黒い外套をはためかせ、レイシスは死の山に降下していく。エルティアは彼の後に続いた。
エルティアたちが降り立ったのは、山の中腹だった。緩やかな坂を、鬱蒼とした森林と黒々とした岩が装飾している。人の出入りはまったくといっていいほどないのだろう。人が歩きやすいように道が敷かれていることはなく、靴が下草を踏み分けた跡さえない。
レイシスは手近な木の枝に背嚢を吊るした。頭巾を脱ぎ、緩くうねった銀髪を帯状の織物でまとめ直す。
周囲の木々が強風に揺れている。潮騒に似た木のざわめきに紛れて、何かが草を掻き分ける音が近づいてくる。
「レイシス」
帯についた金具から大剣を引き抜き、エルティアは周囲に視線を走らせる。
「わかっている」
レイシスが答えた瞬間。妖魔の力が形作った漆黒の刃が、エルティアたちに殺到してきた。エルティアは空を飛んで躱す。同時に刃が飛んできた位置から、妖魔の居場所を推測する。
エルティアたち妖魔が力で形作った武器は、使用者から遠く離れた位置から放つことはできない。力の発生位置は、どんなに使用者から離れても、一米前後が限界だ。
エルティアは身体を駆け巡る光輝の力を五振りの剣に収斂し、放つ。一直線に突き進んだ剣は、エルティアたちを狙った漆黒の刃が飛んできた位置に、吸い込まれるように消えていった。草むらが大きく揺れ、人影が飛び出す。敵のあぶり出しに成功したのだ。
エルティアが放った剣を避けた妖魔たちは、エルティアに狙いを定めて飛びかかってくる。黒い外衣を身体にまとい、深紅の瞳を爛々と輝かせる。五人。しかも守護者階級には遠く及ばない、使い捨ての戦士である妖魔だ。
エルティアは大剣を右手に構えると、飛び込んできた妖魔の一人を薙ぎ払った。光輝の力を伝わせて、白く発光した大剣は、妖魔の首を易々と斬り落とす。
先頭のひとりを倒しても、妖魔の勢いは止まらない。正に鉄砲玉だ。エルティアに迫り、発達した黒い爪を振りかぶる。エルティアは必要最低限の動きで腕を避け、自分の手足のように大剣を操り妖魔を捌いていく。二人目、三人目、四人目。
眼前に飛び込んできた五人目の妖魔は、頭上に漆黒の剣を構えていた。エルティアが近づいた瞬間に、身体を叩き斬るつもりなのだ。
エルティアは大剣を振り上げて、妖魔の剣を受けた。妖魔を殺すために生み出された、ただひとつの力──光輝をまとわせた大剣は、ぎりぎりと刃を噛み合わせ、ついに漆黒の剣を叩き折った。
「ふっ!」
エルティアは妖魔の身体を蹴りつける。妖魔は表情を驚愕に染めて、身体をくの字に曲げて吹き飛んでいく。五米ほど宙を飛ぶと、木の幹に激突して止まった。
妖魔と距離を詰めると、エルティアは右手の大剣を走らせた。幾筋もの太刀筋はまるで花のような形を描いて、妖魔を細切れにする。
周囲に動くものがなくなったことを確認すると、エルティアは目でレイシスの姿を探した。
「心配するな。私も終わったところだ」
エルティアから遠く離れた場所に、レイシスは立ってた。足下には点々と、三人の妖魔が転がっている。全員が首を落とされていた。見開いた瞳が宙を見つめたまま固まっている。
普段から白いレイシスの面は、今は妙に蒼ざめている。敵対しているといっても、彼にとっては同族だ。同じ血を引いている者を手にかけることに葛藤があるのかもしれない。
「あんた、妖魔を殺すのは初めて?」
「いや、違う。……だが、いつまで経っても慣れない感触だ」
聴覚が、遠くから響いてくる声を捉える。それは次第に切迫した響きを伴い、ついには怒りすら感じさせる声音になる。
一体どれほどの妖魔が潜んでいるのだろう。話し声から推測して、十人──いや、二十人は下らないだろう。
「きりがないわね」
「何をする気だ?」
「まあ見てなさいよ」
エルティアは声が聞こえた方向を向くと、心を静めて精神を集中する。




