49.生きる理由 生きた証(3)
日が傾いていく。投げかけられる茜色が目に眩しい。
子供たちはひとり、またひとりと家に帰っていく。ディルは別れを惜しんでいるのか、いつまでも手を振っていた。小さな背中が寂しそうに見える。
(無理もないか。奇跡的に出会えた、歳の近い友達だもん)
ディルが育った都市で、どのような交友関係を築いていたかはわからない。しかし彼女の人見知りを考えるに、都市でも特別な友人には恵まれなかったのではないか。──エルティアには、そんな気がする。
「ディル、あたしたちも帰ろっか」
重く痺れた心を抱いたまま、エルティアはディルとともに公園を後にする。住宅地の細い枝道を歩きながら、マッシュたちの家を目指していると。
「あっ、おじちゃんだ」
レイシスが、修繕の跡が真新しい一軒家から出てくるところだった。黒い頭巾を目深に被り、外套を風になびかせている。
「本当だ。……何やってんだろ」
レイシスの後に続くように家の玄関から出てきたのは、老夫婦だった。齢七十に達していると思えるような深いしわを、顔や手足に刻んでいる。ふたりとも腰が曲がっていたが、老爺の方は更に後頭部が寂しい有り様になっていた。老婆は短い白髪を後ろに撫でつけている。長身のレイシスと並べてみると、ふたりは本当に小さく弱々しく見えた。
「レイゲン様、本当にありがとうございます」
「粗茶しか出せず申し訳ありません」
「いや、力になれたなら良かった。お茶、美味しかった。ありがとう」
老夫婦を背にし、レイシスがこちらに歩いてくる。エルティアはじっとりとした眼差しを彼に送った。
レイシスが旅をしていた頃、方々で人助けをしては戦天使レイゲンに間違われることがあったと言っていた。否定してもきりがないので、言うに任せると口にしていたが。
(だからって、旅をしてる今も同じように振る舞われたら困る。何か間違いが起こったらどうしてくれるのよ)
自分とディルに迷惑をかけるのだけはやめてもらいたい。エルティアの思惑とは裏腹に、レイシスは弾んだ足取りで歩いてくる。どこか機嫌よく見えるその表情も癪だった。
エルティアは、近寄ってきたレイシスの耳を頭巾の上から掴んで引っ張った。
「なんで否定しないのよ! 変なことになったらあんたのせいだからね!」
「いててててっ!」
「エルティア、おじちゃんが痛がってるよ!」
ディルの悲痛な声に、エルティアはさっと彼の耳から手を離した。レイシスを前にするとついやりすぎてしまう。
「で? なんで戦天使に間違われたのよ」
「うむ。見回りの仕事の帰りに、あの老夫婦と知り合ってな。聞けば家の修繕に難儀していると言う。丁度時間も空いていたから、手伝いに行ったわけだ。重い瓦礫や崩壊した壁などを片づけている内に、名を聞かれたから答えた。そうしたらこの有り様だ」
「……何よそれ。だいたい、もうちょっと人間らしくしなさいよ。休み休み作業するとか、やりようがあるじゃない」
傷ついたディルの心を癒やすために、ここ共同体で不審な真似はできないのだ。懐疑が確信に行き着けば、都市から追放される可能性がある。レイシス自身もそれを知っているだろうに。
「あのふたりは困っていたからな。心から助けを必要としている者には、全力で応えねば」
レイシスの心根には、お人好しという特質が強く結びついてしまっているのだろう。彼は正に慈心を体現している。エルティアでさえ、これほど人に親切にはできない。
「……やはり名前だな。名前が似すぎている」
見ず知らずの人間のために骨を折り、施しはすれど奪わない。レイシスのそうした立ち居振る舞いが、信心深い者たちに戦天使の姿を想像させるのだろうが──当の彼はまたとんちんかんな予想を立てていた。
エルティアは呆れた。それはもう溜息とともに肩が落ちるくらいに。
「……そうね。あんた改名したら? ディル、何かいい案はない?」
エルティアと手を繋いでいるディルは、しばし考えるように目線を空中に向けた。
「……白髪太郎?」
「ただの悪口ぃ!?」
「ふっ……。随分直球ね」
エルティアは控え目に笑う。レイシスが大袈裟に身体を仰け反らせるものだから、ディルはきゃはは、と声を上げて笑った。
***
静かな夜だった。換気をしようと開けた窓から緩やかに風が吹き、蝋燭の火がゆらりと揺れる。
ディルが眠りに就いたのを見計らって、エルティアはレイシスの精神世界に誘われた。理由はもちろん、妖魔が根城としている場所の聞き込みの成果だ。
「あたしはこれといって情報はなかった」
クロエだけでなく、加工所の従業員にも聞き込みをすれば、有力な情報を掴めたかもしれない。しかしエルティアの疲労は濃く、とても初対面の人々に進んで話しかけることなどできなかった。
「私の方は成果があったぞ」
レイシスが言うと、彼の頭上にきらきらと輝く長方形が現れた。その上に黒い線が走り、この世界──翼竜の姿を横から見たような大陸の形を描き出す。世界地図だ。
レイシスの精神世界では、彼の想像力でどんなものでも出現させることができた。
「我々の現在位置はここだ」
ホリニス・グリッタ国の首都、クリシュナを目指す旅。レイシスは黒い点を、翼竜の翼の位置──大陸の北北西辺りに表示した。
「ここから南東に向かったところに、共同体より規模の小さなアウラという都市があるらしい」
黒点はすすす、と南東に移動する。
「その近くに、人が足を踏み入れない山がある。アウラの人々が言うには、夜に山から何かが来て、人間を拐かすという。見兼ねた都市の代表者が討伐隊を送ったが、誰も帰ってこなかったようだ。そうしてつけられた名前が、死の山」
「死の山……」
なんと捻りのない名前だろう。思いはしたが、エルティアは黙っておく。単純な名前ゆえに、人々が抱く強い恐怖が如実に感じられる。
「……そこに、妖魔がいると思う?」
「まず間違いないだろう」
レイシスは迷いなく首肯する。
「誰が潜んでいるの?」
「この情報だけでは判断ができない。だが、敵は使い捨ての戦士を手駒として使っているようだな」
「どうしてそれがわかるの?」
「真夜中に家に侵入し人を拐かす。これは複数人で連れ去った人間を、守護者階級に献上しているのだろう。人間が手下の場合、痕跡もなく家に侵入し、目撃者もなく人を略取するのはまず不可能だからな」
「そうか……」
妖魔ならば人間を力づくで捕らえ、空を飛んで逃げられる。もし目撃者がいたとしても、相手が行動を起こす前に命を奪うことが可能だ。
「じゃあ、この山に行くのね」
「ああ。早い方がいいだろう。ディルの面倒をふたりに任せることになるが……頷いてくれるだろうか」
「そこは一生懸命頼むしかないわ。この距離なら……戦いを一日と考えても、五日はかかりそうね」
ディルの戸惑う顔が目に浮かぶようだった。
マッシュの家を訪ねた当初、置き去りにされることを恐怖していたディルだ。エルティアたちが理由もなく家から姿を消せば、心に更に深い傷を負いかねない。理由を説明するべきだ。けれど、彼女は理解してくれるだろうか。




