11.凄然とした現実
◇
教本を捲る音は、潮騒に似ている。
苦痛でしかなかった、鉄格子の中で過ごす時間。それはレイゲンが足を運んでくれるようになってから劇的に変化した。
食事ができることは、誰かと言葉を交せることは、こんなにも幸せなものだったのだ。レイゲンが立ち去ったあとも、フェイヴァは教本の問題を解くことで現状に目を向けずにすんだ。
ひとりの時間を学習に当てたおかげで、いつしかフェイヴァは教本の内容をほとんど理解し記憶してしまった。
「よーし、歴史の問題おーわりっと」
自分を励ますためにわざと張り上げた声は、部屋に横たわった重苦しい静寂に吸われてしまう。
教本を閉じた拍子に床に鎖が触れて、フェイヴァのおかれた状況を再確認させるように反響した。
(大丈夫。これくらいなんてことない)
暗い部屋に閉じこめられて、手足に枷が填められている。ただそれだけなのだ。食物も与えられるし、人とも会話できる。
フェイヴァをただの死天使でしかないと思っている人たちには、部屋に監禁することでしかその不安を晴らせないのだろう。その上、フェイヴァはウルスラグナ訓練校に入る予定だ。人の中で生活しなければならない。万全を期して、慎重に見極めたいと思うのは人として当然なのだ。
フェイヴァは積み上げた本の中から、算術の教本を抜き出した。レイゲンに習った問題を書き出して、復習する。
レイゲンの話では、あと六日も経てば一月が終わるらしい。それまでの辛抱だ。
(最初に会った時は、こんなに親切な人だと思わなかった)
勉強を教えてくれるレイゲンの横顔を思い返して、フェイヴァは硬筆を止めた。母であるテレサやレイゲンを強く心に思い浮かべている時だけは、ひとりではないような気がした。この思いだけは誰にも侵すことはできない。
(どうしてレイゲンさんは、ここにいるんだろう)
死天使を単独で破壊できるレイゲンを、支部にとめ置いているのは不自然な気がした。理由を考えていると、その疑問がすでに答えになっていることに気づく。
(ここにいる人たちは、そんなに私のことが怖いんだ……)
兵士たちの恐怖をこれ以上増大させたくなくて、フェイヴァは鎖を千切ることが可能なのかどうかさえ試していない。自分に対する怒りや、恐怖。それらを感じ取るたび、フェイヴァは自分の心を否定されているような気持ちになるのだ。
(……このままずっと、大人しくしていた方がいい)
何が起こっても──恐ろしい想像が頭に浮かびかけて、フェイヴァは問題に集中した。
筆を走らせる音に、石が擦りあう音が重なる。
フェイヴァは顔を上げた。見ると、扉がゆっくりと開いていく。燭台が室内を照らすように差し出された。
(レイゲンさんかな?)
珍しいことだった。レイゲンが一日に二度、この部屋を訪れることはない。まさか忘れ物でもしたのかと周囲を探るが、それらしき物はなかった。
扉が開ききる。高い靴音を響かせながら部屋に入ってきたのは、三人の兵士だった。彼らが背に負った物が目に入り、フェイヴァの身体に震えが走る。
それは、鞘に収められた大剣だった。初日にフェイヴァを部屋に連れてきた兵士たちも同様の装備をしていたが、ここまで不安に駆られることはなかった。あのときの兵士たちの面は、戸惑いと緊張がない交ぜになったように硬かったのだ。
しかし、今はどうだ。彼らの顔に浮かぶのは、間違いなく嗜虐の念だ。飢えた魔獣にも似た、爛々とした目。明らかにフェイヴァに対し敵意を漲らせている。
兵士たちは格子扉を開けると、荒々しく踏み込んでくる。怯えるあまり口許を歪ませながら、フェイヴァは腰を浮かせ壁側に後ずさった。
「何か御用でしょうか……?」
先頭に立つ兵士が吹きだした。後ろのふたりに顔を向ける。
「何か御用でしょうか? だとよ」
嘲弄するような様子で真似たあと、フェイヴァを振り向いた顔は、残忍さに彩られていた。
「人間になったつもりでべらべら喋りやがって。気色悪い」
フェイヴァは顔を伏せた。仕方がないことだとわかっていても、暴言を浴びせられるのは胸に堪えた。
「俺たちはな、クライスター三尉の命令でお前を痛めつけにきた」
フェイヴァは弾かれたように顔を上げる。視界が狭まるような錯覚に陥った。恐怖が喉の奥を凍てつかせて、かすかな悲鳴さえ漏らせない。
「壊しゃしないから安心しろ。まあ、その寸前まではいくかもな? なんにしろお前次第だ。俺たちに少しでも傷を負わせてみろ。どうなるかわかるよな?」
脳裏に浮かんだレイゲンの顔が、水面を見ているように揺らいだ。彼らに危害を加えた場合、自分に待つのは確実な死だろう。それに、自分の身を守るためだけに人を傷つけることはできなかった。そんな勇気はない。
ならば、黙って暴行が終わるのを待つしかないのか。彼らの気がすむまで、堪えるしかないのか。
「……や、やめてください……」
唇からもれた声は、あまりに弱々しい。ささいな抵抗とも言えない、力ない拒否。
「やめてくださいだと? よくもそんな口が利けるな。俺たちには、お前を半殺しにする権利がある。俺の娘は、お前ら死天使に惨殺された。後ろにいる奴らは、生まれ育った都市を失った」
後方の兵士を顎でしゃくって示した。
「ここにはそういう奴らが多い。代表として俺たちがきてやったぜ」
嘲るような表情の中で光る、怒りに燃えた瞳。危機感を覚えた時には遅かった。
フェイヴァは兵士の目を通して、彼の過去を見た。空から飛来する、黒き翼の天使。まだ十歳にも満たないであろう少女が、彼を求めて駆けてくる。その背中に、死天使の刃が落とされた。握っていた銃を落とし、彼は慟哭した。その叫びさえ、犠牲者が上げる末期の悲鳴に掻き消される。
「お前らは罪深い行為を重ねてきた。なんの痛みも伴わず、人の中で暮らしていけると思ったら大きな間違いだ」
兵士たちにとって自分は、憎き仇そのもの。大剣でフェイヴァを傷つけ、真に安全な存在であるか確かめる行為に、良心の呵責は一切感じないのだろう。
フェイヴァをダエーワ支部に迎え入れると決まった時も、いい気持ちはしなかったはずだ。その上、暴行するのではなく、ただ部屋に監禁しておくだけなんて。生温いと思ったに違いない。一月だけを部屋の中で過ごし、訓練校に入学させるなど、彼らからすれば言語道断だ。
自分は普通の死天使とは違い、人を傷つける意志はない。フェイヴァはそれをわかってほしかった。理解してもらおうとする努力を放棄して、どうして自分を見てくれるだろうか。
「……申し訳ありません」
フェイヴァは膝を曲げて、身体を前のめりに倒していく。
「私の仲間が、あなたの娘さんを殺してしまったこと。あなたがたの故郷を滅ぼしてしまったこと。謝ってすむ問題じゃないことはわかっています。……でも、ごめんなさい。私には、こうすることしかできません」
額が床につくほど、深く深く頭を下げる。
「あなたがたには、私は普通の死天使と変わらなく見えると思います。ですが、私はお母さんに心を与えられました。私は仲間たちのように人を傷つけたりしません。したいとも思いません。……だからどうか、その怒りを静めてはもらえませんか? お願いします」
自分の心情を言いきって、ゆっくりと顔を上げる。
兵士たちは鞘から剣を抜いていた。蝋燭の火を受けて、刀身が、鋭く光る。
それが答えだった。
兵士の憤怒に燃えた面持ちを、切っ先の輝きを認めた瞬間――フェイヴァの中で必死に押し込めていた恐怖と失望が、噴出した。涙が湧き上がり、頬をこぼれ落ちる。
思考が消し飛んだ頭の中に浮かんだのは、いつも優しい笑みを向けてくれた母の姿だった。
ここにテレサはいない。自分はひとり。理解しているのに、フェイヴァは助けを求めずにはいられなかった。
「や、やだ……お母さん! お母さん、助けてぇ!」
わななく唇が、たった一人の味方である最愛の母を呼んだ。
「俺の娘も、俺を呼びながら死んでいったんだよ!」