45.穏やかな時間(2)
芋と豆の汁物。鳥肉の炭火焼き。少し硬くなった麺麭。赤くて小さな種がある果物。干されているのか、昔図鑑で見た宝石のように艶々と輝いていた。それはクロエによって、嬉しい趣向が凝らされていた。半月型に切られ、兎の形に切り分けられていた。
エルティアの胸からふっと力が抜ける。思わず小さく笑みがこぼれた。
(……こんな可愛いものを出してくれるなんて)
クロエの気遣いが嬉しかった。緊張や不安で固まっていた心が少し和らぎ、胸の奥に温かさが広がる。
「こんなに料理を作って、食料は大丈夫なのか?」
料理の品数の多さにレイシスは驚いていた。聞けばクロエは食品加工の仕事を任されており、料理に使った食材はすべてその仕事で生産されたものらしい。都市の農地では芋や穀物類を育てていて、それが都市の貴重な食料源となっているのだ。
住民の労働の対価に配給されるのは、食品加工所が生産する食料と水、それと農地で収穫された芋や豆類だ。食料の加工は、主に都市に住む女たちや老齢の者の仕事だった。男たちは都市内外の見回りをしながら、食料の調達も行う。野鳥や食べられる果物が主だ。それらが加工所に運ばれ、人の手が加えられる。住民はその働き具合により評価され、食料の配給率が決定される。
病気や怪我などでやむなく働けない者には、必要最低限の水と食料が配られる。しかし、働く意志のない者は兵士の手によって共同体から追放される。
貨幣制度が機能していないからこそ、食料と水が何より重要だった。
話を聞きながら、エルティアの中に暗い思いが渦巻いていた。明日から始まる労働を思うと、気が重いのだ。自分は働いたことがない。果たして、うまく仕事ができるだろうか。
それを聞いたクロエはくすくすと笑った。
「大丈夫。加工所で働く人たちは、皆穏やかな人ばかりだから。それに私も一緒の場所だから、いろいろ教えてあげるわよ」
「ほんと? ……ありがと、クロエ」
エルティアは胸の奥で渦巻く不安が、少しだけ和らいでいくのを感じた。顔見知りが側にいてくれるのはありがたい。
長机に料理を並び終え、昼食となる。エルティアはディルを起こすと、食卓まで手を引いて連れて行った。
「俺はマッシュだ」
「私はクロエ。ディル、よろしくね?」
「……うん」
ここで互いに自己紹介をした。最初はマッシュとクロエに対して人見知りを発揮していたディルは、料理を食べ始めると少しずつ心を開き始めた。マッシュが果物で作った兎をディルの前の皿に並べてくれた。ディルは子供特有の明るい笑顔で、きゃっきゃっと声を出して喜んだ。
普段の旅の質素な食生活もあり──中でもレイシスはほとんど固形物を口にしていない──エルティアもレイシスも料理を食べることを遠慮していたが、残されたら捨てなきゃいけないから、というクロエの言葉にとうとう観念した。
エルティアは芋と豆の汁物に手をつけた。芋はほろほろと崩れ、豆は舌で潰せるほど柔らかい。咀嚼すると、優しく素朴な味が口の中いっぱいに広がった。
「……美味しい」
「本当? 良かった」
クロエは照れたように微笑む。
どの料理も味つけは濃すぎず、癖がなくさっぱりとした味わいだった。エルティアは夢中で匙を動かす。ほっとするような美味しい料理は、エルティアの胃袋ばかりでなく心まで満たしてくれた。
それはレイシスも同様だったのだろう。彼はうまい、うまいと言いながら、食事をしていた。その食べっぷりに、マッシュもクロエも嬉しそうにしていた。
昼食を終えると、片づけを四人で分担して終わらせた。エルティアたちの仕事は明日からで、マッシュたちも今日は仕事が休みだと言うので、午後からはマッシュたちの家の片づけや修繕を手伝うことになった。
廃材や木材を一抱えほど、役所前にある廃棄所から貰い、壁に開いた穴を塞ぐ。屋根にもいくつか小さな穴が開いているらしい。それを塞ぐのを請け負ったのはレイシスだった。彼は梯子を使って素早く屋根に登ると、ものの数分で穴を塞ぎ降りてきた。その身軽さは驚異的だったらしく、マッシュもクロエも若干引いているように見えた。
太陽が傾いていく。賑やかに穏やかに、時間は過ぎていった。
***
夕食を終え、住宅地の西にある共同の浴場で身体の汚れを落とすと、エルティアは穏やかな眠気を感じた。
五人で家に戻り、エルティアたちはマッシュに片づけてもらった二階の部屋に入る。
ディルが眠そうにしていたので、小さな寝台の横に座り、彼女の寝顔を見守った。左手で彼女の手を握り、右手で優しくゆっくりと肩を叩く。ディルはうとうとし始め、ついには眠りに落ちた。
「……ふわ〜」
欠伸が出てくる。いつもはこんなことありえないのに。知り合って間もない人たちとの共同作業は、精神に大きな負担をかけるものだと痛感する。
椅子に座り窓の外を見ていたレイシスは、すっかり癖となった外套についた頭巾のずれを、手で直していた。空は暗く、砂を撒いたように星が輝いている。
「あんた、大丈夫だった? 浴場で人に変に思われなかったでしょうね?」
浴室は男女別れていた。浴室は広く、湯が溜まった浴槽は十人が一斉に入ってもゆとりがあるほどだった。クロエに聞けば、山から温泉を引いてきているらしい。
レイシスはマッシュとともに浴室に向かったが、まさか湯を使う時まで外套を着ているわけにもいかない。不審な眼差しを向けられたとしても、不思議ではなかった。
「心配はいらない。浴室は湯気が出ていたし、人が多かったからな。私は隅っこにいた。誰も人の耳など注目していない」
「でも、浴室から出たら……」
「手拭いを持っていっていたから、それで頭を覆っていた。心配するな。騒ぎになっていれば、今私はここにはいない」
それもそうだと考えながらも、エルティアの脳裏に浴室から出てきたレイシスの姿が浮かぶ。頭だけを──正確には耳を手拭いで隠した、長身の男の姿だ。当然身体は素っ裸である。
「ぶっ!」
吹き出すのを我慢できない。完全に変態だ。
エルティアの想像など知らずに、レイシスは座ったままぐっと伸びをした。
「ほんの少し疲れたな。だが、心地良い疲れだ。明日はどんな人間たちに会えるのか、今から楽しみだ」
「いいね、あんたは能天気で」
「わくわくしないか?」
「全然」
まるで子供のように瞳を輝かせているレイシスに、エルティアは溜息を吐く。こちらは期待より不安が大きいというのに。
「あんたって、あたしよりもよっぽど社交的なのかもしれないわね」
「ふっ……」
「なんかムカつくからその顔やめてくんない?」
手近に何か投げられるものはないだろうか。探すエルティアに、レイシスは右手を前に出して落ち着くように示す。
「ディルが起きるぞ」
そう言われては矛を収めるしかない。ディルの穏やかな眠りを邪魔したくはなかった。
レイシスは居住まいを正した。こちらに瞳を向ける、彼の表情はどこか真剣だ。
「……エルティア。相談がある」
「何よ? ──あ」
視界が切り替わったような、妙な感覚がエルティアを襲う。ひとつ目を瞬けば、視野に捉えたのは純白の世界。粉雪のように降る、黒い小さな欠片。エルティアはそれを掴んでみた。掌を開くと消えている。やはりこの欠片も、実体ではないのだろう。
心象世界。レイシスの心の中を映した、この空間。
「何よ。マッシュたちに聞かれたら困るようなことなの?」
彼らは一階にいる。よほど大きな声で話さなければ、聞かれないとは思うが。
「念のためだ。お前も彼らに正体を知られるのは避けたいだろう」
レイシスの言う通りだ。マッシュもクロエも、突然押しかけたエルティアたちを拒まず受け入れてくれる、素直な気性の持ち主だ。エルティアは、初めて会った時の自分の素っ気ない態度を反省した。それくらい、彼らに対して愛着が湧いている。そんなふたりの表情が、エルティアたちの正体を知って、恐怖に歪むところなど見たくもなかった。
「……まあ、そうね。ふたりは良い人たちだし、ディルの反応も悪くないから。できればここを発つ時も、平穏に別れたいわね。……で? 相談事って何よ」
「他の守護者階級の妖魔のことだ」
「フラメイとウォルザのことね」
レイシスの声をきっかけに、エルティアの頭の中にふたりの妖魔の姿が現れた。次兄のブルウィーは倒した。残りは末妹のフラメイと長兄のウォルザだけだ。残りの使い捨ての戦士階級である妖魔は、物の数ではない。エルティアはセントギルダにいた頃よりも、遥かに強くなった。
「彼らがこの地、ホリニス・グリッタ国に呼び寄せられているのは知っているだろう。私の一番の懸念は、この都市が彼らの標的になることだ」
「あいつら、あたしたちの正確な居場所を知ってるの?」
「それはわからない。だが、警戒はしておくべきだ。……私は襲撃されるのを待つのではなく、こちらから出向き敵を叩きたいと思っている」
「こっちも敵の居場所なんてわからないのに、どうするのよ?」
「そこで、この共同体だ。妖魔が人間の目を恐れて姿を隠すとは思えない。必ず根城としている場所には、なんらかの異変があるはずだ。この都市には、遠くから旅をして来た者も多い。妙な噂や不気味な場所などがなかったか、手分けして聞き込みをしてみよう」
「何もしないよりはいいか……」
エルティアも、多少なりともこの共同体に住む人々に情が湧いている。そんな彼らを悪戯に殺させるようなことは、絶対にしたくない。
(でも、聞き込みか……気が重い)
エルティア自身知らなかったが、どうやら自分は人見知りの傾向があるようだ。知らない人に話しかけることに、気が引けてしまう。
反対に社交的であるレイシスは、ひとつも不安材料がないようだった。見知らぬ人間に話しかけることを、寧ろ楽しみにしているように見える。
レイシスは自分の寝床を整えると、毛布を被り「お休みっ!」と溌剌と言った。
エルティアは足下に落ちていたクロエが用意してくれた枕を、レイシスの顔面に投げつけた。
「声がでかい」
「ぶふぅ〜っ」




