35.疾く地を駆けよ
旅の間も、エルティアの光輝を使いこなすための訓練は続いた。力を目に見える形に変え、意識をのせ視界の端で捉えながら動かす。それが完璧にできるようになると、訓練は次の段階に移った。光輝の力をどのように戦闘に活かすか、だ。
レイシスとの一対一の模擬戦は、ディルが夕食を取り日中の疲れから泥のように眠り始めてから行われた。夢の中に旅立ったディルに、都市から持ち出した毛布をかけ、危険が迫ってもすぐに助けに行ける距離を保って、エルティアとレイシスは相対する。
夜の荒野に吹く風は刺すように冷たい。空には砂をまぶしたように星が散らばり、それぞれが呼吸をしているみたいに光の波長を広げている。ディルの側で燃える焚き火が唯一の光源である地上よりも、天上は輝いて見えた。
「さて、始めるか」
風が叫び声に似た音を立てて吹く。レイシスの黒い外套が大きくはためき、頭部を覆う頭巾もぶるぶると震えていた。
(今日こそは勝つ!)
エルティアは帯を使って背中に吊っていた大剣を、両手で構えた。エルティアは未だに、レイシスに一撃も与えられていない。今日こそはいつもの余裕ぶった表情を、焦りや驚きに染めてやりたかった。
大剣の鍔に配置された赤い宝玉が、エルティアの意志に呼応するかのように、焚き火の明かりを照り返す。
赤い視線が交差する。
エルティアは踏み込み、レイシスとの間合いを詰めた。肩を狙った上段からの振り下ろし。──ギンッ。エルティアの両腕が、攻撃を弾かれた衝撃で後ろにぶれる。視界の端で漆黒の色を捉えた。レイシスが力を収斂させ造り出した剣が、エルティアの刃を受けたのだ。くるりと旋回した剣は、役目を終え虚空に消える。すぐさま次の手がエルティアを襲う。続けざまに生み出された剣が、エルティアの顔を狙って繰り出された。
(──クソッ!)
エルティアは咄嗟に体勢を低くし、閃く刃を躱す。姿勢はそのまま両足を踏みしめて、大剣を片手で払った。
右手に強い衝撃が走る。エルティアの切っ先を受け止めたのは、一振りの剣。舌打ちし、エルティアは地を蹴った。後方に跳び、レイシスと距離を取る。
「このままではいつもと変わらんぞ。力を使ってみろ」
「言われなくても!」
エルティアは身体中を巡る力を引き出し、ひとつに形成しようとして──しばし思案する。
(直線的に飛ぶ光の礫や、妖魔が生み出すような剣じゃ、きっといつも通りレイシスに防がれる。規則性のない動き……ひとつだけじゃなくて複数……)
頭の中に閃くものがあった。エルティアは力を三つに分けると、それぞれに同一の姿を与えた。白銀の毛並み。野性的で凛々しい顔立ちに、四本のしなやかな脚。
遠い昔に絶滅し、今は図鑑にその名を残すのみの、三頭の狼。エルティアは図鑑で幾度となく見たそれを、想像し現実に顕現させたのだ。
レイシスが瞠目する。
エルティアの意志を受け、三頭の狼は動き出した。頭を低く下げ、四肢に力を込め俊敏に地を駆ける。三頭はレイシスに接近すると、三角形を描くように互いに距離を取った。一頭目が正面から、二頭目が横から、そして三頭目が背後から。レイシスの足下を狙い襲いかかる。
「くっ!」
レイシスは空に飛び上がる。エルティアはそれを見越していた。
(かかった!)
後ろからレイシスに飛びかかったエルティアは、引き絞った大剣の柄を前に突き出す。空気を突き抜けて前に押し出された刀身は、レイシスの腕を斬り裂く。
(やった!)
彼は体勢を崩すと地面に着地した。そのまま座り込み、自身の腕を見下ろした。やりすぎたか、と一瞬エルティアはひやりとする。
妖魔の王や守護者階級の妖魔は、妖魔の身内から生み出された力や武器以外で、致命傷を与えることはできない。傷はすぐに再生してしまう。テロメアから聞かされていた話は本当だったようだ。エルティアがレイシスの腕に負わせた傷は、すでに塞がっていた。流れた赤黒い血のみが、そこに傷があったことを示している。
「……見事だ」
レイシスは立ち上がる。傷つけられたというのに、まるで晴れ渡った空のような清々しい表情をしている。
何事もなかったかのように傷が塞がったのを見て、エルティアはほっとした。そして、安堵した自分に驚く。
(なんで安心するの。これじゃまるで、あいつを心配してるみたいじゃない)
「まさか狼に形を変えるとはな。驚いたぞ。……流石だ」
褒められて、じわじわと喜びが湧いてくる。エルティアは得意になり鼻で笑った。
「ふん。あんたたち妖魔と違ってあたしには想像力があるの。もっと精度を高めたら、別の姿にもできるかも」
「例えば?」
「空想上の生き物……竜や巨人とかね」
情操教育の時間に、バージニアに勧められて読んだ絵本を思い出した。エルティアが幼少期を過ごした一軒家には、たくさんの本があった。その本を一冊ずつ読み解いていくのも、狭い世界で過ごすエルティアの楽しみのひとつだった。
翼を広げた竜、大岩を持ち上げる巨人、花畑で飛び交う妖精たち。本の中にはたくさんの空想上の生き物が登場し、エルティアの脳裏に実在しているかのように描かれた。気に入った物語は何度も読み返し、想像の中にしかいない生き物たちを、子細に思い描いたものだ。
レイシスは人の手が加えられた建材を操って、巨人の姿に変えることができる。彼にできるのだから、自分にもきっと可能だろう。そこまで考えて、今更疑問に思う。
なぜレイシスは建物を固めて巨人の姿にしたのだろう。巨人でなくとも、他に選択肢はありそうなものである。
「想像上の生き物か……面白いことを考える」
「……ねぇ。思ったんだけど、どうしてあんたは巨人を知ってるの? あんたたち妖魔が暮らしてた世界に、巨人が生きてたとか……?」
妖魔の王、ディヴィアが子供たちとともにこの世界にやってきたのは、五十年ほど前だと言われている。この世界に現れてすぐ、妖魔の王は魔獣の祖先となる小指の先を切り落とした。それは不定形の塊となり、分裂し、野生動物の姿を写し取り、世界各地に広がっていったのだ。
妖魔がこの世界に出現した正確な年月が不明なのは、妖魔たちが本格的に侵攻を開始するまで姿を隠していたのと、尖兵たる魔獣が、徐々に世界に溶け込んでいったことが原因だった。魔獣が世界のあちこちに現れ始めた頃、人々はそれらを動物の突然変異だと信じて疑わなかったらしい。
この世界に来る前に妖魔たちが生きていた世界。それはどのようなものだったのだろう。
「ふむ。私はディヴィアたちが生きていた世界を知らない。この世界に来て、私は生まれたからな。……だが、ウォルザが言っていた。彼女たちが生きていた世界にも、ディルたちのような人間が存在していたと。それを管理するために、ディヴィアは巨人を造り、下僕として使っていたらしい。きっと私の細胞が、それを覚えているのだろう」
「そうだったの……」
妖魔が生きていた世界には、巨人が実在していたのだ。エルティアは驚きに息を飲んだ。
「……それにしても、竜や巨人か。この世界の人々にとって巨人は空想上の生き物だが、竜はちゃんと実在しているぞ」
質の悪い冗談かと思った。そんな嘘を信じるほどエルティアは子供ではない。
「ちっとも面白くないんだけど」
「本当だ。翼竜と呼ばれている、凶暴な生き物だ。その名の通り、巨大な翼が特徴的な竜だ。山岳地帯に巣を作って生息している」
「……嘘でしょ」
「お前が疑うのも無理はない。翼竜は数が少なく貴重だからな。
私が旅をしていた頃は、首都から離れた小さな都市などは、翼竜狩りを行っていたな。狩人の集団が巣を探し出し、殺した翼竜の鱗や牙、角を持ち帰る。たまに卵を見つけてくる者もいて、それは高値で取引されていた」
「幾らくらい?」
「半年ほど、金の心配をしなくても暮らしていける額……と言われていたな。翼竜の鱗は熱や衝撃に強く、装飾品や鎧に加工された。牙や角は削って武器にできる。これらは魔獣との戦いで欠かせない武具になった。
それ以外にも卵を孵化させ、産まれた幼竜を人に慣らせて移動手段として使うこともあったようだ。首都から離れた都市には自動車も行き渡っていなかったからな。苦肉の策だ」
(自動車って、確か……)
本で読んだことがある。まだ空を飛ぶ空宙機が発明されていない時代、各国の首都が挙って製造し販売した地上を走る乗り物のことだ。車体の下部には車輪か取りつけられており、燃料を補給して動く。操縦者は、車内に設置された操縦桿や足下の踏み板を操作し、方向転換や加速、停止を行う。
その価格はとても安価とは言えず、製造された当初は首都の中でも一部の富裕層のみしか手に入れられなかった。しかし時代が移り変わるに連れて、製造に使用される部品や燃料の高騰は落ち着き、首都のみならずその周辺の都市にまで、自動車は行き渡ったそうだ。
それも今や遠い昔。妖魔に破壊され、風前の灯火となった文明。首都以外の政治経済は崩壊している。自動車や二輪車の燃料は最早枯渇しているはずだ。現在も走っていたとしても、片手で数えるほどだろう。
移動手段が行き渡っていない、首都から遠く離れた都市などは、どれほどの苦労をしているだろう。エルティアには想像もできない。
(自分の力で空を飛べないなんて不便ね……)
そう思った自分に、エルティアは薄ら寒いものを覚えた。レイシスと旅を始めてから、自分はすっかり妖魔に染まってしまっている。最初は手間取った飛行は、今では目を閉じていても容易に行える。ディルと一緒にいなければ、時間をかけて地上を進むだなんて、面倒なことはしていない。
自分が妖魔の考え方に寄っている事実に、恐れよりも腹立たしさを感じた。苛立ち混じりに、エルティアはその元凶の肩を叩く。突然打たれるとは思っていなかったのだろう。レイシスは目を白黒させた。
「唐突な暴力ぅ!?」
「……なんかムカつくのよ、あんた」
「こんな無害な妖魔を掴まえて、なぜ!?」
困惑しているレイシスを放って、エルティアはディルのもとに歩いていく。




