28.心の叫び
***
レイシスと話している途中で、ディルはまた眠ってしまった。自分には理解できない話が繰り広げられていたのと、何より味方に出会えた安心感が、彼女を眠りに誘ったのだろう。
エルティアたちはディルの家に着くと、彼女を二階の寝室に運んだ。かつてはそこで、ディルの両親が寝起きしていたのだろう。大きめの寝台にふたつの枕が、夫婦の仲の睦まじさを示していた。エルティアは寝台にディルを寝かせると、身体に毛布をかけた。
レイシスはエルティアにディルを任せると、他に生存者がいないか、都市の見回りに出かけた。
ディルが目覚めたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
「……レイおじちゃん、どこ行ったの?」
寝台から身体を起こして辺りを見回したディルは、寝ぼけ眼で疑問を口にした。
寝台の横に椅子をおいてディルを見守っていたエルティアは、窓の外を見た。眩いほどの夕陽は今や完全に没し、空は闇の緞帳に覆われていた。目を眇めれば、雲に囚われた星々の、かすかな輝きが見える。
「レイシスは風に当たってくるって。心配いらないわ」
「そっか……」
まだ眠いのか、ディルは目を擦った。大きく欠伸をする。
正直に生存者を探しに行ったと言えば、ディルの姉の生存を期待させてしまうかもしれない。エルティアは適当に誤魔化した。ディルは怪しむ様子もなく、寝台の上に座る。
エルティアは台所から皿を持ってきていた。もちろん、ディルに食事を取らせるためだ。壁に大剣と一緒に立てかけていた背嚢に近寄り、小袋に入った麺麭と、飲水の入った樹脂製の筒を取り出した。それらを持って、エルティアはディルの枕元に戻った。
「……ちょっと食べる?」
「いらない。食べたくない」
エルティアが小袋を指差すが、ディルは緩く首を振った。
ディルは姉のために飲食を我慢していたと言っていた。今も姉が帰ってきた時のために、食糧に手をつけようとしないのだろう。
けれどこのまま何も食べないのでは、体力が持たない。とても旅には連れていけないだろう。今は少しでもいい、とにかく食べさせなければ。エルティアは頭を悩ませる。
「……あーあ、お腹空いたな」
自身の腹を撫でながら、エルティアは俯く。わざとらしくなっていないだろうか。正直に言うと、演技には自信がない。
「誰か一緒に麺麭、食べてくれないかな。ひとりで食べるよりふたりで食べたほうが美味しいのになぁ」
独りごちて、ちらりとディルの方を見る。彼女はエルティアを見た後、考え込むように自分の膝辺りを見下ろしていた。
「……じゃあ、一緒に食べよっか?」
「ディル、ありがと!」
ディルを抱きしめて頭を撫でる。エルティアは小袋の口を開けると、皿にざらざらと麺麭を出した。親指くらいの大きさのそれは、軽く焼き目がついていて固い。食べごたえはありそうだ。
「主よ、この食事に祝福をお与えください。頂きます」
皿を枕元の机の上におくと、エルティアは食前の祈りを捧げた。果たして救いのないこの時代が、いまだ神に見守られているのだろうか。物心ついた頃から頭の中にあった疑問。それでも、神に祈るという行為を辞められない。それは最早エルティアにとって、朝の挨拶と同様の習慣と化しているのだから。
「それ、お姉ちゃんたちがやってた」
ディルは笑い、エルティアに倣う。両手を合わせて目を瞑った。
祈りが終わり、エルティアとディルはほぼ同時に麺麭を口に運んだ。触って見れば固かったが、それは麺麭で言う耳の部分だったからだ。噛み切ってみれば意外に中は柔らかく、仄かに甘みがある。エルティアとレイシスが食べていたリコのような、わずかな甘さではない。噛んでいると、甘みと小麦の風味が伝わってくる。
「これ、美味しいね」
「うん。あ、水もあるからちゃんと飲んでね」
エルティアは樹脂製の筒の蓋を外すと、ディルに手渡した。彼女は筒を両手で持つと、ちびちびと水を飲む。その飲み方が如何にも子供らしくて、エルティアは微笑ましくなる。
「ね、ずっと聞きたかったんだけど」
麺麭を二、三個食べ喉を潤したディルは、エルティアの服の袖を引っ張った。
「何?」
「レイおじちゃんって、エルティアのお父さんなの?」
「まさか」
エルティアは吹き出した。顔は似ていないだろうに、一緒にいるだけで父子と間違われるだなんて。
「あいつはただの旅の付添人よ。お父さんじゃないわ。……あたしのお父さんとお母さんは、ずっと昔に死んじゃった」
口にしてはっとした。ディルが自分の父母を思い出すのではないかと思ったのだ。
ディルは口許を歪めていたが、泣き出すような素振りは見せなかった。
「そうなんだ……」
「でも、別に寂しくはなかったわ。親代わりの人はいたし、その人はあたしを愛してくれた」
『あなたのことが何より大切だから』
今際の際の、バージニアの言葉が思い浮かぶ。
朝起きて、バージニアやデボネと朝の挨拶を交わして。デボネが作ってくれた朝食を食べて──。
いけないと思いつつも、平穏な日々は頭の中に鮮明に蘇る。じわりと涙が滲んで、エルティアの視界がぼやける。
「これでも、友達が多かったのよ。皆、あたしの誕生会を開いてくれたりして」
「わたし、友達は片手で数えられるほどしかいないよ。エルティアはいいなぁ……」
まるで目の前にいるように、皆の笑顔が、祝福の言葉が思い出される。もう決して触れられない。思い出の一部となってしまった人々。
「……エルティア、泣いてるの?」
ディルに指摘されて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。エルティアは指先で雫を拭う。
「……もう皆、いなくなっちゃった。あたし、独りになっちゃったの」
「エルティア、可哀想……」
「え?」
「独りは、辛いよ。可哀想だよ」
ディルの言葉が、エルティアの涙腺を刺激する。涙を堪らえようとするが、我慢できずに流れるに任せる。
(そうか……あたし、可哀想なんだ……)
“可哀想”。それはともすると、相手を見下しているとも取られかねない言葉だ。しかし不思議とディルのその言葉は、エルティアの中にすとんと収まった。見下しとは違う、純粋な同情を彼女から感じるからだろうか。
「あたしも……皆と同じ場所に行ければよかったのに」
皆についていけたらどれだけよかっただろう。おいていかれてしまった悲しみも、妖魔と戦わなければならない過酷な人生を、たったひとりで生きる苦しみとも、向き合わずに済んだのに。
「そんな悲しいこと、言わないで」
ディルは子供にしては聡い。エルティアが言外に含ませた意味を読み取ったのだ。小さな手が、そっとエルティアの手に重ねられる。
「ディル……」
「エルティアは独りぼっちじゃないよ。おじちゃんも、わたしもいるもん」
ね? と微笑みかけられる。目尻に溜まっていた雫が、頬を流れていった。エルティアはディルを抱きしめる。彼女の肩に顔を伏せ、唇を噛みしめた。
「ディル……ごめんね」
「ごめんじゃないよ」
「うん。ありがと」
これでは立場が逆転している、と心のどこかでエルティアは思う。人類を救うために、妖魔と戦う使命を帯びた自分が、十歳にも満たない少女に縋って泣いている。
死んでいった皆に呆れられてしまう。もっと強く、堂々としていなければならないのに。泣かないように歯を食いしばって、耐えなければならないのに。
(……でも、今はもう少しだけこのままで)
背中を撫でてくれる手が、あまりに心地いいから。
(いろんなことがあって疲れたの……)
突然の妖魔の襲撃。気心が知れた者たちの死。住み慣れた都市から離れ、よりにもよって皆の仇である妖魔とふたりきりで、旅を始めなければならなかった。
自分のおかれた環境が目まぐるしく変化し、エルティアの心を置き去りにしたまま、状況だけが動き続ける。そんな現実から、本当は逃げ出したかった。
(……あの時、あたしがディルを抱きしめたのは)
ディルと初めて会った時、エルティアは彼女を抱きしめた。それはきっと、いなくなってしまった皆に、自分が一番してほしいことだったから。
(皆に……バージニアに会いたい……)
抱きしめてほしい。もう危険はないのだと、穏やかな声で慰めてほしい。もう、エルティアの平穏を乱す者はいないのだと。
(そうだったら……どれだけよかったか……)
「どうして皆、あたしをおいていっちゃうの? いやだよ。側にいてよぉ……っ!」
開いた口に、涙が流れ込む。頬と口許を濡らしながら、エルティアは泣いた。あの時叫べなかった心の声を。自分の、心の底からの願いを。
ディルは相槌を打ちながら、エルティアの背中を撫で続けてくれた。




