27.郷愁
ディルの表情は物憂げだ。吐き出される息も、苦痛を感じているように震えている。
きっと空腹による飢餓感と、体調不良を引き起こすほどの疲労に苦しめられているのだろう。ディルに尋ねれば、姉が食糧を探しに家を出た後、彼女のためにわずかな食べ物にも手をつけなかったらしい。
食糧の問題だけではない。幼い子供がたった独り、狭い部屋の中で過ごすことは、苦痛と隣り合わせだっただろう。その上、姉が無事に帰ってきてくれる保証もない。自分が独りぼっちになってしまう恐怖は、エルティアにも覚えがある。思い出すだけでも寒気がした。幾度となく、ディルの中で苦慮が頭をもたげたはずだ。
ディルには長期的な休息と、たっぷりの食べ物が必要だった。都市中の建物をひっくり返してでも、食糧を見つけなければならない。
エルティアとレイシスは、家捜しして食糧を探すことにした。盗賊団に襲われたといっても、都市中の食べ物をすべて奪い去っていくことは不可能だ。どこかに必ず手つかずの物資があるはず。
「これ持ってて」
「うむ」
頭巾を被っているからか、黒色の面積が増えて、レイシスの不審者具合が上がっているような気がする。彼に大剣を預けて、エルティアはディルに背中を向けた。屈んで、背中越しに彼女を見る。
「ディル、あたしの肩に掴まって」
「……いい。エルティアが疲れちゃうよ」
「大丈夫だ。こう見えてもエルティアはディルの百倍は力持ちなんだ。お前を背負うくらいなんてことはない」
レイシスは事も無げに口にする。実際彼の言う通りなので、勝手に言わせておくことにする。
エルティアはディルに力強く頷いて見せた。
「……ん」
ディルはエルティアの肩を両手で掴むと、体重を預けた。苦もなくエルティアは彼女を背負う。
(……すごく軽い)
手足の細さや頬の痩け具合から察してはいたが、人ひとりを背負ったにしては拍子抜けするほど軽かった。その重みのなさは、ディルが壮絶な孤独感と戦っていたことを示している。
エルティアの胸の奥が、じわりと痛む。
(まだこんなに小さいのに……)
「ごめんね、重い?」
「全然! 羽みたいに軽いわよ」
こうして、ディルを背負っての家捜しが始まった。まずはディルが出てきた家の中を。地下室の保存庫には、四角い形状の焼き締めた麺麭が入った小袋と、缶詰がふたつほどあった。ディルの両親の寝室には、丁度荷物を収納できる背嚢があったので、それを拝借する。
背嚢に食糧を詰めている間、自分たちも盗賊と変わらないのではないかという意識が、エルティアの脳裏を掠めた。しかし、他ならぬ家主のディルの生存のためだ。心の中で謝罪して、使わせてもらうことにする。
ディルの家から出て、次なる住居を目指す。やはりほとんどの家は扉が抉じ開けられ中が荒らされていて、目ぼしい収穫はなかった。しかし衣類には手をつけられていなかったので、数着エルティアが着る服を借りることにした。
レイシスも何着か替えの服を手に入れていた。旅の間、ずっと同じ服を着られては、エルティアたちが迷惑する。一応、最低限の常識は持ち合わせているらしい。
八軒目に立ち寄った住居では、大剣を背中に留めるのに、よい帯を手に入れることができた。腰から肩にかけて巻く幅の狭い帯で、背中に当たる部分には大剣を固定する金具がついている。他にも燐寸や蝋燭、本数は少ないが、飲み水の入った樹脂製の筒を見つけた。
エルティアたちは暗闇が平気だが、ディルはそうもいかないだろう。これらも有効活用させてもらうことにする。
家から家に移動する際には、魔獣の執拗な攻撃を受けた。エルティアはディルが魔獣を見て不安を覚えないようにと、レイシスに討伐を丸投げして、物陰で戦いが終わるのを待つことになった。
気がつけば首に回された腕の感触が失せている。ディルはエルティアの背中で眠っているようだ。穏やかな寝息が聞こえてくる。エルティアはディルが背中から落ちないように、彼女の腰を支える手に力を込めて、前屈みになった。
「……終わったぞ」
背嚢を負い、大剣を片手で持ったレイシスが、エルティアの真横に着地した。びっくりしそうになって、エルティアは眉根を寄せる。自身の唇に人差し指を持ってくる。
「しーっ!」
「ああ、寝ているのか」
「……まったく、もう少し静かに来なさいよ」
「すまん。ところでエルティア、ひとつ気になることがあるのだが」
申し訳無さそうにしたかと思えば、レイシスは次には真剣な眼差しをエルティアに向ける。──緊急を要する話だろうか。エルティアは緊張し身構える。
「私は老けて見えるのだろうか。これでも旅をしていた頃は二十代前半に見られることが多かったのだが……」
「はぁー……。あほくさ」
どうやらディルに“おじちゃん”と呼ばれたことを、レイシスは気にしているらしい。エルティアは馬鹿馬鹿しさに溜息がもれた。
「そんなのどうでもいいわ。……それよりこの子、どうするのよ」
「どうする、とは?」
「こんな寂れた都市においていけないでしょ。ホリニス・グリッタの首都に──クリシュナに連れていくべきだと思うんだけど」
「……賛成だ。もしもお前がおいて行くと言ったら、蹴りで目を狙って止めるところだった」
「蹴りで目を!? 狙いづらいわ!」
「……ん」
眠っていたディルが目を覚ましたのだろう。彼女が身じろぎするのが、エルティアの背中に伝わってくる。
「どーしたの? エルティアたち喧嘩してるの?」
「……違うわよ。こいつが馬鹿みたいなこと言うから、呆れてただけ」
「……ぬう」
エルティアは情操教育の時間に読んだ絵本を思い出していた。“ぬう”とか“むう”が口癖の、幼い少女と蝶の精霊が冒険をする話だ。レイシスはその物語に出てくる、主人公の女の子を彷彿とさせる。“ぬう”や“むう”を可愛い女の子が言っているなら絵になるが、レイシスは自称二十代前半の男である。愛らしさよりも気持ち悪さが勝つ。
(きっしょ……)
なんとなくディルに悪い言葉を聞かせたくなくて、エルティアは心の中で毒づいた。
風が吹き、背中に回していた帯の金具が、かちゃりと音を立てた。それを聞いて、エルティアは思い出す。
レイシスは妖魔だが、服を着ている。外衣はどうしたのだろうか。
「……そういえば、ずっと気になってたんだけど。レイシスはどうして服を着ているの? 外衣は?」
「もちろん服を脱げば、外衣が身体を覆うようになっている。外衣は本来、鎧の役目を果たすからな。だが、人の世界で暮らすためには同じ格好をするのが一番だろう? だから着ているわけだ。それに服は肌触りがいい。こうして耳も隠せるからな。気に入っている」
「……そう」
「私の外衣が見たければ服を脱ぐが?」
「脱ぐが? じゃない! そういうところ変態っぽいのよ!」
「……ぬう」
(その可愛い女の子みたいな口癖をやめろ!)
レイシスと話していると、知らずにつっこみ役に回ってしまう。気疲れして、エルティアはレイシスに聞こえるように、わざとらしく溜息を吐く。
「疲れたか? ならばディルの家で休もう。疲弊した彼女をそのまま旅に連れ出すわけにはいかないからな」
気づけば、太陽は沈もうとしていた。赤い夕陽が閑散とした住宅街を照らしている。かつて物言わず家主の帰りを心待ちにしていた家々は、今は帰る者もなく、廃れていくだけ。
夕焼けは、どうしてこうも悲しい気持ちにさせるのだろうか。夕陽の中に、都市の在りし日を見たような気がして、エルティアはしばらく暮れなずむ空を見つめていた。




