02.冷酷な宣告
部屋の外には、一本道の通路が伸びていた。石壁にはうっすらと苔が生えている。壁に等間隔に設置された燭台の上で、頼りない火が揺れていた。
「なんだあいつは!」
「化物のいる部屋から出てきたぞ!」
背後から聞こえた声に振り向けば、鈍色の鎧を身につけた者たちが駆けてくる。兵士だろうか。彼らの腰には剣と銃が見て取れた。
「まさか、死天使か!?」
「人間みたいな表情しやがって、気持ち悪ぃ」
「話はあとだ! 捕らえるぞっ!」
銃を引き抜いた兵士に顔を歪ませて、フェイヴァは前方に走り出した。
(どうして……どうしてこんなに怖い目に遭うの!?)
自分は何もしていない。気味の悪い化物がいる部屋で目覚めた。ただそれだけなのに。兵士たちはフェイヴァを捕らえようとする。黒衣の少年はフェイヴァに大剣を振るった。
『刃の欠片と人の肉が体内で分解され、全く新しい物質となり形造られた、天使よ』
(違う! 私は、私は……あんな化物とは関係ないっ!)
目が覚めるような激発音が背後から飛んでくる。はっと意識が現実に引き戻された。
気がついたときには、足が床を離れていた。身体に、力が入らない。フェイヴァは頭から床に激突する。剥き出しの脚が床を擦る。
「っ!? ぐああっ!」
何かが肌を突き破って、体内に侵入してきた。これはおそらく――銃弾だ。背中を撃たれた。自覚したと同時に激痛が突き上げてくる。顔をしかめながら、フェイヴァは振り返った。
ひとりの兵士が銃を水平に構えていた。引き金と一体になった取っ手を前に押しだし、空薬莢を排出する。
「観念しろ、鉄屑」
兵士の後ろで剣を抜いたもうひとりが、雄叫びを上げながら肉薄してくる。
(殺される……!)
フェイヴァは恐怖を吐き気のように催した。立ち上がり避ける時間はない。苦しまぎれに片手を前に突き出して、兵士の身体を押し退けようとする。
掌は予想以上に強い手応えを返した。瞠目したフェイヴァが見たのは、今まさに壁に激突する兵士の姿だった。足下がかすかに揺れるほどの衝撃。兵士は苦悶の表情を浮かべた。
(手で押しただけなのに)
現実離れした出来事に、自分に向けられた銃口を認識するのが遅れた。脇腹を撃たれ、フェイヴァはうずくまる。悲鳴を上げることすらできない。歯を噛みしめる。唇がわななく。
背中と脇腹から、生温かな液体が流れ出していた。白衣が赤く染まっていく。激痛と恐怖に、身体から力が抜けていく。
「やっぱり失敗作だったか。おい、こいつぶっ壊しちまおうぜ」
銃撃した兵士が、壁にぶち当たった兵士に呼びかけた。鎧が激突の衝撃を緩和してくれたのか、彼は立ち上がると頭を振って意識を明瞭にしたらしい。切っ先をフェイヴァに向けて構える。
「舐めた真似をしてくれるな。人間に消費される下等な存在が」
「違うっ!」
力の限り叫んだ。殺意を露わにする兵士よりも迫りくる死よりも、化物だと、失敗作だと罵られるほうが怖かった。
それは、それだけはどうあっても許容できない。
「私は、人間ですっ!」
「こいつ、頭がおかしいのか?」
「貴様が人間だと!? 機械の分際で、人間と同等だと主張するのか! その傷を見てみろ! それでもまだ自分が人間だと言い張るのか、この化物がっ!」
銃口を突きつけた兵士に指摘され、フェイヴァは身の内を駆けていった衝撃に目を見開いた。
(……まさか)
祈る思いで、血を流す脇腹に目を向ける。肉が抉られて、胸が悪くなりそうなほどに赤い色が見えている。
(私は人間だよね!? そうだよね!?)
脇腹の傷から覗いていたのは、青みがかった骨格。血に染まりながらも、硬質な輝きは失われることはない。
すがろうとした事実は、幻だった。
肉と皮膚が機械である証を隠し、生みだされたのがフェイヴァだった。外見だけならば人間と変わりない。しかしその実は、紛れもない機械。
名前がない人間はいない。過去がない人間はいない。テレサが言った通り、自分は人間ではなかったのだ。
『これではまるで人もどきではないですか。ああ、なんと気持ちが悪い。出来損ないのごみですね』
(……私は、化物)
銃創が発する激痛は、意識から取り除かれる。代わりに、激しく流血しているかのように胸が痛んだ。
(……もう、どうでもいい。どうなってもいい)
「フェイヴァ!」
誰かが名前を呼んでくれたような気がした。悲痛な叫びは、失いかけていたフェイヴァの意識を現実に繋ぎ止める。
「テレサ博士!」
「一体何を」
兵士が口々に叫ぶ。彼らの言葉に次いで、硬質なもの同士がぶつかり合う音を聞いた。
間近で床を踏みしめる靴音。フェイヴァはゆっくりと顔を上げた。
テレサが立っていた。走行の妨げになるからか、彼女が穿いている踝までの長さの筒状の衣服は、縦に裂かれている。
テレサによって卒倒させられた兵士たちは、壁の横に折り重なって動かない。
テレサは今にも泣きそうに眉間にしわを寄せると、フェイヴァの傍らに膝をついた。
「ごめんなさい。私がもっと早く追いついていれば、こんなことには」
フェイヴァの肉体的苦痛と精神的苦痛の両方を共有しているかのように、テレサは瞳をうるませた。傷口からにじみだす赤を目にしたのか、顔を痛々しく歪める。
「少し痛むけど、我慢するのよ」
脇腹に裂かれるような痛みが走って、フェイヴァは呻いた。背中と脇腹にめり込んだ鉄の弾を、テレサが取ってくれたのだ。役目を終えた弾が床に落ちる。
「……あなたは、なんなの?」
傷口を痛ましそうに見つめていたテレサは、フェイヴァの声を受けて振り向いた。真剣な眼差しには、ごまかしも同情も見当たらない。
「私はこの施設の兵器開発責任者なの。私が中心となって、天使の揺籃を使ってあなたを生み出したのよ」
「……どうしてっ!? どうしてこんな身体にしたのっ!?」
人間と変わらない容姿にもかかわらず、人とは違う金属の骨格で造られたこの身体。深すぎる懊悩と悲嘆を背負うことを、テレサは想像していなかったのだろうか。
「あなたを……人間として生んであげられなくてごめんなさい。けれど私は、あなたを生み出したことを後悔してはいないわ」
なんて残酷な人なのだろう。
「……そんなの、勝手だよ……」
テレサはそっと目を伏せる。
「……そうね」
軽く屈んで、テレサは力強くフェイヴァの肩を掴んだ。
「よく聞いて。ここにいれば、あなたはディーティルド帝国の兵器として戦場で人を殺すことになる。あなたを安全な場所に連れていくわ。……私を、信じて」
高い音色が響き渡った。倒れた仲間を発見した兵士が笛を吹き鳴らしたのだ。笛の音は石壁に反響し、頭の中身を直接揺らされるようなびりびりとした振動を感じた。
テレサはフェイヴァの腕をぐいと引くと、駆けだした。
テレサに反発し、手を振り払うこともできただろう。しかし、フェイヴァはもう、そんな気力さえ持てなかったのだ。彼女の掌から伝わってくる力強さは、生に対する渇望を感じさせる。励ますような掌の温もりも、虚しいだけだった。
(こんな身体じゃ……生きていけない)
テレサに手を引かれて、フェイヴァは足を走らせる。彼女は外に出るための術を心得ているのか、迷路のように張り巡らされた通路を、迷うことなく進んで行く。
笛の音が響き渡り、どこに潜んでいたのか、大量の兵士が押しかけてきた。皆手に剣や銃を携え、フェイヴァたちに攻撃をしかけてくる。
テレサの右手に、可視できる気体のように光が宿る。彼女は先頭で銃を構えていた兵士を殴りつけた。女の腕とは思えないほどの威力が生み出され、兵士の身体は軽々と吹き飛んだ。眼前の兵士たちは、その常識外れの光景に驚愕を露にする。
困惑と戸惑いが、兵士たちの動きを一瞬止めた。
「怪我をしたくなければ、そこを退きなさい!」
テレサは進路を妨害する兵士を、文字通り殴り飛ばしていった。
兵士が間近で振り抜いた剣は拳を打ちつけて弾き、銃口から放たれた弾は彼女の身体に到達する前に、壁に阻まれたように止まった。光の盾がフェイヴァたちの周囲に展開する。テレサに傷をつけられる者は、誰ひとりとしていなかった。
力業で道を開き、テレサは足を止めることなく駆け去った。
脱出手段は、最上階にある屋根のない部屋に用意されていた。
檻の中で金色の瞳が光る。灰色の鱗。強靭な顎には太い牙が密集しており、頭部には太い角が生えている。帯で顎をがっちりと固定され、四肢を頑丈そうな拘束具と鎖で縛られている。
翼竜という生き物らしい。
テレサが拘束具を外すと、翼竜は爪でテレサを引き裂こうとした。彼女は光の盾を形成すると、実力の差を思い知らせてやった。翼竜は嘘のように大人しくなる。
前々から逃亡の準備をしていたらしい。テレサは棚の奥から鞄を引っ張り出した。鞍や鐙──竜具を翼竜に手早く取りつける。その背中に乗ると、彼女はフェイヴァに手を差し出した。フェイヴァはその手を掴む。テレサはその細身に見合わぬ力で、フェイヴァを翼竜の背に引っ張り上げた。
「しっかり掴まっているのよ」
フェイヴァは小さく頷き、テレサにしがみつく。彼女が翼竜の胴を強く蹴った。皮膜が張った巨大な翼を広げ、翼竜は空に飛び上がる。
翼が力強く空気を叩き、風が刃のように肌を打つ。
フェイヴァは、眼下に広がった景色に息を呑んだ。
丘陵地帯に建設されているのは、堅牢な石城を中心とした都市だった。あの城がさきほどまでフェイヴァたちがいた、兵器開発施設なのだろう。厚い防壁に取り囲まれている。白々とした陽光に照らされ、城は陰影を濃く浮かび上がらせた。
テレサはこの国について、フェイヴァに話して聞かせてくれた。
ディーティルド帝国は、大陸で二番目の広大な国土を有していた。乾燥や寒冷とは無縁な土地であり、都市の約半分の面積を使用し行われている農業や畜産のおかげで、国民は飢えを知らない。国産の翼竜や金の交易で国は豊かだった。
しかしある日突然、帝国の統治者であるガーランド皇帝が、驚くべき布告をしたのだ。我が帝国は聖王神オリジンに選ばれた国家である。我が国こそが、世界を支配し管理するに相応しいのだと。
ディーティルド帝国は、隣国であるファンダス王国とブレイグ王国に侵攻した。優れた武器を生産し向かうところ敵なしだったニ国は、帝国が差し向けた恐るべき兵器になす術がなかった。まるで赤子の手を捻るように、帝国は強国を下し支配下に置いたのだ。こうしてディーティルド帝国は、世界最大の領土と軍事力を誇る国となった。
「兵器……」
兵士たちはフェイヴァを死天使と呼んでいた。それが、ディーティルド帝国が製造した兵器の名前なのだろう。
テレサがどういうつもりでフェイヴァを生みだしたかは知らないが、フェイヴァも人の命を奪う兵器であることには変わりない。
翼竜の身体を東に向けると、テレサは強く胴を蹴りつけた。翼竜は首を前に伸ばし、翼を振るう。景色が急速に置き去りにされる速度だった。
「……私は、どうすればいいの?」
テレサの背中にしがみついたまま、フェイヴァは小さな声を落とす。掠れて頼りない自分の声は、内面からにじみだす不安を色濃く反映していた。
フェイヴァの精神を追い込むように、天使の揺籃の姿が想起された。化物の中から生まれてきた自分。なんて気持ちが悪いんだろう。
「私、こんな身体はいやだよ。生きていく自信なんて持てない……」
「あなたは、自分が揺籃から生まれたことが恐ろしいのね。あんな気味の悪い化物から生まれた自分が、人の中で生きていけるはずがない。酷いことを言われ、傷つけられるかもしれない。それが震えるほど怖い」
どうしてわかるのだろうか。フェイヴァは困惑を眼差しに込めて、テレサの背中を見た。肩越しにフェイヴァを振り返った彼女の唇は、柔らかく弧を描く。
「娘が考えていることがわからない母親なんて……いえ、違うわね。私は他者の思考や過去を読み取ることができるのよ」
「嘘」
「本当よ。覚醒者と呼ばれる人たちがいるの。私のような力を持つ人は珍しくないのよ」
だからこんなにも、テレサはフェイヴァに親身なのだろう。フェイヴァの痛みが、我がことのように感じられるから。
(人間じゃない私を受け入れてくれる人なんて……きっとこの人以外にいない)
テレサは自分を救ってくれた。武器を持った兵士に恐れずに向かっていく彼女は、母親の愛を超越するほど献身的だった。しかしそれは、彼女がフェイヴァを造り出したからだ。
他者には容易に立ち入ることができない、閉鎖的な関係。
自分を受け入れてくれるのは、世界でたったひとり。真実か思い込みかわからない確信が、フェイヴァの胸には宿っていた。
普通の人間がフェイヴァの正体を知れば、敵意を抱かずにはいられまい。失敗作と罵った男のように。フェイヴァを傷つけた兵士たちのように。
必要としてもらえない。理解してもらえない。未知の世界は、恐ろしいほど荒涼にフェイヴァの脳裏に想像される。
「……フェイヴァ。手を出して」
「え?」
「いいから」
フェイヴァは言われるがまま、テレサの身体の横に手を差しだした。彼女は手綱から片手を外すと、後ろ手でフェイヴァの手を取る。
「私の手、少し冷たいでしょう? でも、あなたの手は温かいわ。体温の違いはあるけれど、こうして握っていても違和感はない。あなたは人と違いはないわ」
フェイヴァは感触を確かめるように、テレサの手を握り返す。
「あなたは確かに、天使の揺籃から生まれた。だけど、私はあなたを兵器として生み出したわけではないわ。恐れないで。嫌悪感に苛まれる必要はない。必ず人に受け入れてもらえる。必ずよ」
「……そんな気休め」
「気休めじゃない。だってあなたは今、涙を流しているじゃない」
テレサに指摘されて初めて、フェイヴァは自分の頬を濡らす雫の存在に気づいた。
(私……泣いてる)
あふれる涙が、テレサの横顔をにじませた。
胸が締めつけられる。自己に対する不安。光が見えない未来。それらを思うと、声を限りに叫びたくなる。
「あなたは今苦しいでしょう。けれどそれこそが、あなたが人と同じ心を持つ証なのよ。痛みを知っている人は、それだけ人に優しくできる。煩悶を感じられるあなたは、人と一緒に歩くことができるわ。私はそれを確信している」
フェイヴァは肩を震わせた。止まることのない涙に触発され、嗚咽がもれる。
テレサはそんなフェイヴァを励ますように、手に力を込めた。
ひんやりとした、けれど確かな温もりのある彼女の掌。
「だから、どんなことがあっても自分を諦めないで。あなたの人生はまだ、始まったばかりなのだから」
テレサの透き通った瞳は、その奥に秘められた確固たる遺志を透かして見せた。嘘偽りのない彼女の真摯な気持ちが、励ましに込められている。
自分を肯定することは、まだできない。けれど創造主であるテレサを信じることはできた。というよりも、信じざるを得なかったのだ。彼女の言動からは、フェイヴァを守りたいという思いが強く伝わってくる。
きっとテレサに心を開くことこそが、自分を認める第一歩となるのだろう。
「……うん」
フェイヴァは震える声で返答した。自分を見つめる瞳は、あまりに優しい。