26.出会い
都市の高層建築物の頂上に着地し、それから屋根を伝い、段々と低い建物に飛び移っていく。地上に降り立ってみれば、都市の荒廃ぶりは明らかだった。
エルティアたちが踏み入ったのは住宅街のようだ。小さくまとまった家々と、それを仕切る塀が、縦横無尽に建てられている。都市が健在だった頃は美しい街並みが広がっていたのだろうが、今では見る影もない。
弾痕が穿たれた壁。割れた硝子。抉じ開けられた形跡のある扉。死体は腐敗し鳥に啄ばまれている。かつて流れ出した血は、塞き止められた川のように一箇所に溜まり、乾燥し固着し、道にへばりついている。黒く色を変えているので、固まった絵の具のように見える。
「ひどい……」
エルティアは鼻を手で覆う。これが死臭というものなのだろうか。鉄臭いような、甘ったるいような。時間が経った血液と腐った内臓の臭い。
「車轍があるな」
道に転がる死体を気にかけず、レイシスは地面に膝をついていた。彼の言う通り足下を見れば、確かに何かに擦られたような跡が、いくつもついている。
「これ、何?」
「車輪の跡だ。車……いや、二輪車か。それに乗った盗賊団、といったところだろう。武器は銃器、家捜しされた形跡もある。間違いない」
「人が人を……殺すなんて」
では、道に横たわるこの人たちは、二輪車に乗った盗賊団から逃げる途中で殺されたのか。
どうして人間相手に、そんな残酷なことができるのだろう。手に握ったままの大剣を抱きしめるように抱えて、エルティアは身震いする。
「まだ殺されてからそれほど時間が経っていないように見える。今の季節から考えると、十日……いや六日か」
「……そう、なの?」
死体の腐敗状況で、どれほどの時間が経過したか目算が立てられるとは。レイシスに少し感心しながらも、エルティアは顔を逸らす。死体をまじまじと見つめてしまうのが嫌だった。研究所の、皆の死に様を想起してしまうから。
「まだ虫が湧いていないからな。肌寒いこの季節でも、三週間ほど経てば正視に耐えない有り様になる」
「すでにもう正視に耐えないんだけど」
「ふむ。まだまだだな。こういったものには慣れておいたほうがいい」
「絶対いや」
死体を見慣れるだなんて、エルティアが想像する普通の人間からはかけ離れてしまう。自分の細胞の三分の二が妖魔のものだと知った。これ以上、自分の中の人でない部分を増やすのは耐えられなかった。
「この都市の人口がどれほどかはわからないが、上空から見た都市の広さからして二千人か三千人くらいだろう。今の時代、銃弾などの物資の補給は困難だ。目につく人間や邪魔をする人間をあらかた撃ちはしただろうが、全滅させる必要性はない。
……都市の門は開いていた。おそらくそこから魔獣が侵入しているはずだが、この都市は広大だ。人間をすべて食い尽くしているとは考えられない。どれ、辺りを歩いてみよう」
「生き残りなんているとは思えないけど」
周辺には死体が散乱している。エルティアは一刻も早くこの都市から立ち去りたかった。しかしレイシスは、エルティアの気持ちなど考えずに、ひとりで歩き出してしまう。
「生き残りを探すって言っても、どうするのよ?」
「ん? もちろん声を限りに呼んでみるに決まっているだろう」
「は?」
「こーんーにーちーはー!」
「うるさっ!」
エルティアは耳を両手で覆う。レイシスは口許に手を当てて、間延びした挨拶を続けた。
「ちょっと、他に方法はないの? 魔獣が集まってきちゃうでしょ!」
「妖魔はある程度人間の気配を感じることができるが、範囲が限定されるからな。それにこの住宅の数。一軒一軒当たっていたのでは、何日かかるかわかったものではない。自分から出てきてもらうのが一番だろう」
「もしあたしが生き残りだったら、警戒して出てこないと思う」
「何故だ? こんなにも親しみを込めた呼びかけをしているのに。おーい! 誰かいないかー!」
レイシスの推測が事実だったとしよう。この都市に住んでいた人々は、盗賊団の襲撃を受け、その上魔獣に襲われる危険と隣り合わせなのだ。生き残りがいたとして、警戒心は極限に達しているはず。こんな単純な呼びかけに反応するなんて、ただの馬鹿か、物を知らない人間だけだろう。
遠くで、甲高い鳥の鳴き声がした。
生き残りなどいるわけがない。だからこれはきっと鳥の鳴き声のはずだ。固定概念を取り払ってみれば、その声は人のもののようにも聞こえた。女か、まだ幼い子供の悲鳴──。
意識した瞬間、エルティアとレイシスはほぼ同時に駆け出していた。砂利を蹴飛ばして道を飛ぶように走り、前方の塀を、家を飛び越える。着地と同時に、エルティアは視線を走らせる。家の扉を背にし、蹲っている人──子供。その前には二体の猫型の魔獣。【狂騒】と呼ばれる魔獣だ。赤い瞳に食欲を漲らせ、一体が今まさに子供に飛びかかろうとしていた。
エルティアは掌から光の礫を飛ばす。頭部を横殴りにされたような勢いで、フィクルは吹き飛んだ。エルティアは素早く距離を詰め、フィクルの首を刎ねた。血糊を飛び散らせながら首が転がる。
興奮した猫の鳴き声。
もう一体がエルティアに襲いかかり、前脚の鋭い爪を振るう。
「おっと」
爪がエルティアの顔面を裂く、直前で止まる。光の力を盾に変換し、攻撃を防いだのだ。
役目を終え盾が解ける。その間隙を縫い、エルティアは踏み込んだ。鉛色の刃を突き上げる。フィクルの頭と胴体を分断した。脳という司令塔を失った身体は一瞬だけばたついて、ぱたりと静かになった。
「私の出る幕はなかったようだな」
遅れてやってきたレイシスが軽口を叩く。エルティアはそれを無視して、子供に歩み寄った。肩までの長さの黒髪をした少女──なのだろうか。まだ幼い。十歳前後のように見える。薄汚れた衣服から覗く手足は痩せていて、性別が判断できない。
子供は身体を抱えて、小刻みに震えている。凄まじい恐怖を感じているのだろう。
「……大丈夫。もう終わったから」
なんと声をかけていいかわからず、ひとまず状況を知らせる。と、後ろからむんずと髪を掴まれた。レイシスだ。外套についた頭巾を被り、特徴的な耳を隠している。
「痛った! 何するのよ!」
「そんな素っ気ない物言いでは駄目だ。子供の相手をするには、まず目線を合わせるんだ」
エルティアよりも一歩前に進み子供に近づいたレイシスは、片膝をついた。エルティアはじろりとレイシスを睨んだが、気を取り直して彼に倣い屈んだ。
「……もう大丈夫だ。顔を上げてごらん」
「うげぇ……」
これが猫撫で声というのだろうか。レイシスが殊更優しげに発した声音に、エルティアは気味の悪さを覚えた。
子供はおそるおそる顔を上げる。少女、だった。顔は汚れているが、長い睫毛をしており、大きな瞳には愛らしさが感じられる。深い森林を思わせる色の目が、ぱちぱちと瞬いた。
「……おじちゃんたち、だぁれ?」
「どうしてこんなところにいるの? 親は?」
「こらこら」
「ちょっと、頭を叩かないでよ。うっとおしい!」
疑問を並べ立てるエルティアの方を、レイシスは振り向いた。手を手刀の形にして、エルティアの額をぽかりと叩く。少し、いやかなり苛立った。
「そんな聞き方をしてはいけない。まずは名乗るべきだ」
レイシスは少女に向き直る。
「私はレイシスだ。こっちはエルティア。……お前の名前はなんだ?」
「……ディル」
「ディルか。いい名前だ。確か香草の名前だったな」
「……うん」
レイシスを見つめ、ディルと名乗った少女は返事をした。不安なのか、手をぎゅっと握っている。
「ディル、私たちがいる限り、お前に危険はない。ゆっくりでいいから話してくれないか? 一体何があった?」
レイシスが穏やかに声をかけると、ディルは俯いた。手を握ったり開いたりしながら、言葉を紡ぐ。
「五日前に……うるさい音を鳴らして、たくさんの男の人たちがやってきたの。お父さんとお母さんは帰ってこなくて、わたしとお姉ちゃんは地下室に隠れたの。……それで、見つからずに済んで」
やはり盗賊団の襲撃はあったのだ。レイシスの推測は当たっていた。
しかし、うるさい音とはなんだろう。二輪車は走行中にそのような騒音を発するのだろうか。エルティアは乗り物に詳しくない。
「二日前に、食べ物が少なくなったから、お姉ちゃんが探してくるって。……でも、お姉ちゃん帰ってこないの」
盗賊団が引き上げた後、ディルの姉が家の外に出たようだ。住宅地をあらかた歩き回ってみたが、他に人は見当たらなかった。都市にはすでに魔獣が入り込んでしまっている。二日の間家に戻らなかったということは、おそらくディルの姉は──。
「お父さんとお母さんに会いたいよぉ……。お姉ちゃん、どうして戻ってこないの……う、うう……」
目元から涙が溢れ、ディルの灰色に汚れた服に落ちる。それが合図となり、彼女は火がついたように大声で泣き始めた。手の甲で拭っても拭っても、涙は滔々と頬を濡らす。
(可哀想に……)
ディルは肉親をすべて失ってしまったのだ。庇護してくれる者もない、心を許せる者さえいない。天涯孤独の身となってしまった。
胸を突かれるようなこの痛みには、覚えがある。エルティアはディルに自身を重ねていた。平穏な生活を取り上げられ、惨憺たる現実と無理矢理向き合わされてしまった少女に、自分と同じ痛みを見出していた。
とめどなく溢れる涙を出し尽くして、ディルは溶けて消えてしまうのではないか。そう思うと、放っておくことはできなかった。何かしたい。けれど、何をすればいいのかエルティアにはわからない。
(こういうとき、バージニアだったら……)
知らない人間に触れられるのは嫌かもしれない。そう思いながらも、エルティアはゆっくりとディルを抱きしめた。彼女は泣き止まない。わんわんと、大声で泣く。
エルティアはそっと、ディルの背中を撫でた。
「よしよし。独りで怖かったね……」
掌の温かさが、少しでも彼女の悲しみを癒せるように。そう祈りながら、エルティアはディルが泣き止むまで抱きしめ続けた。




