24.思い出の中
「他に聞きたいことはあるか?」
椅子の背もたれに悠然と身を預け、レイシスはエルティアに尋ねた。
聞きたいことは、ある。もうひとつだけ。けれども、それを彼の口から聞くのは少しの勇気が必要だった。
エルティアは大きく深呼吸をする。荒れた海面のように落ち着かない心を、常態に戻すために。
「……前に言ってたでしょ。あたしが妖魔の細胞を注入されて造られた生体兵器だって。詳しく教えて」
「本当にいいのか?」
ウォルザとの一瞬の攻防。エルティアが信じていた通りの人間だったとしたら、蹴りの一撃で骨は砕け内臓は破裂し、即死していただろう。そう思わせるほどの凄まじい威力だった。
あの一瞬、エルティアは痛感してしまったのだ。
(もう、自分の正体から……逃げることはできない)
自分が妖魔であると認めたくはない。今だって、真実を話して聞かせられることが、吐き気がするほど恐ろしい。けれどもう、目を逸らすことができない。受け止めるしか道がない。
「いいだろう。それでお前の気が済むのなら」
エルティアが妖魔であると真実を突きつけたのはレイシスなのに、ここにきて彼は躊躇いを見せた。まさか気を遣っているのだろうか。そうだとしたら余計なお世話だとエルティアは思う。妖魔に気を遣われることほど屈辱的なことはない。
「私がセントギルダの管理下におかれた当時、彼らは強靭な戦士を造り出そうとしていた。最初はホリニス・グリッタ国から兵士や囚人を集めて人体実験をしていたが……実を結ぶことはなかったようだな」
「人体実験⁉ 嘘……」
柔らかな表情を浮かべてエルティアに接してくれた彼女たちが、そんな血塗られた実験に手を染めていたなんて。どうしても受け入れられない。
「上位種の妖魔に人間の兵器は通用しないのだ。セントギルダは手段を選んでいられる場合ではなかったのだろう。
次に彼らが目をつけたのは、まだ人の形を取る前の細胞だった。精子や卵子になる前の未成熟な細胞──胚に、妖魔の細胞を注入する。幾度もの失敗の末、実験は成功した。受精卵が形を成し、産まれた赤子。彼らはその子にレイゲンと名づけた」
レイゲン。戦天使の名前だ。自分が産まれる前に、もうひとり、妖魔の力を宿した人間がいたなんて。誰も教えてくれなかった。
「あたし、そんなの知らない……」
「当然だろう。お前が産まれた頃には、レイゲンは死んでしまっていたからな。彼は力を暴走させ死んだ。当時のセントギルダの研究施設は半壊した。レイゲンは骨も残らず消滅したらしい」
「……原因はなんなの?」
「繰り返される実験によって蓄積した心身の疲労。研究員との相互理解の欠如……様々な要因が考えられるが、最も重要視されたのは愛情不足だった」
「愛情……」
「世界で唯一、妖魔の細胞をその身に宿して産まれた子供だ。誰も彼もが、腫れ物に触れるように彼に接した。おそらく身体の接触もなかっただろう。親が子にするように、手を握ったり抱きしめたりだな。そんな環境で安定して力の訓練ができるはずがない。……妖魔の細胞を持つ人間の育成環境は、大きく見直されることになった。そうして六年後に産まれたのが、お前だ」
レイシスに指される。人に指を突きつけるなと、平素であれば軽く怒りが湧いたであろうが、今のエルティアにはどうでもいいことだった。
嫌な予感が、耳鳴りとなってエルティアを襲う。今はもういない、死んでしまった人々の真意を疑っている自分がいる。
「まさか……みんながあたしに愛想がよかったり優しかったのは……そうしないとあたしが暴走して何もかも壊してしまいかねないって、思われていたからなの……?」
「そうだ。職員教育には時間がかかっただろう。最も苦労したのはテロメアだろうな。私が出会ったばかりの頃、彼は親愛とはほど遠い性格をしていた」
「みんな嘘をついていたの? あたしのこと、ほんとは化物だって思いながら、表面上だけは愛想よくしていただけなの?」
レイシスと初めて会ったあのとき、彼は気にかかることを言っていた。
『……おじいちゃん、か。どうやらテロメアの試みは成功したようだな』
試みとは、理解者の振りをしてエルティアを意のままに操ることだったのか。
今まで信じていた人たちの裏の顔を知って、裏切られたような気持ちになった。自分は彼女たちに親愛を向けていたし、彼女たちから愛情を向けられていると信じていた。それはエルティアの思い込みでしかなかったのか。
「……それはどうかな。悲しむにはまだ早い。
最初はお前の言うように、表面上だけでも親切な顔をしていたかもしれないが……子供は大人の嘘を見抜くものだ。彼らが本心からお前を大切に思わなければ、お前が彼らに懐くことはなかったはずだ。彼らの言葉や態度が嘘に塗れたものだったと、お前は断言できるのか?」
「それは……」
すべてが嘘だった。心の奥底では化物と蔑んでいた。──そんな相手に、自分の力作である人形を贈るだろうか。危険を顧みず敵の攻撃から庇うだろうか。
(みんなの本当の気持ちはもう、わからない。……でも、向けてくれた笑顔や親しみが込められた言葉を、嘘だったなんて思いたくない)
彼女たちの笑顔や温かな言葉を、信じたいと思った。もう誰にも答えを聞くことはできない。バージニアも、リラも、サイファーも、研究員のみんなも。もう、思い出の中だけの存在になってしまった。だからこそ、彼女たちを感じたまま、見たままに記憶しておきたい。
『みんなエルのことが好きなのよ』
『おいおい、主役がそんなしみったれた顔すんなよ。可愛い顔が台無しだぜ』
『あなたが何より、大切だから……』
涙が出そうになって、エルティアはレイシスから顔を逸らす。服の袖で目元を拭った。再びレイシスの顔を見れば、彼はしたり顔をしていた。得意気な様子が少し気に入らない。
「少しは気持ちの整理ができたか」
「……まあね」
「では、そろそろ我々の進路について触れてもいいか」
エルティアの返事も聞かず、レイシスはついと指を上げた。空中に光の粒子が集まり、長方形の紙が出現した。その紙に線が走り、複雑な模様を描いていく。絵本に描かれている、大きな翼の竜──翼竜を真横から見たような、そんな形。
「何、これ」
「世界地図を見たことがないのか?」
「……知らない。そういうことは、誰も教えてくれなかったし」
「なるほど。では形だけでも覚えておくといい。我々の現在位置はここだ」
丁寧に、地図上に丸をつけて教えてくれる。翼竜の翼の位置。北北西の辺り。
「ここから北に進路を取って、ホリニス・グリッタ国の首都クリシュナに向かおうと思う。お前のことは国も把握しているはずだ。悪いようにはしないだろう」
レイシスの進路計画にエルティアは口を挟まなかった。国の位置も方角も知らないエルティアでも、セントギルダを擁するホリニス・グリッタを頼ることくらいしか、案が思い浮かばなかった。
「……あたしと一緒に来るつもりなの?」
「当然だろう。お前ひとりで放り出せば、道に迷うに決まっている。……心配するな。これでも旅をした経験がある。お前よりは道を知っているはずだ」
頼りになりそうで微妙に頼りないレイシスの口振りに、エルティアは溜息をついた。
妖魔と一緒に行動していることが人に知られれば、面倒なことになる。エルティアの頭に真っ先に過ぎった懸念だったが、当のレイシスはどこ吹く風、という様子だった。
「それにお前にも利点はあるぞ」
視界に散っていた塵は消え失せ、世界に色が戻ってきた。風が頬を撫で、樹冠がざわめく。エルティアは、腰を落ち着けた木の枝の乾いた肌触りを感じていた。
レイシスの精神世界から脱したのだ。彼は木の枝の上で立ち上がると、舞い落ちてくる葉を一枚手に取った。それを半分に千切ると、持ち前の膂力で上空にぶん投げた。
「何遊んでるのよ」
「私が放り投げた木の葉を視認できるか? それをお前の力で射止めてみろ」
「なんでそんなこと」
「こんな簡単なこともできないのか?」
馬鹿にされてむっとする。エルティアは空を見上げると、目を皿のようにして木の葉を探した。ふたりがいるのは、背の高い樹木の中ほどだ。風が少々強いため、葉は大量に舞っている。その中に、あった。レイシスが手で千切った葉の欠片だ。
エルティアは意識を集中すると、細く小さな針状に力を収斂する。間髪を入れずに葉の欠片を突き刺して、木の幹に縫い止め──られなかった。
葉の面積があまりにも小さすぎる。その上、風の悪戯か、針を動かす勢いでか、葉の欠片はひらりひらりと流れるように舞って、エルティアの攻撃を躱していく。
「あぁっ、もうっ!」
苛立ちが最高潮に達し、エルティアは光の力を別の形に変換した。掌の形を取ったそれを、木の幹に叩きつける。じゅっと、焦げる音がした。
掌が消え去ると、そこには黒く色を変えた木の幹があった。掌の形がくっきりとついている。
レイシスが投げた葉の欠片は光の力で燃え尽きたのか、それとも捉えきれなかったのか。どちらなのかわからず終いだった。
「ふっ……」
鼻で笑われた。どこが簡単なものか。この妖魔は、できもしないことを自分にやらせたに違いない。エルティアは恨みを込めた瞳でレイシスを睨んだ。
「こんなことに意味なんてないわよ!」
「いや、意味はある。今のお前の行動を見れば、力を制御する集中力と忍耐力が足りないのがわかる」
さきほどと同じように葉を千切り、放り投げる。はらはらと彼の頭上を舞っていた葉の欠片は、切っ先に縫い止められた。レイシスの力が、形を変えた剣によって。
「お前が妖魔を倒す力を欲するなら、私がお前を鍛えよう。クリシュナに着くまでの間、能力の訓練と鍛練でな」
レイシスを知る前のエルティアなら、誰がお前なんかにと突っぱねていたことだろう。しかし、彼の過去を聞いたことで、自分の中でレイシスに対する見方が変わったのを感じる。
それに何より、守護者階級の妖魔を相手にして、自分の力不足を思い知ったのだ。今のエルティアの実力では、妖魔の王を倒すなど夢のまた夢だろう。
「……わかった。強くなれるならなんでもする」
「決まりだな」
レイシスは自信に満ちた表情で頷いた。
エルティアは両足をぶらぶらさせながら、レイシスが剣を突き立てた幹を見つめた。剣は今や空気の中に溶け去り、刃先がつけた傷跡だけが幹に刻まれていた。
自らの内に宿る力を収斂し、剣の形に変える。エルティアの光の力と性質は同じだが、属性は違う。妖魔の力はまるで地の底から湧き上がってきたような暗黒の色をしているのだ。
「……ねぇ。どうして私の力は白い光なの? レイシスたちとは違う」
「突然変異、というやつだな。それはお前にしか使えない、唯一の力だ。そしてまだ完全には目覚めていない。鍛え続けることだな」




