23.瞼を閉じた暗闇の中
レイシスはセントギルダを北上する。見慣れた、親しみのある建物が遠退き、やがて暗闇の中に没する。エルティアはレイシスに抱えられたまま、小さくなっていく都市を目に焼きつけた。目の奥が熱くなって涙がこぼれる。
魔獣避けのための鋼鉄の防壁を飛び越えると、木が疎らに生えた丘陵地帯が広がった。都市が完全に見えなくなっても、レイシスは飛行を続けた。
脇に抱えられていたエルティアが下ろされたのは、朝日が顔を出した頃だった。地平線から差し込む陽の光が眩しい。
「よし、ここでいいだろう」
レイシスは地上に着地したのではなく、木の枝の上でエルティアを離したのだ。エルティアの胴ほどの太さの枝が、四方八方に伸びている逞しい樹木だ。なぜこんなところに。とりあえず枝に座りながら、エルティアは思う。
ふと地上に顔を向ければ、すっかり顔馴染みになった魔獣の姿がある。鼠型の魔獣──【地を弾む】は、エルティアたちを目にし甲高い鳴き声を発している。前脚を木の幹にかけるが、地を駆けることに特化した脚では幹を登ることはできなかった。諦めるかと思われた魔獣はしかし、幹に体当たりをし始めた。けれども、所詮は小型。どっしりと地に根を下ろした樹木は、かすかに揺れることもない。
「妖魔ならあれくらいどうにかできないの。操って別方向に向かわせるとか」
「生憎私にそんな力はない。彼らが従うのは自らの生みの親だけだ」
妖魔の王ディヴィアが小指を切り落とし、生まれたのが魔獣の始祖だと言われている。ほんの数糎しかない肉と骨から生まれた生物が、やがて無数に分裂し動物の形をとった。そうして魔獣として、無限にも思えるほどに数を増やしている。この話だけで、妖魔の王がどれほど強大な生命力を秘めているのかがわかるだろう。
向かいの枝にどかりと腰を落とし、眼下を見ていたレイシスは、ふいにエルティアの方を見た。
瞬間、視界に映るのは樹冠ではなく、白い世界だった。黒い塵が、はらはらと宙を舞っている。エルティアはレイシスの精神世界に囚われたのだ。
「何するの。ここから出して」
「そう急かすな。この中の方が状況を説明するのに手間がない」
「だからって、ふたりして木の上でぼーっとしてるわけ?」
精神世界でレイシスと話している間、身体はどんな状態になっているのだろう。意識がないのだ。転落でもしてくれたらどうしてくれる。
「心配するな。ちゃんと体勢に意識は向けている。それに落ちたところで、お前には大した傷にはならないだろう」
精神世界では、自分の思い通りに物を出現させたり消滅させたりできるようだ。勝手に椅子を出して、ひとり座ったレイシスは、口許に笑みを浮かべた。
「それにこの精神の世界には利点があってな。私とお前は今こうしてやり取りをしているが、その実、脳裏で物を考えているときのように瞬時に意思の疎通を行っているのだ。そのおかげで現実では数分も経過しない」
「へぇ……」
にわかには信じられない話だ。けれども、体勢に気を配っているというのは本当だろう。ウォルザが塔の壁を破壊したあのとき、もしもエルティアたちが精神世界に意識をおいたままだったなら、ウォルザに容易く殺されていただろうから。
「で、何」
「ここで状況を整理しようと思ってな。お前は私に聞きたいことがあるのではないか?」
レイシスの言う通りだ。目の前の妖魔の来歴を知らなければ、いつまで経っても心の底から彼を信用することはできないだろう。嫌悪や敵意を抱いたまま接しなければならないのは、エルティアにも辛いものがある。
「おま……レイシスはどうしてセントギルダに、おじいちゃんたちに協力していたの?」
「ふむ。それは話せば長くなる。まずは私の昔話を聞いてもらうことになるが、いいか?」
レイシスが軽く指を振ると、木製の椅子が出現した。座れという意味だと受け取って、エルティアは椅子に腰かけ彼と向き合った。
「いいわ」
「よし、わかった。……物心ついた頃から、私は周囲の妖魔とは違っていた」
前屈みになり手を組んで、視線はエルティアの足下に向けて、レイシスは語り始めた。
「例えば、森の中で咲き誇る花を見たとき。空中で戯れるように飛ぶ蝶を見たとき、私は美しいと感じる。お前もそうだろう?」
妖魔にしては随分夢見がちだと思ったが、口は挟まないでおく。エルティアは頷いた。
「しかし私の産みの親や兄弟たちは、その光景を見ると、私とは異なる感情を抱くのだ。多種族を慈しむ心を持たず、破壊と殺戮に血道を上げる……そんな彼らが嫌になり、私は旅に出た」
「よく殺されなかったわね」
「追っ手はかけられた。だが、そのほとんどが戦士だったからな。目を欺き行方をくらますのは容易だった」
ここに至るまでの記憶を、頭の中から掘り出しているのだろう。レイシスは物憂げな表情をしている。
「いろんな都市を見て回った。ときには困っている人間たちを助けたりもしたな」
「妖魔が人助け?」
少し笑ってしまった。レイシスは気にせず続ける。
「魔獣退治が主ではあったが、その他にもいろいろやった。都市の見回り、食糧調達、瓦礫の撤去、家の掃除、子供のお守り……とかな。居住区に赴けば、誰かしら困っているものだ」
エルティアは、部屋の掃除をして汗を流しているレイシスを想像した。休憩時間には茶が振る舞われ、雑談に花を咲かせたのだろうか。
人類の敵である妖魔が人間に囲まれている図は、どこか奇妙で可笑しい。
「都市を渡り歩く内に、私の名前をもじって戦天使と同一視する者が現れてな。否定しても聞かないから、放っておいた」
「そう……」
銀の髪を棚引かせた、整った顔立ちの男。それが人間にとって厄介な存在である魔獣を、いとも容易く消し去ってくれる。その上損得勘定を抜きに、困っている者に手を差し伸べるのだ。確かに見る者によっては、神話の中から出てきた存在のように思われても不思議ではない。
その逸話を聞いたから、バージニアはレイシスを、戦天使レイゲンの生まれ変わりだと信じていたのだろうか。
「それから五年ほど経ったか。ある集団と知り合った」
「ある集団?」
「彼らは五人組の冒険者だった。男が三人に女がふたり。魔獣や妖魔に苦しめられた都市に手を差し伸べながら、旅をしていた。話してみれば気がいい奴らだったから、私もついていくことにしたんだ」
「妖魔が? 人間の集団に?」
「奇妙な話だと思うだろう。最初は外套についた頭巾を被って耳を隠していたんだが、一緒に行動している内に怪しまれてな。思い切って正体を告白したんだ」
それまでは人間の中で、人間の振りをしていたのだろう。けれども、意を決して自分が妖魔だと打ち明けた。
周りの人間はどんな反応をしたのだろう。続きを聞きたいような、聞きたくないような。微妙な気持ちがエルティアの心を支配する。
「……どうなったの?」
「まあ、最初から受け入れてもらうのは難しい。私は彼らを助け、ときには助けられ、敵意はないと示し続けた。そうして時間とともに、彼らの態度は軟化していったんだ。今までの蟠りを捨てようと、酒を酌み交わした夜は……本当に楽しかった。あれが友人、というのだろうな」
今なお温かな思い出として、胸に刻まれているのだろう。レイシスは血色の瞳を細めた。
「ところで、ホーンテイルという国を知っているか?」
「……聞いたことない」
エルティアには地理についての知識がない。産まれてからついこの間まで、セントギルダとその周辺の一軒家だけが、世界のすべてだったのだ。国の名前などわかろうはずがない。
「そうか。昔はホリニス・グリッタに次ぐ大国と言われていたのだが」
一旦言葉を切り、レイシスは再び口を開いた。
「当時、ホーンテイルは妖魔との戦いの第一線に立っていた。我々が国に足を踏み入れたときには、妖魔の根城に総攻撃を仕掛けるために広く兵士を集めている最中だったのだ。みんなは兵士に志願した。魔獣や妖魔の脅威に晒された都市を見続けて、自分たちにも何かできないかと思ったのだろう」
「そんな……無謀よ!」
ただの人間が妖魔に勝てるはずがない。彼らがやろうとしていることは、犬死にほかならない。
「私も止めた。妖魔は人間にどうにかできる存在ではないと。……けれども国の上層部には妖魔の脅威が正しく伝わっていなかったのだろう。それとも自国の武器を過信していたのか……作戦は決行された」
レイシスは右手を強く握りしめた。妖魔特有の黒い爪が、皮膚に食い込む。彼が震えるほど手に込めた力が、そのまま彼の後悔を代弁していた。
「みんなは……死んだよ。私を生き残らせようとしてくれた。お前だけは死んではいけないと。ホーンテイルは妖魔の総攻撃を受けて滅んだ。……だから私は、セントギルダの管理下に入ったんだ。自分が妖魔を打倒する助けになるのならと」
エルティアはレイシスの顔を見つめた。何を考えているかわからない、得体の知れない妖魔の中に、自分と同じ傷があったなんて。
仲間を失った苦しみは、きっと自分の身体を裂かれる以上のものだっただろう。エルティアにも理解できるのだ。
「これで私の話は終わりだ」
レイシスは目を閉じた。いなくなってしまった者たちを、悼んででもいるのだろうか。
レイシスの胸の疼きのようなものを、エルティアは感じられるような気がした。
死んでしまった者たちは、もう、瞼を閉じた暗闇の中にしかいないのだ。そうやって振り返ることでしか、思い出は繋ぎ止めておけない。




