21.戦天使の生まれ変わりの正体(1)
エルティアの足が階段式昇降機の前に差しかかる。エルティアはほとんど段を飛び越える勢いで、階段を駆け上がる。最上階の扉を前にするまで、一分もかからなかった。
研究棟や管理室の扉と比べて、妙に重厚な造りの扉だった。これも自動で開くはずだが、エルティアを前にうんともすんとも言わない。手前の壁に、管理室を開いたときに社員証を通した機械が設置されていた。切り込みに、バージニアの社員証を滑らせる。重量のある扉が、ゆっくりと開く。
室内は思いの外狭かった。大人が五人も入れば、きっと窮屈さに呻いてしまうだろう。置かれた家具は、寝台と机と椅子。そしてびっしりと本が収められた棚。必要最低限の家具からは使用者の生活感を感じない。
部屋の中央に設置された机を前にして、椅子に腰かけている男がひとり。彼は本を読んでいた。エルティアが室内に入ってきても、我関せずという態度を貫き続けている。
「……お前は」
銀色の長髪を、うなじの位置で黒い織物を使って結わえている。死人のように白い肌。黒く染まった爪。鮮血を彷彿とさせる色の瞳と、人間のものとは違う尖った耳。
強く見覚えがある容姿。エルティアが三年間、電子遊戯を通して戦いを繰り広げてきた敵。見紛うことなき妖魔。
「なぜお前がここに……!」
まさか部屋の主を排除して、我が物顔で椅子に座っているのか。エルティアは視線を走らせるが、室内には死体どころか血痕さえ見当たらない。
もともとこの妖魔のために誂えたように、室内は整然としている。
本に向けていた顔を、妖魔は上げた。エルティアの瞳と妖魔の瞳──朱と朱の視線がかち合う。
瞬間、ふっと身体に入っていた力が抜けた気がした。
(どこ、ここ……?)
自分の身体は、簡素な部屋の中から真っ白な空間に移動していた。唐突な出来事に一瞬戸惑って、エルティアは周囲を見渡す。
(まさか、電子遊戯の中?)
それはありえないと、自身の思いを否定する。エルティアは頭部装着型の機械を被っていない。それに、エルティアが知っている電子遊戯の仮想空間とは、差異が見られた。辺りには雪片のように小さな黒い塵が舞っているのだ。
妖魔の男はエルティアの視線の先にいた。妖魔の身体はまるで白い用紙に描いたように、くっきりとした黒で縁取られている。奇妙な光景だった。
「老婆心ながら言わせてもらうが」
本をぱたりと閉じ、妖魔はエルティアに顔を向けた。
「初対面の者をお前呼ばわりはよくない。女子なのだから、もう少し上品な言葉遣いを心がけるべきだ」
思わず笑ってしまいそうになる。妖魔が──人殺しの化物が、人様に説教をするなんて。
エルティアは答えず妖魔に肉薄した。首筋に右手の大剣を突きつける。あと数糎手首を動かせば、刃は肌に沈み込むだろう。
「これはこれは、随分攻撃的だな」
命の危機だというのに、妖魔は平静を保ったままだ。口調はどこか悪戯っ子を諌めるような、軽い調子を帯びている。
「黙れ。化物が人間のように喋るな」
「少しは落ち着いたらどうだ」
「妖魔は全員殺す」
妖魔は人類の敵。人間の脅威となるものを消し去るのがエルティアの使命だ。それにここ数時間で、妖魔とは話し合いを想像するだけ無駄だということを、エルティアは痛感している。
妖魔は冷血な生き物なのだ。奴らは戦う意志のない者さえ平気で手にかける。
研究員を守ろうとして機能を停止したデボネが、大切なものを胸に抱いたまま死んだサイファーが、無念の思いで命を落としたであろうリラが、脳裏にはっきりと焼きついている。
「ならば、お前も死ななければならなくなるぞ」
エルティアは鋭く妖魔を睨みつける。何を戯言を。
エルティアが何も言わないのを、話の続きを促していると勘違いしたのだろう。妖魔は続ける。
「お前の体細胞の三分の二は妖魔のものだ」
目を見開く。心臓が激しく鼓動を打つ。自分の中の確かな困惑を振り払うため、声を絞り出す。
「見え透いた嘘を」
自分の声が震えているのがわかる。否定することに意識を向けていたせいで、エルティアは完全に隙を晒してしまっていた。妖魔が刀身を掴み、引っ張る。右手に込めていた力が無意識に抜けていた。大剣の柄はエルティアの手からすっぽ抜ける。
「……ふむ。お前たちで言う守護者階級を相手にするには、まだ頑丈さと鋭さが足りないな」
刃先にそっと触れると、妖魔は興味深そうに大剣を見上げた。幅広く分厚い刀身を持つその武器を、彼は片手で難なく持ち上げている。
奪われた大剣を取り返すために妖魔に飛びつこうとする──だが、左手を広げて彼はエルティアを制した。いつのまにか手から本が消えている。
「心配するな。切っ先をお前に向けるような真似はしない。……お前の話をテロメアから聞いたときから、お前とは話さなければいけないと感じていたんだ」
「おじいちゃんと⁉」
妖魔の口から思いがけない人物の名前が飛び出し、エルティアは瞠目した。
「……おじいちゃん、か。どうやらテロメアの試みは成功したようだな」
「何?」
「いや、こちらの話だ」
大剣の切っ先を床に向け、妖魔はエルティアを見下ろした。女の中でもエルティアは背が高いほうだが、妖魔はそれより更に上背がある。目算するに、百八十糎は越えているのではないだろうか。
「ここは私の心の中だ。わかりやすく言えば精神世界、と呼んでもいい。妖魔同士は会話をせずとも、心を通わせることができる。一度誰にも邪魔されずお前と話したいと思い、私の中に引き込んだというわけだ」
「妖魔同士なんて、出任せを言うな! あたしはお前たちとは違う!」
エルティアはセントギルダの片隅で産まれたと、テロメアは言っていた。敵である妖魔よりも、信頼のおける相手の話を信じるに決まっている。
「出任せではない。研究所に細胞を提供したのは私だからな。お前は人間の胚に妖魔の細胞を注入して造られた生体兵器だ」
「嘘……!」
心臓が鷲掴みにされたように苦しい。背中を嫌な汗が伝う。
「嘘じゃない。疑問に思わなかったのか? 妖魔は成熟の早い種族だ。お前は普通の人間よりも数段早く成長するはずだ。それにお前は、ここまで妖魔を殺してきたな? 人間と妖魔の間には隔絶した力の差がある。人間が妖魔を相手取って倒すなど、夢物語だ」
「だってあたしの耳は人間の形をしてる。爪だって綺麗な色だし……」
「言っただろう。三分の二が妖魔だと。お前の中には確かに人間の部分がある。お前は一見すると人間だが、内実は妖魔に近い。それにその血色の瞳……人間には存在しないはずだ」
全部、妖魔の言う通りだった。
まるでエルティアの生活の一部始終を見ていたように、妖魔はエルティアの疑念を掘り起こして、白日の下に晒していく。
(こんなの、認められるわけない……!)
自分自身が、宿敵と同一の存在だなんて。バージニアたちが嘘をついて、自分を騙していたなんて。
握りしめた手が小さく震える。悲しみよりも深く、怒りよりも鋭い失望が、エルティアの中で膨らんでいく。
「嘘よ……そんなの信じない」
声に出さなければ認めてしまっているのと同じような気がして、エルティアは呟く。自分でも嫌になるくらい弱々しく、意気地のない声。
「すぐに飲み込めという方が、無理な話か……」
妖魔は顔を上げた。真白な世界──黒い塵が舞う空間にふたりきりでいるというのに。まるで頭上から何かが飛来してくるさまが見えるかのように、妖魔は頭上を仰いでいる。
「……どうやら、ゆっくり話している暇はないようだ」
けたたましい轟音が、エルティアの鼓膜を震わし耳朶を打った。
脱力していたような身体の力が戻ったのを感じて、エルティアは頭を上げる。見れば、世界に色が戻っている。どうやら妖魔の精神世界とやらから脱出できたようだ。
黒い外套をはためかせ、妖魔はエルティアの前に立ちふさがっている。こちらに背を向けて。
何が起こったのかわからず、妖魔の後ろ姿を見、それから彼が見ているであろう場所に視線を移した。
部屋の壁に大きな穴が空いていた。さきほどの音は、壁が吹き飛んだ際に発されたものだったのだろう。破片となった壁の一部が、床に散乱している。
巨大な穴から見える空は、憎らしいほど綺麗な星空。その星々の瞬きを、黒い影が切り取っていた。どれだけ距離が離れていたとしても、きっとエルティアは見逃さなかっただろう。影の中で光る一対の赤い瞳を。
黒い頭髪は、昔読んだ動物図鑑の中の獅子を思わせる、鬣のようだった。鋭く尖った耳は凶器に似ている。病人を彷彿とさせる白い肌は、その男の凶悪な表情が合わされば、どこか超然的な印象に様変わりする。
「ウォルザ……」
目の前の妖魔が、誰ともなしに呟いた。




