20.崩壊(2)
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泣きすぎて頭痛がする。身体中の水分がなくなるかと思えるくらいに泣いて、泣いて。いくら泣いても現実は変わらなかった。バージニアが生き返って再び抱きしめてくれることはない。
エルティアが泣いている間に彼女の温もりは完全に失われてしまった。身体に開いた傷口から流れてた血は、勢いを止めている。時間の経過により、乾いた血糊は黒く変色していた。まるで魔獣の血色のようだと、ぼんやりと思う。
バージニアから身体を離す。手の中には、彼女から渡された薄い板がある。それにはバージニアの顔写真と生年月日、そして名前が載っていた。どうやら社員証のようだ。
涙と血でぐちゃぐちゃになった顔を服の袖で乱暴に拭うと、エルティアは立ち上がった。
「武器を……それからレイゲンとかいう奴を見つけないと……」
教官たちから受けた三年間のしごきは、エルティアを剛健にしてくれたらしい。泣きすぎて頭が痛いし、まだ悪夢の中にいるような心地がするが、動けるのならば行動しなければという教官の教えが、エルティアを辛うじて動かしてくれた。
バージニアの最期の願いなのだ。叶えなければ。
予想した通り、多数の妖魔が研究所に入り込んでいた。それとも、エルティアがバージニアの死に涙している間に侵入されたのか。どちらにしてもエルティアのやることは変わらなかった。鉢合わせした妖魔を、文字通り破壊する。そうしてエルティアの足は研究棟に差しかかる。
リラたちのことがどうしても気になって、エルティアは研究室を確認してみることにした。バージニアの言う通り、全員が避難していればそれでよし。もしもそうでなかったら──。無事を確認しなければ、この浮き足立つような気持ちを解消することができない。
研究室や通路をひとつひとつ確認するたびに、不安が雪だるま式に大きくなっていくのがわかった。妖魔の力によって長机や椅子は瓦礫のような有様になっており、壁や床は研究員や兵士の血で赤く濡れていた。
生存者がひとりもいない。いや、もしかすると気を失っている者や瓦礫の下敷きになっている者がいるのかもしれないが、エルティアが呼びかけてみても返事はなかった。
(嘘だ、こんなの……!)
最悪の事態を予感して、身体から力が抜ける。足は沼地を歩いているように重く、踏みしめた床は雲の上を歩いているみたいに不確かに感じられた
バージニアを失ったのだ。自分からこれ以上、何を奪うつもりなのか。
「みんな! 大丈……あ」
何体目かわからない妖魔を倒し、エルティアの誕生日を祝った部屋に近寄った。
心のどこかで結果はわかっていた。けれども、どれを認めることは身を切るよりも辛い。
「みん、な……」
エルティアとバージニアが自室に戻ってからも、細やかな酒会は続いていたのだろう。妖魔襲撃の報は、寝耳に水だったに違いない。床にぶちまけられた酒。飛び散った菓子は、慌てふためいた様子を表すように踏み潰されている。机や椅子が破壊され、破片が床に散乱している。
白い室内を汚す、鮮烈な赤。濡れ光っている血液が、壁をまだらに染めている。
床に倒れた人、人。みんな見覚えがある。エルティアが通りかかると笑顔で挨拶をしてくれた者、エルティアを心配して、訓練室に足繁く通ってくれた者、飲物や菓子を用意して、夜遅くまでエルティアの愚痴を聞いてくれた者。みんなみんな。
誰ひとり動かない。
顔を驚愕の表情で固めた者、怯えてうずくまった者、みな一様に死への恐怖を抱いたまま死んでいた。
部屋の奥に、デボネとリラとサイファーがいた。デボネは妖魔から研究員を守ろうとしたのだろう。部屋に伏した誰よりも損傷が激しい彼女を見ればわかる。デボネは脚部を切断され、胴体に大きな穴が開いていた。まだ倒れて間もないのだろう。胴の傷口からは青い火花が散っていた。視覚の役割を果たす顔面のふたつの照明は、暗闇に没している。
サイファーはリラに覆い被さって死んでいる。腕の中のリラは、悲しみと痛みが入り混じった表情のまま、時を止めていた。
「リラはお腹に赤ちゃんがいたのに……どうしてこんな、ひどいことができるの……」
流し尽くして枯れたはずの涙が、再び頬を濡らす。足の力が抜けて、エルティアは床に膝をついた。血溜まりに自身の涙が滴る。
「みんな……死んじゃった」
なぜこんなものが現実なのだろう。誕生会から戻るまでは、いつもと変わらぬ平穏が続いていたのに。一瞬にして妖魔は、エルティアから大切なものを奪っていってしまった。
涙が止まらない。瞳がふやけて、溶けて流れ落ちてしまいそうなほどに。
エルティアは膝においた手に、強く強く力を込める。爪が皮膚を突き破り、肉を抉る。血がにじんで掌を汚す。──その痛みで、意識を無理矢理現実に引き戻そうとした。
泣いてばかりでは何も変わらない。まだ、テロメアとセリカの安否を確認していない。まだ終わりではないはずだ。まだ。
脱力した身体を強引に立ち上がらせ、エルティアは研究室を後にした。
研究棟を抜け、テロメアの私室に続く階段式昇降機を目指す。しかし、エルティアの進路は予想もしていなかったものに阻まれた。
「これ……壁?」
テロメア・セントギルダは妖魔の研究をホリニス・グリッタ国から一任された要人だ。おそらく襲撃の報と同時に、敵の侵入を防ぐために、階段式昇降機へ至る通路は封鎖されたのだろう。分厚い隔壁が、通路を塞いでいた。厚みを理解できたのは、その隔壁が崩れてしまっているからだ。何者かが壁を破壊し、その破片が通路に散らばっている。まるで大きな墓標のようだ。破片と言うには巨大すぎる。エルティアの背丈を越えるほどの大きさで、厚みは手を広げたほどもある。力に自信があるエルティアでも、とても退かせられない。
「……おじいちゃん」
この隔壁の向こうに妖魔は向かったのだろうか。これだけ壊し尽くされているということは、もう──。
「いや……」
自分を大切にしてくれた相手の死に様を見るなんて、もう耐えられない。胸が張り裂けそうな苦しみと、世界が終わってしまった絶望を味わいたくない。
エルティアは隔壁に背を向けた。一歩、また一歩と足を踏み出すと、もう止まれない。
見なければいい。確かめなければ、生きているかもしれないという希望にすがることができる。たとえその望みが、どんなに薄くても。
エルティアは管理室に辿り着いた。道中、見知った顔の死体をいくつも見た。彼らは逃げ出そうとしたのか、それとも反抗しようとしたのか。死の間際の行動は違えど行き着く先は一緒だった。妖魔はそれらを嘲笑い死体を足蹴にし、命を奪うに飽き足らず、死体を損壊している者もいた。
乾いた木々を炎が包むように、衝動が身を突き動かした。最早自分が悲しんでいるのか、怒りで我を忘れているのか判断がつかない。エルティアは妖魔を見つけるたびに、頭を手刀で貫き、腹を裂いて臓物を引きずり出して踏み潰した。そうでもしないと気がすまなかった。
「ここが、管理室……」
妖魔の血と肉片でどろどろになった服を着たまま、エルティアは扉の上に設置された電光掲示板を読み上げる。研究所の内部構造を完全には把握していなくても、歩き慣れた通路や見慣れた部屋を経由することで、今いる場所は研究所のどの辺りなのか予想することができた。
この部屋はおそらく、バージニアが祈っていた塔の真下に当たるはずだ。最上階にはきっと、彼女が戦天使レイゲンの生まれ変わりだと信じている者が、いるに違いない。
この部屋はテロメアたちの研究成果が収められている場所のようだ。しかも、一部の研究員以外は立ち入りを禁止されている。それを物語るように、扉はエルティアが近づいてもなんの反応も示さない。
壁に四角い機械が取りつけられている。何かを通して使うものなのか、機械の隅には細く切り込みが入っている。
(バージニアの社員証)
エルティアは服の衣嚢に手を入れた。取り出した紙片状の板を、切り込みに差して滑らせる。
扉の上部に備えつけられた照明が緑色に点滅し、扉が開く。エルティアは室内に足を踏み入れた。
エルティアを出迎えたのは、魔獣の剥製だった。小型の鼠から、中型の熊まで。それらが牙を剥き出しにし、今にも飛びかからんばかりの体勢で固まっている。その横にあるのは、最も巨大な種類である犬型の魔獣だ。全長はエルティアを縦にふたり並べたよりも高い。身体を縦に輪切りにされていて、内容物が丸見えだ。よく見ればそれだけは、剥製ではなく模型だった。
壁の白板には、エルティアがどんなに頑張っても解けないであろう数式が羅列されている。『妖魔の細胞の培養と変質』という題名の本が、棚に番号を振って収められている。
室内をぐるりと見渡してみたが、大剣らしい武器は見当たらない。怪訝に思いながら最奥に目をやると、小経が伸びているのが見てとれた。エルティアは狭い通路を進む。すぐに行き止まりに突き当たった。
(これ)
丁度エルティアの頭の位置に、管理室の出入り口にあった機械と同じものがある。エルティアはバージニアの社員証を滑らせた。途端に壁が左右に開き、蒸気が吹き出した。壁の中に収められていたのは、一振りの大剣だった。
妖魔の首を一撃で刎ねられるように、刃は幅広だ。全長はエルティアの足と同程度の長さで、華美な装飾もなければ変わった仕掛けも施されていないようだった。
王の力を半分も受け継いでいない戦士階級の妖魔ならば、エルティアでも素手で倒すことができる。だが、上位の種である守護者と王だけは、肉体の強靭さだけでも戦士階級を上回っている。上位の妖魔を倒せるのは、その骨を加工し造り出した武器だけなのだ。
大剣は、エルティアが電子遊戯で使っている武器と同じ鋼色をしている。これではきっと上位種を倒すことはできないだろう。しかし、素手のままいるのも現実的ではない。今は運よく無傷ですんでいるが、地力が高い者が相手の場合、おいそれと殴りかかればこちらが負傷しかねない。
エルティアは柄を握ると、頑丈そうな留め具から大剣を外した。




