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機械仕掛けの天使は闇夜を翔る  作者: 夏野露草
11章 真紅の少女は幸福の花を夢見る
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19.崩壊(1)


***


 一対の赤い瞳。黒くて大きな影。子供が見れば、お化けと叫んで恐慌を来しそうなそれは、少しずつエルティアに近づいてきた。


 まず最初に感じたのは恐怖だ。自身の指先が小さく震えているのがわかって、エルティアは戸惑った。自分は幼い子供ではない。本物と見紛う魔獣や妖魔を相手にし、打ち勝ってきたのだ。その自分が、ただの黒い影に恐れおののくなんて。


 恐怖を自覚すると、なぜ自分が恐れを抱いているのか、その理由を考えることもできなくなった。ただただ、目の前の影が怖いのだ。


(いや! こないでっ!)


 叫びは言葉にならず、喉の奥に貼りついた。


 じりじり、じりじりと、黒い影はゆっくりと、だが確実にエルティアに迫ってくる。


 もう少し――影がその手をほんの少し伸ばせば、エルティアに触れられる。恐怖のあまり小さく息を呑み込んで、ぎゅっと両目を閉じる。そうしてエルティアは我に返った。


 がばりと身体を起こす。心臓が早鐘を打っている。背中が汗でべたついていた。たった今まで自分が見ていた光景が夢だったことに、心底安堵する。


 意識を現実に向けると、すぐに異変に気づいた。部屋の出入り口付近で、バージニアと誰かが会話をしている。彼女の声は蚊が鳴くような小ささだったが、相手の声量はあまりに大きい。どうやら外と通話しているようだ。音声はどこか機械的で、時折耳障りな異音が混じる。


「一体何があったんですか⁉」

『こちら第六空宙部隊! 多数の妖魔に襲撃されています! 研究所の方々は、兵士の避難誘導に従って……』


 男の絶叫。凄まじい爆発音。遅れてズンッ……と、腹の底まで響く重々しい振動が、エルティアの身体までもを震わせた。


 毛布を蹴飛ばす勢いで寝台から出たエルティアは、部屋の出入り口で通信機の受話器を持っていたバージニアに駆け寄った。


「一体どうしたの?」


 バージニアは受話器を通信機にかけると、エルティアを真剣な眼差しで見つめた。


「外の空宙部隊から連絡があったの。妖魔に襲撃されているって。じきに研究所にもやってくるわ」


 空宙部隊とは、ホリニス・グリッタ国がセントギルダに派遣している偵察部隊だ。第一から第十まで存在し、空宙機に乗り込んで都市の上空を(けい)()してくれている。彼らが襲われたとなると、妖魔はもう目と鼻の先にまで迫っていることになる。――いや、妖魔は空を飛べる。もうすでに、都市や研究所に入り込んでいたとしても不思議ではない。


「緊急の脱出口があるの。行きましょう」


 バージニアが手を差し出した瞬間に、けたたましい警報が鳴り響いた。緊急事態であることを示す、都市内放送だ。


『現在、セントギルダは攻撃を受けています。研究者および住民は、兵士の指示に従い避難を――』

「あたしが戦う!」


 放送の音量に負けないように、エルティアは声を張り上げた。


「みんなが逃げる時間を稼がなきゃ!」

「駄目よエル。どんな妖魔がいるかもわからない。もしも今回の襲撃が守護者によるものなら……あなたはまだ本物の守護者の階級にある妖魔と戦ったことがない。危険よ」


 バージニアに手を取られる。彼女が走り出すものだからエルティアはたたらを踏んだ。


 確かにエルティアは本物の妖魔を相手にしたことがない。だがエルティアが戦ってきたのは、研究員たちが生体情報を精査し、実物と寸分違わぬ立体映像として構築したものだ。それが本物の妖魔に劣るとでも言うのだろうか。


「でも!」

「まずは自分の身の安全を優先して」


 バージニアが力強く手を引くので、振り払うこともできずにエルティアは走った。




 見慣れた白い通路を、東に向かって進む。いつも通りの光景。天井の照明は、誕生会から帰るエルティアを見送ったときと同じ色をしている。騒がしい警報だけが、まるで悪夢の続きを見せてでもいるように、一際大きく鳴り響いていた。


 バージニアの話では、脱出口は研究棟を抜けた先にあるらしい。さっきまでエルティアの誕生会を行っていた部屋は、研究棟の外れにあった。リラたちの安否を確認したいと言ったエルティアだったが、バージニアは首を横に振る。


「きっと大丈夫よ。みんなもう逃げているわ。それよりも自分の心配を――」


 通路から開けた場所に出たバージニアの声が、途切れる。突然立ち止まるものだから、腕を引かれていたエルティアは彼女の背中にぶつかりそうになった。


 発砲音と、多数の悲鳴。


 大間には兵士たちが伏していた。彼らの身体から流れたであろう血が、せせらぎとなって床を流れている。その死体の上に、ひとりの男が腰を下ろしていた。


「人間とはこんなにも脆いのか。王の言う通り、なんと脆弱な生き物だ」


 人間にしてはありえないほどの白い肌。小刀の先を思わせる尖った耳。鮮血の色をした瞳。その身は黒い靄状のものに覆われていて、人間で言う衣服のようだ。裾に当たる部分が、風もないのに炎みたいな揺らめきかたをしている。――妖魔。


 認識した瞬間、エルティアはバージニアの手を振りほどいていた。床を駆け抜け、妖魔に肉薄する。


「おや、少しは楽しめるか」


 妖魔と真正面から視線が合う。酷薄な笑みを口元に浮かべた妖魔が、面に一瞬だけ怪訝な色を滲ませた。


 それが決定的な隙になる。


 手を手刀の形にし、エルティアは妖魔の首に振り下ろす。爪は鋭利な凶器となり妖魔の肉を斬り、骨を断つ――には至らなかった。硬質な脊椎が、手刀を阻む。


(――なら!)


 床にひびが入るほど左足を踏みしめ、右足にありったけの膂力を込めて首を蹴りつけた。確かな感触が足先を伝う。妖魔の首は完全に胴から離れて、まるで球蹴りに使う球のように弾んで床を転がった。


「倒した……!」


 本物の妖魔は意外に呆気なかった。――いや、この妖魔はきっと守護者の階級ではない。妖魔の王にとっては、自身の力を残り(かす)程度にしか継いでいない、使い捨ての戦士だろう。あまりに弱すぎる。


「エル!」


 バージニアの鋭い声。


 エルティアは目を見開く。視界に飛び込んできたのは漆黒の刃。妖魔の力が形を成したもの。


 避ける、という思考さえ浮かばない瞬間。


 バージニアがエルティアの前に飛び出す。一直線に飛んできた刃が、その身を貫く。背中から吹き出した血がエルティアの顔を濡らす。


「……バージニアッ!」


 力なく崩れる彼女を後ろから支えて、床に横たえさせる。


「どうして……!」

「あなたが何より、大切だから……」


 発声すると同時に口から血が溢れる。青白い顔で荒く息をしながら、バージニアは大間の先を指した。通路から新たに現れたのは、さきほどエルティアが倒した妖魔とさほど外見の違いはなかった。立ち止まった瞬間に、衣服を模した靄の裾が不自然に翻る。


「……貴様、なぜ()()()()にいる?」


 声を発すると同時に、妖魔の眼前に光の瞬きが集う。それは一振りの剣となり、エルティアに向かって突き進んでくる。


「臭い口を開くな。……この、薄汚い化物ッ!」


 力を収斂し構築した光の盾で、剣を防ぐ。刃先が盾に接触した瞬間、剣は形を保てなくなり砂のような粒子となって崩れ去った。


***


 どうやって妖魔を倒したのか記憶にない。ただ、頭の中が怒りで白く染まって、激情に突き動かされるまま力を振るった。我に返ったときには、妖魔は赤黒い液体が染み出すだけの肉塊と化していた。


「バージニア……!」


 早く手当をしないと。床に横たえた彼女に駆け寄り、抱き起こす。


 出血が止まらない。黒い上着は血を吸って重くなっている。バージニアの顔からは完全に血の気が失せ、エルティアの腕を握る手にも力が入っていなかった。


「あたし、どうしたらいい? どうやって手当したら……」

「もう、私は助からないわ……」

「嘘!」


 叫びは涙で詰まる。


「器人なんでしょ! 普通の人間より身体が丈夫だって、前に言ってたじゃない……!」


 バージニアは首を横に振る。傷口を手で押さえてみせた。血が流れ出し、服に染み込みきれなかったものが床に滴る。


「胸を貫かれている。傷を再生できないの……」

「そんなのいや! バージニア、死んじゃやだよ!」


 ほんのさっきまで、いつもと変わらない日常だったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 これは夢だ。まだ、あの黒い影ににじり寄られた悪夢の中にいるのだ。目が覚めたらきっと、バージニアが穏やかな顔で朝の挨拶をしてくれるはず。デボネがもう朝食を作ってくれていて、当たり前の顔でそれを食べる。そんな、いつもと変わらない毎日が始まるはずなのに。どうして今も、目覚めないのだろう。


 目の前の、血で滑りを帯びている傷口が、現実を容赦なく叩きつける。


 バージニアの呼吸とともに傷口から血が滲み出し、衣服の胸の部分は赤黒く濡れている。エルティアの肌にも白い服にも血液が染み、赤く染まっていた。


 バージニアが咳き込む。そのたびに口からだけでなく、傷口からも血が染み出す。エルティアは涙を流しながら、それを見ていることしかできない。


「これを、持っていて」


 バージニアは服の()(のう)から取り出した紙片状の薄い板を、エルティアの手に押しつけた。


「研究棟を抜けた先の管理室に、あなたのために造られた大剣が……仕舞われているわ。それを持ってレイゲン様と一緒に逃げて……」

「いや! バージニアも一緒に来てくれなきゃやだぁっ!」


 目の奥が熱い。涙が止めどなく溢れてくる。頬にひやりとした感触が触れた。バージニアが手を伸ばし、エルティアの涙を拭ったのだ。


「もう……子供みたいなことを言わないで……」


 掠れた声は、かすかに笑っているように震えていた。


「エル、あなたは人類の光……。どうか、強く生きて……そして、人間を守って……」


 呼気に血が混じって苦しげに呻く。頬に添えられていた手が離れて、ぱたりと床に落ちた。


「バージニア……?」


 エルティアはバージニアを揺すった。けれども、彼女の身体は時が止まったように動かない。目を開けたまま。口をかすかに開いて。そのまま停止している。


「あ……あぁ……!」


 エルティアはバージニアにすがりついた。彼女の身体はまだ暖かい。しかし、エルティアをその腕で支えてくれることはない。身体は完全に脱力し、瞳は光を失っている。


「死なないで! バージニア! うわあああああっ!」




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