18.変わる世界(3)
夜も更け、眠気を覚えたエルティアは、バージニアとともに自室に戻ることにした。デボネは給仕の仕事を続けている。鼻歌を歌いながら料理が載った皿を持ち、研究員の間を行ったり来たりしていた。
誕生会はいつの間にか酒宴に変わっていた。普段から神経をすり減らして魔獣や妖魔の研究をしている者たちが、気の抜けた笑顔で言葉を交わしたり、馬鹿みたいに大きな声で笑っている。和気藹々とした雰囲気が、室内を満たしていた。エルティアはみなの様子を微笑ましく眺めて、扉を潜った。
広大な地下施設の中心に位置する研究棟。そこから西に通路を進むと、研究員や作業員などが寝泊まりする寄宿舎がある。その内の一室に、エルティアとバージニアの部屋があった。
広々とした室内には種々な家具が並んでいる。花瓶に生けられたフェイヴァの花と、その側にちょこんと座った小さな猫の人形が、無機質な白い部屋において人間味のある色を宿していた。
賑やかな寄り合いから離れてみると、沈黙が場に広がった。普段ならばデボネがあれこれ話しかけてくれるのだが、今は彼女がいない。エルティアもバージニアも口数が多い方ではなかった。
なんとはなしに椅子に座り、エルティアは壁際で花瓶に水を注いでいるバージニアに視線を投げた。誕生会でもらったフェイヴァの花束を、新しく机に飾ろうとしてくれているのだ。彼女の表情はどことなく張り詰めているように見える。ここ最近、バージニアが心労を感じていることを、エルティアは知っていた。
「……おじいちゃん、大丈夫だよね」
確かめるようにバージニアに尋ねる。すぐによくなると言ってくれると思っていた。――しかし、エルティアの方を向いたバージニアの顔は、憂慮に翳っていた。
「エル、話があるの」
エルティアの中で緊張が走った。思わす衣服の袖を、強く掴む。
バージニアは花束を花瓶に生け、束の形を整える。そうして机に近づいてきて、天板の上に花瓶を置いた。エルティアの隣にある椅子を引いて腰かける。彼女の顔を見れば、テロメアの容態が思わしくないことは容易に想像できた。
一体何を言われるのだろう。エルティアはバージニアの話を聞きたくなかった。知るのが怖い。エルティアはまだ、身近な人間を失ったことがないのだ。
「……私が器人であることは昔、話したわね」
悪い想像だけが際限なく膨らむ。そんな救いのない話を想像していたから、バージニアが切り出した意外な話に、エルティアは少々面食らった。
「うん。人の目を見ると、その人が考えていることや記憶が読めるんでしょう?」
話さずとも考えを察してくれる。バージニアの特異な能力は、エルティアにとってよい働きをした。例えば訓練が上手くいかない時、教官に手酷く叱られた時。話さずとも、バージニアはエルティアの心の状態を理解して、そっと寄り添ってくれた。そうして溢れそうな感情の波が落ち着くまで待ってくれる。彼女に対して何も隠すことがないエルティアは、便利な能力だな程度に捉えていた。
「そうよ。あなたにはずっと話していなかったけど、器人にはもうひとつ、特別な能力があるの」
「何?」
「他者の記憶や心。その人が持つ力や魂を取り込むことができるの。――だから、“器”人と名づけられたのね」
バージニアはじっとエルティアを見つめていた。鮮やかな果物の色に似た瞳が、その時軽く眇られた。エルティアははっとした。話したくないことを口にしなければならない時にバージニアがする、癖のようなもの。
「私はここで――研究所で器人になったの。私の存在理由はテロメア様の知識を継承して、次代に繋げていくことなのよ」
そんな突拍子もない話をされても、すぐに受け入れるのは難しい。魂を取り込む。知識を次代に繋げる。エルティアは今までバージニアのことを、他の研究員と同じだと思っていたのだ。テロメアの下で働き、エルティアの世話を任せられただけの。――まさかそんな度外れた使命があったなんて。
「あなたが混乱するのもわかるわ。突然こんな話をされても、信じられないわよね。……だけど時間がないの。このままテロメア様の容態が変わらなければ、最悪の事態は避けられないわ。あの方が亡くなり、その知識が失われることだけはあってはならない。……エルには、覚悟をしてほしくて。テロメア様の知識を受け入れた後、私にどんな変化が起きるかわからない。なるべく知識だけを選り分けて、テロメア様の心情には触れずにいるつもりだけど、知識と感情は繋がっていることが多いから。……私が私でいられるか、わからない」
「そんな」
すべてをすんなりと受け入れられない。けれども、バージニアの話が不吉な色を帯びているのはわかる。もしもテロメアが死んでしまったらどうなるのだろう。バージニアまで失うことになったら。
「待ってよ。おじいちゃん、よくなるんだよね? 死んだりしないよね?」
「テロメア様は今とても危ない状態なの」
「やだ! おじいちゃんもバージニアもいなくなっちゃやだよ!」
声を荒げる自分自身を、どこか俯瞰して見ている。なんて子供っぽい。もう自分は十六歳で、大人の仲間入りをしたというのに。
「なんで突然そんなこと言うの……」
「エル」
「バージニアがどう思っているか知らないけど、あたしはバージニアのこと、お母さんみたいに思ってるのよ」
物心ついた頃から側にいてくれて、支えて励ましてくれた。これを母と言わずして、なんと呼ぶのだろう。
「……それは私も同じよ。だから怖いの。私自身が変わってしまうことが」
バージニアが膝の上で組んだ手に、力がこもるのがわかった。力を入れすぎて指の先が白く染まっている。もしかすると彼女は、テロメアの知識を受け継ぐことを本心では望んでいないのではないのだろうか。
「……バージニアはおじいちゃんの知識を自分の中に入れることを、望んでいるの?」
「私の気持ちは関係ないの。これは、私の使命なのよ」
人は誰しも役割がある。そう言っていたのはテロメアだ。エルティアの使命が妖魔を滅ぼすことであるように、バージニアにも務めがある。それは、他の誰かが肩代わりできないようなものなのだろうか。
「どうしてバージニアがしなくちゃいけないの? 器人ってバージニアだけなの? おじいちゃんの側にいる、あの……セリカは違うの? あの人がやればいいじゃない」
我ながら最低なことを言っている。自分を大切にしてくれる人を失いたくない。彼女たちが助かりさえすれば、他の人はどうなっても構わない。
「子供みたいなことを言わないで。セリカは私の予備よ。私に不測の事態が訪れた場合、テロメア様の知識を受け継ぐ役割は彼女に移るわ」
「あたしはいやっ!」
子供のようだと窘められても構わない。テロメアの知識を受け継ぐことで、バージニアに少しでも変調があるのが耐えられなかった。他者の知識を自分の中に受け入れるというのは、どんな心地がするのだろう。もしもバージニアが懸念しているように、彼女が錯乱したり、まったくの別人のように変わってしまったら。
「あたしを本当の娘みたいに思ってくれてるなら、その役割はセリカに代わってもらって! あたし、バージニアに何かあったらいや!」
「……エル」
どうしようもなく腹立たしくて、エルティアは涙を流した。平穏な生活にいきなり亀裂が入ったようだった。バージニアはエルティアのわがままをいつだって受け入れてくれたが、今初めて彼女はエルティアの意志を無視しようとしている。
「……ごめんなさい」
今生の別れのような、悲痛に満ちた声音だった。
エルティアはどうやったらバージニアを引き止められるか、苛立ちと焦りで鈍った頭で考えた。けれども妙案は浮かばない。きっとどんな言葉をかけようとも、バージニアは務めを果たそうとするのだろう。
エルティアが妖魔を滅ぼすことを、幼少期から宿命づけられているように。




