09.記憶の扉を開けて(4)
魔人との面談から時間がたった今も、フェイヴァは頭の中を引っ掻き回されたような心境から抜け出すことができなかった。
逸る気持ちを落ち着かせたくて、けれどその方法がわからなくて。窓際に椅子を持っていって、外の景色を眺める以外にできることはなかった。
空は完全に暗闇に没している。灰色の雲がまばらに散っていて、雲の後ろで星が懸命に輝いていた。かすかな光はとても弱々しく映る。
(……フェイヴァ)
ラスイルの、気遣わしげな声が聞こえた。
(明日、本当にマーシャリアに会いに行くのか?)
(……うん。今更なかったことになんてできないでしょう?)
ラスイルは度々、フェイヴァの気持ちを確かめるように言葉を投げてくる。きっと変心を期待しているのだ。けれど、それは無駄なあがきだ。
(君とは別人の過去を見極めて、どうするつもりなんだ。……君は、自分の命を捨てるつもりではないだろうな?)
(……わからない。あの人たちの前で答えを出したくなかったの。状況に流されてしまいそうだったから)
カイムたちはフェイヴァが生き続けることを望んでいない。
(君が心を手放さなければならないと感じているのなら、それは違う。言っただろう。彼らはすべてを知っているわけではないと。彼らは限られた情報しか持っていないんだ。少ない選択肢を、自分たちで更に減らしている)
何を言おうとしているのだろう。ラスイルは本題に入る前の話が長い、とぼんやりと思う。
(……ねぇ。マーシャリアさんが言っていたことは本当? 記憶が私に干渉しようとしているって)
マーシャリアは、フェイヴァの周りに川の流れのようにもやが見えると言っていた。それは遠く離れた場所から流れてきているとも。フェイヴァの他者の記憶の一部が見える能力が、今よりもっと強力ならば、彼女と同じ景色が見えたのだろうか。
(……すまない。話すことはできない)
フェイヴァは深いため息をついた。否定しないということは肯定しているのと同じことなのだが。ラスイルからすれば、これはフェイヴァが知らなくていい情報らしい。今更何をためらう必要があるのかと思う。
回廊を足早に駆ける靴音が聞こえた。それはフェイヴァがいる部屋の前で止まると、見張りの兵士と二言三言、言葉を交わす。
声音で誰かわかる。レイゲンだ。いつも落ち着いている彼が、慌てた様子なのは珍しい。何かあったのだろうか。
扉が開いて、レイゲンが部屋に入ってきた。手には燭台が握られている。それは暗闇に沈んでいた室内の、唯一の光源になってくれた。自動で明暗が調節されるフェイヴァの視界だが、やはり火の明るさというのは落ち着くものがある。
教練と見回りを終えてきたのだろう。かっちりとした軍服ではなく、釦つきの白い衣服に、上着を羽織っている。
きちんと扉が閉まっているのを振り返って確認すると、レイゲンが歩み寄ってくる。
(……どうした?)
遠い場所からフェイヴァを見ているらしいラスイルは、フェイヴァの心の声は聞こえても、フェイヴァが他者からかけられた言葉を聞き取ることはできないのだという。にも関わらず、何かを感じ取ったのだろう。丁度よく声をかけてくれた。
(レイゲンが様子を見に来てくれたの)
(そうか。ならば私は席を外そう)
(そんなことができるの?)
(ああ。説明が難しいが……君から意識を逸らす、と言えばいいのかな。そうすれば君の声はきこえなくなる。恋人との会話は誰でも聞かれたくないものだろう。では、また)
燭台を机の上に置いて、レイゲンはフェイヴァが座っている椅子の前まで歩いてきた。初めて会った頃と比べて、柔らかな表情を浮かべることが多くなったレイゲンだが、今は張りつけたような堅い顔つきをしている。
「何かあったの? もしかして誰か怪我しちゃった?」
「ピアースから聞いた。過去の記憶を探るために、カイムたちに会ったんだな」
「……う、うん」
レイゲンの顔がますます険しくなっていく。今ならば強面のグラントといい勝負ができそうだ。
「座って」
フェイヴァが机のそばの椅子を示すと、彼はわざわざ椅子を持ち上げてフェイヴァに近づいてきた。フェイヴァの目の前で椅子に腰かける。
「……レイゲン?」
様子が変だ。考え込んでいるのか、レイゲンは床をじっと見つめている。顔は物憂げな表情へと変わっていた。
ややあって、彼は顔を上げる。
「何故ひとりで会いに行ったんだ。奴らはテレサと敵対している。もしも襲いかかられていたら、どうしていた」
この言葉で、レイゲンの表情の意味がわかった。フェイヴァの軽率な行動のせいで、彼にいらぬ心配をかけてしまったようだ。
「……ごめんなさい。これは私ひとりの問題だと思ったし、みんな任された仕事があるでしょう? 私につきあわせちゃいけないと思って」
「お前は本当に……余計なことにまで気を使うんだな」
ため息をついて、レイゲンはちらりと窓の外に目をやる。鳥が忙しく羽ばたきながら、窓の間近まで迫って、そのまま上空に飛び上がっていく。
「教えてくれないか。奴らに何を言われた?」
「うん……」
膝の上で両手を握り、フェイヴァは頷く。
「私は自分のことをずっと、人間として生きていた時代があったと思っていたけど……それは違うんだって。ディヴィアをこの世で唯一倒せる存在。それが、私の過去の正体なんだって」
もうすでに、カイムたちから聞いていたのだろう。レイゲンは驚く様子を見せない。
「あの人たちは、神って呼んでるんだって。人間じゃない……」
カイムたちの話が本当なら、フェイヴァを破壊する前のディヴィアが言っていたこととも辻褄があう。
『私のことを覚えているか? ……いや、忘れていたとしても、私という存在はお前の中に深く刻み込まれているはず。私がそうであったようにな』
『何故身を守ろうとしない? 記憶だけでなく力まで失っているのか?』
今思えば、初めて出会ったユニに強い既視感を抱いたのも、記憶を失う前のフェイヴァが、唯一ディヴィアに対抗できる存在だったからだろう。フェイヴァは記憶をすべて失ったと思っていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。重要な記憶は無意識に残っていて、それがユニと出会ったことをきっかけに、意識の表層に表れ出たのかもしれなかった。
「……その人の記憶と力と心を分けて、三人の器人に与えた。その内のひとり、心を受け継いだのがテロメア――お母さんなの。テロメアの継承の儀式は千年以上も前から続けられていたんだって」
「千年……」
レイゲンは瞠目する。おそらくは千年という年月の、その長さに。
「心と記憶と力を受け継がせたのは、時がきたときに蘇らせるためなんだって言ってた。あの人たちは、その神様を蘇らせたいみたい。その方法でしかディヴィアを倒せない。……せっかく生まれてきて、生きたいだろうけど……運がなかったって諦めてほしいって」
「あいつら……!」
ぎり、と歯を軋らせる音がした。レイゲンが顔をしかめている。炎が胸の内で燃えたぎっているような、そんな表情。意気消沈しているフェイヴァは、彼がどうしてそんな顔をするのか、一瞬理解できなかった。
「……私、どうしたらいいんだろう。その人に心を返したほうが――」
身体が前に傾いで驚く。気づけば、フェイヴァはレイゲンの腕の中にいた。彼はフェイヴァの背中に回した両腕に力を込める。
「そんなこと考えなくていい。あいつらが本当のことを言っているとは限らないだろう。俺がフェイを守る。誰にも文句は言わせない」
「……でも。私の意識は死天使の身体に宿ってから生まれた偽物なんだよ。もともと生きていたのは……本物は、その人のほうなんだよ」
「俺にとってはお前が本物だ。もともとの人格なんて知ったことじゃない。……お前は何も悪いことをしていないじゃないか。ただ生まれてきただけ、俺たちと同じだ。フェイにだって生きる権利がある。生きて、幸せになる権利が」
レイゲンの心臓の鼓動が聞こえる。自分の中に決して存在しないその音は、とても愛おしく感じられた。血肉が通った人間である証。どんなに憧れても、フェイヴァが手に入れられないもの。レイゲンの身体から伝わってくるぬくもりが、フェイヴァを優しく慰めた。
(あったかい……)
自分に幸せになる権利があるのかはわからない。そもそも、幸せになれるとも思えない。フェイヴァには分不相応な望みに感じる。――けれども、この暖かさを自分から手放さなければならない日が来るのが、恐ろしかった。
今、この一瞬が切り取られればいい。時が止まったまま、動かなければいいのに。今だけは、誰もフェイヴァとレイゲンを引き裂くことはできないのだから。
(……未来なんていらない。今がずっと続いてほしい……)
「私、消えたくないよ。レイゲンと、みんなとずっと一緒にいたい……!」
目の奥が熱くなって、視界がじわりとにじんだ。フェイヴァはレイゲンにしがみつく。彼は何も言わずに、フェイヴァを強く抱きしめた。




