08.記憶の扉を開けて(3)
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空を茜色に染めていた夕日は、山間に沈もうとしていた。眩い残光が薄れ、紺の色が濃くなっていく。夜の気配が近づいていた。
扉が叩かれ、兵士がフェイヴァの部屋にやってきた。魔人たちとの面談の許可が下りたのだ。
(……フェイヴァ、本当に行くのか?)
(もう何度も言ったでしょう? 私は話を聞きに行くよ)
ラスイルがしつこく声をかけてくるせいで、他者の声が頭の上から降ってくるという奇妙な感覚には、すっかり慣れてしまった。
兵士の後に続いて回廊を進む。案内されたのは、城の居館の中心部。組織の上層部が会議に使用する、奥行きのある一室だった。監視のために扉の前に配された兵士に頭を下げ、フェイヴァは部屋に入る。部屋の中心に円を描くように長机が配置されていて、それに沿って椅子が数脚並べられている。
最奥の壁を背にし、四人の人物が椅子に腰かけている。フェイヴァは彼らと向かい合う位置にある椅子を引いて、座った。
フェイヴァをここに連れてきた兵士は記録係らしく、両者を見渡せる位置に腰を落ち着けた。彼の手元には羽の軸を削って作られた硬筆と洋墨入りの瓶、それと分厚い紙の束が置かれている。
フェイヴァは記録係の兵士が、洋墨に硬筆の先を浸すのを確認して、正面の魔人たちを見つめた。
(……えっと、確か)
(私から説明しよう)
彼らの名前と簡単な特徴は、レイゲンに教えてもらっていた。声をかけようと口を開いたフェイヴァを遮ったのは、ラスイルだ。
(この人たちを知っているの?)
(知っている。彼らはテレサと同期だからな)
フェイヴァが思い通りにならないと、ラスイルはやっと諦めがついたのだろうか。
(まず、君から見て右端にいる朱色の髪の女性、彼女はオレットだ。その隣にいる大柄な男はグラント)
ラスイルが紹介した順に、相手の顔を眺める。オレットは、朱色の髪を編み込んで後頭部でまとめていた。遠目からでも均整が取れた体型をしているのがわかる。反帝国組織の暗い色の軍服がよく似合っていた。
その隣に座るグラントは強面の大男だ。軍服を着ていても、筋骨が発達しているのが体つきからわかる。大きな体躯がなんとなく熊型の魔獣を彷彿とさせる。
確かこのふたりは、天使の揺籃の奪取を目的としていたハイネたちを迎え撃ったのだ。
(その隣に座るのが魔人たちのまとめ役であるカイム・セントギルダだ。そしてマーシャリア。彼女はテレサと同じ器人だ)
カイムは黒髪を項で束ねた青年で、眼光鋭くフェイヴァを見据えている。その眼差しに冷厳な光が見えた気がして、フェイヴァは咄嗟に目線を外す。
まるで蛇が獲物を捕食するような目つきだった。痩せた体躯に筋張った長い手足。グラントとは正反対な体つきだ。
そして――と、フェイヴァは最後のひとりに視線を向ける。
緩やかな飴色の髪。長い睫毛に縁取られた瞳は大きく、整った顔立ちをしている。彼女がマーシャリア。テレサを嫌っている、というのはレイゲンの談だ。
「……初めまして。私はフェイヴァといいます」
フェイヴァの自己紹介に合わせて、記録係の兵士が紙に記し始める。
もしかすると名乗ってくれるかもしれないと期待したが、返ってきたのは沈黙だった。遅れてカイムがクッ、と笑った。嘲笑のような響き。
「自己紹介なんて必要ないだろ。お前の名前はこちらも把握してるんでな。お前だってそうだろ?」
「……はい」
馴れ合うつもりはない、という意思表示に思える。
「……どこまで知ってる。テレサはどこまでお前に話した?」
「お母さんはテロメアという別の名前を持っていたこと。テロメアの名前は代々継承されていること。……私自身が知っているのはこれくらいです。母自身の口から聞かされたことはありません」
テレサは最期まで、自分の中の秘密を抱えたままだった。
「そもそも私は自分が人間だったことも知らなかったんです。同じ死天使であるハイネに教えてもらうまで、考えてみたこともありませんでした」
カイムは目を見開いた。疑問符が口から出てきそうな、そんな表情だ。何故そんな顔をされるのかわからなくて、フェイヴァは内心で首を傾げる。彼は終には肩を震わせ笑いだした。
「おい、聞いたか? 人間だってよ」
「……ここまで自分を把握できていないなんて。哀れね」
オレットの顔に同情めいた笑みが浮かぶ。
「俺たちだってすべてを知っているわけじゃない。テロメアと、それが受け継ぐものについて、知っているのは教皇とテロメアだけだ。オリジン正教の暗部を独自に調べ、情報をかき集めた。……だが、流石に人間という答えには行き着かなかったな」
フェイヴァは呆然と、カイムを見つめた。
「……どういうことですか?」
「お前は自分自身をなんだと捉えている?」
低く唸るようなグラントの声。フェイヴァは思ったままを伝える。
「私は、心。死天使の身体に心を与えて、私の意識が生まれたって」
「そうだ。しかしその心は、元々ひとりのお方のものだった」
グラントは何故か敬うような物言いをした。話を継いだのはカイムだ。
「その人物から心と記憶と力を別け、三人の器人に宿らせた。そいつらは天使の器と呼ばれている。心を受け継いだのがテロメア――テレサだ。ここまではわかるな」
天使の器。初めて聞く話だ。フェイヴァは胸の前で握りしめた両手に、強く力を込める。
「……はい」
「テロメアはいつから心を――お前を受け継いでいると思う?」
「わかりません。……十年、くらい?」
「そんなわけないだろ。俺が産まれるずっと前――千年以上前からテロメアの継承の儀式は続けられている。お前の言う“ただの人間”の心を、千年もかけて存続させている意味はあるか?」
(……千年、以上……)
確かにカイムの言う通りだ。フェイヴァの過去がなんの力もない普通の人間だったとしたら、千年も心を保存しておく理由がない。
「心を後生大事に受け継いできたのは、然るべき時にこの世に復活させるためだ。世界で唯一妖魔を殺す力を持った存在。俺たちは神と呼ぶが――お前は、その神の一部なんだよ」
「……私が」
そんな話信じられない。あまりに荒唐無稽だ。そう叫びたい気がしたが、カイムの口調には迷いがない。とても作り話をしているようには感じられないのだ。
「ディヴィアの魂は死ぬことがない。奴が肉体を得て完全に復活した時に、神を目覚めさせること。それがテロメアの使命だった。なのに、生まれたのはお前だ。テレサは使命を放棄した。お前がテレサの尻拭いのためにディヴィアと戦おうってんなら話は早い。だがな、それは今のお前のような半端じゃ無理だ。お前はディヴィアを殺せない。別れた心と記憶と力。それらを再びひとつにすることで、神は復活する」
こんな話は嘘だと切り捨てられたら、どれだけ気が楽だろう。しかし、己の過去がそうさせない。彼らが言っていることと、フェイヴァを破壊する前のディヴィアが口にした台詞に符合するものがある。
目の前が歪むような錯覚に陥った。身体から力が抜け、足下が崩れていくような。
「……せっかく生まれてきたんだ。お前も生きたいだろう?……だが、無理だ。元々お前は生まれてきちゃいけなかったんだよ。運がなかったと諦めてくれ」
同情とも皮肉ともつかない笑みが、カイムの顔に浮かぶ。
(生まれてきては、いけなかった……)
彼らはフェイヴァに犠牲になれと言っているのだ。心と記憶と力がひとつになり、神が蘇る。ディヴィアを倒すことができるのは彼――もしくは彼女だけなのだから。
(ラスイル。この人たちが言っていることは本当なの?)
長い長い沈黙。
(……すまない。話せない)
(否定してくれないんだ)
(それは)
フェイヴァは瞳を閉じる。後悔が鈍痛となって胸を締めつける。形のない心が、確かに軋んだ。
(……こんな、ことって)
すべてを知ることが幸せとは限らない。ラスイルが言っていた意味が、今ならわかる。真実を知るごとに、抜き差しならない位置にまで、自分が引きずり降ろされていく気がする。
ただの死天使と、ディヴィアを倒すことができる唯一の存在。どちらが生きるべきかなんて、考えるまでもない。
(……でも)
それでも、簡単にこの命を投げ捨てられない。フェイヴァはひとりの人物を犠牲にして生まれた偽物の命だが、フェイヴァという心が生き続けることを望み、死んでいった命が確かにあるのだ。
(……お母さん)
「……私は、自分の命を簡単に諦めることができません。あなたたちにとっては裏切り者でも、お母さんは……私が生きるためにたくさんの努力をしてくれた」
マーシャリアが鼻で笑う。嘲りが明らかだった。
「人類を妖魔の脅威から守るという崇高な使命を捨てて、人形遊びに興じるなんて。本当に愚かな女だわ」
マーシャリアの刃物のような言葉は、フェイヴァの身に斬り込んでくる。言い返す気力がない。
「あなたたちが言っていることが本当のことなのか、私は確かめたい。その人がどんな人で何を思って生きていたのか、知りたいんです。何か方法はありませんか?」
カイムはフェイヴァから顔を逸らすと、隣のマーシャリアを見やった。彼女は身を乗り出す。
「最近、妙な感覚に苛まれているんじゃないの?」
思い当たるのはラスイルのことだ。しかし、彼らに話してもいいのだろうか。
(私のことを喋っても構わない)
迷っている間に、マーシャリアがため息をついた。フェイヴァが質問の意味をわかっていないと思ったのだろう。
「あなたが眠っている間、何か見た覚えはない?……夢のような」
「――見ました」
死天使は夢を見ることがない。一時的に機能を抑制して眠っているように見せているだけ。その間は完全に意識がない。――なのに、テレサが死んでから、朝に目が覚めると、何かを見たような聞いたような感覚が残るようになった。夢の内容は思い出せなかったが。
「テレサが死んでから、私も奇妙な夢を見るようになったの。その夢にはまったく見覚えのない景色や、人が出てくる。誰かの目を通して、その人の過去を見ているような――。あなたを見てやっと合点がいったわ」
マーシャリアはじっとフェイヴァを見つめる。
「あなたの周りに、川の流れのような靄が見える。おそらくテロメアという壁がなくなったことにより、神の記憶が直接あなたに流れてきているのよ。それは、あなたの意識が眠っている間、あなたに干渉している。私にもその影響が出ているということね。私は器人の中でも、特に人の記憶を読み取る力に長けているから」
マーシャリアはふふん、と得意げな顔をする。
「ここから遙か遠く……位置はわからない。けれど、確かに人の記憶のようなものがそこから流れてきているわ。
……あなたたちの仲間に器人がいるわね? その子と私の力を合わせれば、神の記憶を時系列順に並べ替えて、あなたに見せられるかもしれない」
フェイヴァははっと、息を呑む。
求めていたものがやっと目の前に現れたというのに、今になって心の内に迷いが生まれた。身体に震えが走る。怖い。逃げ出したい。
(全部知ったら私は、もう引き返せなくなる。……でも、だからこそ見極めなきゃ。この人たちが言っていることが真実なのか、自分の目で確かめたい)
恐怖に蓋をして、見て見ぬふりをする。
「見せてください。お願いします」
フェイヴァはマーシャリアに頭を下げた。彼女は冷めた目つきでフェイヴァを見る。
「すぐには無理よ。他者の記憶が遠くから流れてくるのを見るなんて、私も初めてなんだもの。力の調整が必要よ。特に、あなたの仲間は器人になって日が浅いでしょう? 力の使い方を完全に把握できていないはず。……早くても一日は必要よ」
「……一日」
たったの一日だというのに、いてもたってもいられない。焦燥感のようなものが、胸を熱く焦がす。極刑を待つ罪人はきっとこんな気持ちになるのだろう。
「……わかりました。私、待ちます」
それだけを言って、フェイヴァは席を立った。彼らの視線から逃れるように部屋を出た。




