07.ひとつの疑問
ピアースは紙にフェイヴァの返答をひとつひとつ記していく。筆尻を頬にくっつけてしばし思案する様子を見せ、次の質問を投げかけた。
「テレサさんと一緒に暮らしてたとき、誰か怪しい奴が訪ねてきたりとかなかったかな?」
「そんな人は見た覚えがありません。……ごめんなさい」
「謝らなくていいんだ。
わからないのは、疑われると理解していたはずなのに、君を生み出したことだ。テレサさんは何故君を造ったんだろう?」
「……私と一緒に、幸せになりたかったからだと」
「テレサさんはきっと、君を生み出すためだけにディーティルドの兵器開発責任者となったんだ。それほどまでに、君はテレサさんにとって特別な存在なんだよ」
製造過程で愛着を持ったのではなく、造る前からすでに愛していた。それはまるで、胎内にいる我が子に愛情を注ぐ母のようである。
(……どうして私を愛してくれたんだろう)
答えは、出ない。
フェイヴァはふと、天井を見上げた。蝋燭の火はフェイヴァの頭上までその明かりを届けることができない。本来ならば暗闇が広がっているはずの天井はしかし、死天使の視力によって明瞭に見通すことができた。組み合わさった石材がはっきりと捉えられる。
フェイヴァの視覚が人間並みであったなら、そこに絶対的な闇を見ただろう。夜空のように星屑が囁くこともなければ、満月が見下ろしているわけでもない。
自分の未来は、視界に広がる天井のように、希望という名の光に染められることはないのだろう。
視線を落としたフェイヴァは、心細さに膝を抱えた。
「どうしたんだい?」
ピアースの声には、フェイヴァに対する親愛と優しさがにじんでいた。フェイヴァを恐れ高圧的な物言いをする兵士たちとも、感情を窺わせないレイゲンの声質とも違う。
フェイヴァは、自分を苛んでいる思いを吐き出してしまいたかった。ピアースならば信頼できる気がする。母が死天使について教えているのだ。彼女が悪い人のはずがない。
「私……自分を認めることができないんです」
膝の上で組んだ手を、じっと見る。ピアースは何も言わなかった。だからフェイヴァは続ける。
「自分が化物から生まれた事実を思うと、いやで堪らないんです。みんな、私を避けるんじゃないか、怖がるんじゃないかって、そればかり考えてしまうんです。お母さんと暮らしていたときは、こんなこと考えずにすんだのに」
硬いものが擦れる音がした。ピアースが筆記具を床に置き、顎に手をそえていた。
「私がもし君の立場だったら、そんなふうには考えない。化物から生まれたとか、自分が兵器であるとか、そんなの思い悩むだけ無駄なんだ。もう、そうして生まれてしまったんだから」
「……そうですね」
フェイヴァは落胆している自分に気づいた。ピアースの話は、やはり想像の域を出ない。そう思ってしまっている。
幼稚な自分が心底嫌いになる。他者は自分を映す鏡ではない。ピアースがフェイヴァの望む言葉をかけてくれるはずがないのだ。
「だって、君は君だ。君の心は、死天使でも兵器でもない。フェイヴァというひとりの存在だ。君は普通の女の子のように生きたいんだろう!? その気持ちは、誰も間違っているなんて否定できない! 恥じることも、自信をなくすこともない!」
途中から気持ちを込めすぎて声を荒げてしまったピアースは、我に返って気恥ずかしげに頬を掻いた。
「ごめん。我々は君にディーティルドと戦ってほしいと思っている。それなのにこんなことを言うなんて」
「……いいえ。ありがとうございます」
フェイヴァは首を横に振り、微笑んだ。テレサ以外の人が、自分のことを真剣に考えてくれている。激しい口調から彼女の思いを感じ取ったフェイヴァは、素直に嬉しいと思った。
「君は優しいんだね。同時にとても弱い。……でも少し、発達しすぎているような気がするな」
「どういうことでしょうか?」
「君は、目覚めてまだ一年しか経っていないんだろう? にも関わらず、人と天使の揺籃から生まれた自分を比べて、自己嫌悪している。生まれたばかりの真っ白な心が経験を積み、そのような精神構造になるには、一年という期間はあまりに短い。生まれたてにしては、君は成熟している」
フェイヴァは驚きに胸を突かれた。言われてみればそうかもしれない。
「もしかすると、君は……」
言葉を詰まらせたピアースは、緩く首を横に振った。これ以上先を口にすると、フェイヴァを混乱させてしまうと配慮したのだろう。
「正直に話してくれてありがとう。とても助かったよ」
「いいえ。何もお役に立てなくて」
自分の話が、ピアースの推論の助けになったとは思えなかった。むしろ、母であるテレサのことをどれだけ知らないか、教えてもらったような気分だ。
「そんなふうに自分を悪く言うものじゃないよ」
ピアースはそう言って、品よく微笑んだ。
『人間よりも君のような存在に共感を覚える』
彼女は何故、そのような思考を持つに至ったのか。
答えは、ピアースの瞳が教えてくれた。明るい虹彩が蝋燭の火に照らされ鮮やかさを増す。吸い込まれるような錯覚に陥って、脳裏にまったく見覚えのない光景が広がった。
フェイヴァは、ピアースの瞳を通して暗闇を見ていた。感じる息苦しさが、毛布にくるまっているのだと理解させた。剥き出しの小さな足は震え、粗末な毛布に擦れて痛い。
地を震わすような騒音が侵入者を知らせて、ピアースは身体をわななかせた。荒々しく近づいてきた足音の主が、毛布を無理矢理剥がそうとする。悲鳴を上げ必死に抵抗するが、腹を強打され力が緩む。
暗闇が取り払われ、侵入者の顔が視界いっぱいに広がる。彼はピアースの父だった。いや、かつて父と呼んでいた人だった。絶叫が幼い口からほとばしる。絶望と怒り、あるいは悲しみを内包した精一杯の悲鳴。男の手が衣服にかかり、強引に引き千切った。
それ以降の出来事を記憶として残したくはなかったのだろう。フェイヴァの意識は弾かれるようにして現実に帰ってきた。
(ピアースさん……)
フェイヴァは声もなく、目の前の女を見つめた。幼いピアースの恐怖が、痛いほど伝わってきた。彼女はきっと父親から虐待を受けていたのだろう。記憶から消し去りたいほどの苛烈な暴行によって、彼女はもしかすると人に対する信頼を捨ててしまったのかもしれない。
あまりの衝撃に、気持ちが悪くなった。人を、それも血の繋がった娘を、なぜ傷つけられるのだろう。
「どうした? 体調が悪いのかい?」
「いえ。あの……私、お母さんと同じような力が使えるんです。人の記憶の一部を見ることができるみたいで。……それで」
「まさか。そんなことはありえない。能力が使えるのは覚醒者か魔人だけのはずだ」
「でも、見えるんです」
「私の記憶が見えたの? 言ってみて」
「でも……」
「遠慮しなくていい。とても興味があるんだ。もしかして恥ずかしい記憶かな? 孤児院に入って間もない頃にもらしたときのとか」
「……ピアースさんのお父さんが」
突然立ち上がった彼女に、フェイヴァは驚いた。フェイヴァの話に輝いていた瞳は、光を失った。あるのはただ、ほの暗い穴を見下ろす冷めた眼差しだった。
「……あの屑のことは、見てほしくなかったな」
「ご、ごめんなさい」
「いいよ。制御できないんだろう? テレサさんの力がそうらしいから。それより、君に悪影響がないか心配だよ。あんなの見て気分悪いだろう? 吐きそうになってない?」
「私は、平気です」
ピアースは手早く紙に追記した。扉と床が擦れあう重々しい音が室内に谺する。
約束の時間がきたのだろう。長いようで短い二時間。
「辛い思いをさせるけど、君には耐えてもらわなければいけない。……できるかい?」
「はい、大丈夫です。……あの、ピアースさん。もしよかったら、ときどきこうやってお話に来てくれませんか?」
返答は、哀れみを感じさせる表情に表れていた。
「私もそうしたいところだけど、勝手な行動は許されないんだ。そればかりか、私はしばらくテレサさんにも会うことができない」
テレサは他者の心を読む。報告に戻ったピアースが彼女に近づけば、瞳からフェイヴァがおかれた状況を見ることになる。
本当は気づいてほしい。ここから助け出してほしい。湧き上がる思いを、フェイヴァは口に出すことができなかった。ピアースにそれを訴えても解決にならないのだ。それに今の自分の姿を見たら、テレサはどれほど悲しむだろう。
「そうですよね。無理を言ってしまってごめんなさい」
寂しさに泣いてしまいそうになって、フェイヴァは面を伏せた。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。大丈夫。大丈夫。思い込みはやがて、フェイヴァの中で真実になる。暗い部屋に閉じ込められているだけだ。ひどいことはされていないのだから。
「君の力になってくれるかどうかわからないけど、あいつに頼んで行くよ」
「あいつって……ピアースさんの弟さん?」
「そう、レイゲン。冗談とか言わないから話しても面白くないけど、いないよりマシだからね」
「……え?」
フェイヴァは最初、ピアースが言っていることの意味が理解できなかった。遅れて彼女の言葉が頭に染み入ってきて、ようやくはっとする。
デュナミスとは、レイゲンの姓ではなかったか。
冷淡な態度を貫こうとするレイゲンと、真面目な顔つきをしながらちゃらけた言動をするピアースは、似ても似つかない。ふたりの容貌にしても、共通点は見当たらないのだ。
「き、姉弟なんですか!?」
「そんなに目を丸くするほど意外だったかな? まぁ、血は繋がってないから似てないのは当たり前なんだけど。あいつ言葉の選び方下手だけど、仲良くしてやってくれ。君があいつの友達になってくれると、私としてはとても嬉しい。そしてゆくゆくは……ぐへへへ」
何やら意味ありげな笑み。フェイヴァはただ相槌を打つしかなかった。
「は、はあ……」
部屋の扉が完全に開ききった。通路から室内を覗き込んでいる兵士たちは、ピアースとともにやってきた兵士ではなかった。まだ本を探しているのだろう。
「ピアース主任、お時間です」
「ああ。今行く」
それまでのだらしない笑みが嘘のように表情を引き締めたピアースは、背筋を伸ばし兵士たちのもとに歩いて行った。