04.彼女を偲ぶ(1)
朝の三十分にも満たない時間は矢のように過ぎてしまった。教練に向かうレイゲンをフェイヴァは見送る。頑張って、という意味を込めて拳をぐっと握って見せると、彼は肩越しに軽く笑った。レイゲンの柔らかな表情に、フェイヴァは精一杯の微笑みで応える。
扉が閉まる。
遠くなっていく靴音を聞きながら、フェイヴァは椅子に腰かけた。
ひとりになると、急に心細さを感じてしまう。不安で鈍っていく思考の中に、ぼんやりと今日の予定が浮かぶ。そういえば、午後からピアースとの面談が入っていた。フェイヴァの新しい身体に異常がないかどうか見てくれるのだ。
テレサはもういない。フェイヴァとハイネの身体検査をしてくれるのは、今やピアースただひとりなのだ。
(ピアースさん……どうしてるだろう)
この部屋をフェイヴァのために用意してくれたのはピアースだが、人伝に意向を聞いただけで、反帝国組織の本部に来てからというもの会えていなかった。様子を見に行ってくれたルカによると、本格的に天使の揺籃を運用し始めており、その報告と死天使の身体の再利用に忙しいらしい。――テレサが死んで、彼女もきっと大きな衝撃を受けているに違いない。
(ピアースさんだって、きっとお母さんと仲がよかったはずだし……)
母の顔が思い浮かんだ瞬間、目の前がぼやけた。フェイヴァは唇を噛みしめる。流れそうになる涙を堪えるのと、廊下から声が響いてきたのは、ほぼ同時だった。フェイヴァは急いで目尻に浮かんだ涙を拭う。
「入れてくれません? ピアースさんから許可は貰ってるんで」
ハイネの声だ。部屋の外の兵士とやりとりを済ますと、扉が開かれた。
「おはよ。ご飯、少しは食べた?」
ハイネが片手を上げ、快活に尋ねてくる。
「おはよう。ちゃんと食べたよ」
「そう。……それにしてもあんたたち、朝っぱらからふたりで何やってんの?」
にやにやとしながらからかいの言葉をなげられて、フェイヴァはぽかんとする。レイゲンとのことだろうか。別に何も面白いことはしていないのだけど。
「一緒に朝食を食べて、それから」
「うん」
「……今日はね、手を握ってくれたんだよ。それで、千切れちゃった織物をいつかふたりで買いに行こうって言ってくれて」
思い出すだけで顔が熱を持つ。今自分は頬が赤くなってはいないだろうか。
「うんうん。で?」
「え? ……別に、それだけだよ?」
好奇心が抑えられない、という表情をしていたハイネは、一瞬で真顔に戻った。盛大にため息をつく。
「何やってんだかあいつ。こういうときぐらいぎゅっと抱きしめて、寝台に押し倒すくらいできないもんかね。……小さな子の恋愛じゃないんだから」
「……ハイネちゃん、人の恋路に口を出しちゃ駄目だよ」
困ったような声が聞こえて、ハイネはおどけて笑って見せる。彼女の背中に隠れていた人物は、おずおずと前に踏み出した。フェイヴァにぺこりと頭を下げる。
「は、初めまして。アーティです」
名乗ったのは、切り揃えられた前髪と顔の左右で揺れる三つ編みが印象的な少女だった。歳はフェイヴァよりも下だろうか。背が小さく童顔なので、実年齢より幼く見えてしまうかもしれない。
「アーティがどうしてもあんたに挨拶したいって」
「……アーティちゃん。こちらこそ、初めまして」
フェイヴァが名前を呼ぶと、アーティは恥ずかしげにはにかんだ。白い頬がほのかに赤みを帯びる。
彼女に会うのは初めてではなかったが、言葉を交わしたことはなかった。ユニが殺されてしまった、だだっ広いあの平原で。彼女は棺のそばに立ち尽くしていた。
ハイネたちと同じ施設育ちのアーティが、何故あんな場所にいたのか、フェイヴァは知らない。ハイネたちから詳しい事情を聞けていないのだ。すべてが変わってしまったあの日。わからないことが、聞きたいことがたくさんあったはずなのに。あまりにも衝撃的なことが立て続けに起きて、今の今までアーティのことを忘れていた。
以前のアーティは、病弱を絵に描いたように痩せこけていて顔色も悪かった。しかし今その肢体は、年頃の少女らしく丸みを帯びている。反帝国組織に保護されてから、栄養状態が改善したのだろう。
「もう、ひどいよ。わたしのこと、全然紹介してくれないんだもん」
「ごめんね。つい気になっちゃって」
(ハイネが素直に謝ってる……)
意外なこともあるものだ。
むくれたように唇を尖らせるアーティに、ハイネは茶目っ気たっぷりに微笑んで見せる。血縁を感じさせない容姿をしているふたりだが、こうして話していると本物の姉妹のような気安さと信頼関係を感じさせた。ハイネとルカが施設にいた頃に、アーティを妹のように可愛がっていたという話は本当だったのだろう。
(アーティちゃん、元気になってよかった。ハイネ、すごく嬉しそう)
フェイヴァと初めて会ったときのハイネは、まるで手負いの獣のような眼光で睨んできたというのに。優しい表情を向けられるアーティが、少し羨ましく思えてしまう。
「あ、よかったら前に座って」
「ありがとうございます」
フェイヴァは向かいの席を示す。アーティはこくりと頷くと、椅子を引いて座った。
「じゃ、わたしはお茶でも貰ってこようかな」
「ハイネもいていいんだよ?」
「アーティがあんたとふたりだけで話したいんだって。……この子、いろいろあって初対面の人に緊張しちゃうようになったから、それの克服のためにね」
「……もう、ハイネちゃん全部言わないでよ」
「ふふっ。じゃ、また後でね」
手をひらひらさせて、ハイネは部屋を出ていった。高く響く靴音が遠のいて――あとには静寂が残される。
自然と無言の時間が訪れる。申し訳ないと思いつつも、フェイヴァは自分から話しかけることができなかった。母を失い傷ついた心がそうさせるのか、それとも――彼女の口からもたらされる真実を、恐れているのか。
(……きっとアーティちゃんは、ユニが殺された理由を知ってる)
ユニが何かに苦しみ、悩んでいたのは知っていた。けれども、結局その答えは聞けず仕舞いだった。彼女との関係に完全に亀裂が入った、あの冷たい牢獄で。喉から手が出るほど欲しかった答えを、目の前の少女が知っている。それなのに――怖くて問うことができない。
「わたし、ルカ兄とハイネちゃんとは同じ施設で育って……って、この話はルカ兄から聞いたんですよね?」
「う、うん」
話を切り出したのは、アーティだった。ぽつりぽつりと、自身の過去について語ってくれる。
「ふたりが施設からいなくなった後、どう過ごしていたか聞きました。わたし、侵蝕病が悪化してここ数年の記憶がないんです。ずっと寝たきりでした。二人はわたしの治療を条件に帝国の人たちの命令を聞いていたんです。ウルスラグナ訓練校への潜入も、任務の一環だったと聞きました。……ユニさんが死なないように守ることと、レイゲンさんとフェイヴァさんの監視を命じられたって」
レイゲンは反帝国組織の兵士見習いであり、ディーティルド帝国の現兵器開発責任者の実子だ。彼の動向はディーティルドも把握していたに違いない。レイゲンの実力は死天使を遥かに上回る。監視の目を光らせても不思議ではない。
しかしフェイヴァは、自分に監視するほどの価値があるとは思えなかった。考えて、そういえばディーティルドからやってきた魔人のふたりに拐かされたのを思い出した。
妖魔の細胞を手に入れるために訪れた施設の扉を、フェイヴァは偶然にも開くことができたのだった。
結局、何故フェイヴァがあの扉を開くことができたのかわからなかったが――敵の目的は達せられた。ルカとハイネの任務にはきっと、魔人のふたりが接触してきたときに、フェイヴァを拐かしやすいように場を整えておくことも含まれていたのだろう。
「でもあの人たちは、ルカ兄とハイネちゃんとした約束を守るつもりはなくて……」
あの人たち、というと、レイゲンの血縁であるアルバスと、その配下であるメリアとワグテイルのことだろう。彼らはアーティと一緒にカルトス大平原に現れた。
「わたしは魔人の苗床に入れられて……そこで魔獣の血肉を埋め込まれました。そして、器人になったんです」
「……器人」
テレサと同じ。魔人のように地水火風の力を操るのではなく、人の精神を読み取り、その魂を自らの内に宿らせることができる。
「……聞いてもいいかな。どうしてアーティちゃんはあのとき、あんな場所にいたの?」
あえて言葉にせず、言外にほのめかした。アーティが器人なら、フェイヴァの精神を読み取るはずだ。
けれどアーティは首を傾げるだけだった。フェイヴァはアーティと初めて会ったあの大平原を思い浮かべていたのだが、彼女は一向に口を開く様子がない。――まさか、フェイヴァの心が読めないのだろうか。
フェイヴァはアーティの瞳を見つめた。フェイヴァにも、人の記憶を垣間見る能力がある。彼女の琥珀色の虹彩の奥から、何かか浮き上がってくるようだった。
雪のようにかすかに光る銀の髪。澄んだ泉のような色をした瞳。テレサだった。アーティの記憶の中の彼女は、アーティを見下ろして首を横に振る。
『お願いよ。フェイだけには絶対に話さないで』
ふっと目の前の光景がかき消えて、フェイヴァは我に返る。
「……ごめん。わかりにくかったね。アーティちゃんと初めて会ったのは……ユニが殺されたときだったから」
アーティはじっとフェイヴァを見つめていた。何かを言いたげに口を開き、しばらく迷う様子を見せる。
「……わたし、ずっと気になってて」
「うん」
「ユニさんが、フェイヴァさんに誤解されていたら悲しいなって。ユニさんのこと、わたし他人事だと思えないから」
「……どうして?」
「わたしの目の前でユニさん、殺されたんです。そのときにわたし、ユニさんの魂に触れたんです。ユニさんの思い出が……人生が、わたしの中に流れ込んできて」
フェイヴァは器人ではないから、アーティの苦しみをすべてわかってやることはできない。けれど想像はできる。他者の人生が流れ込んでくるとは、一体どんな感覚なんだろう。きっと自分のことのように、その人に感情移入してしまうに違いない。
「ユニさんがフェイヴァさんに辛く当たったのは、フェイヴァさんのことが嫌いだったわけじゃないんです。……誰にも相談できなくて苦しい。気持ちのやり場がどこにもなくて、追い詰められて。……わたし、フェイヴァさんにはユニさんのことを嫌な人として覚えていてほしくなくて」
「……本当? 本当に私のこと、嫌いじゃなかった?」
「嫌いなわけないじゃないですか。大事な友達なんですから」
ユニはフェイヴァの正体を、訓練校の生徒に曝した。そして、確かに言ったのだ。フェイヴァのことが大嫌いだと。あの行動が、言葉が、ただの気の迷いだったならどれだけいいか。アーティの言葉にすがってしまいそうになる。
「……そ、それだけ聞いてほしくて。じゃあわたし、これで」
「えっ」
間抜けな声がもれる。もう部屋を出るつもりなのだろうか。アーティは席を立つと、フェイヴァに背を向ける。
「待って。まだ聞きたいことがあるの。どうしてユニは殺されたの? ユニと……あの赤い女の人は、どんな関係なの?」
アーティの肩がぴくりと震える。足を止めたまま動こうとしない。ややあって、彼女はフェイヴァを振り返った。
今にも泣き出しそうに、顔は悲痛に歪んでいる。
「……ほんとはわたしも、フェイヴァさんに話したいです。けど、テレサさんが」
「お母さんが?」
「わたしに力の使い方を教えてくれたのはテレサさんなんです。いろんなことを話してくれました。そのときに……フェイヴァさんに話さないでほしいことがあるって」
アーティが言葉を継ぐ。
「フェイヴァさんの生前の記憶とユニさんの身に起こったことを知ったら、フェイヴァさんは思い詰める。自分の人生を諦めてしまうからって……」




