03.追思の夢
◇◇◇
『あたし、こんなに綺麗な髪の色だったらよかったのに』
あどけない少女の声。
視界には桃色の花――フェイヴァの花が一面に咲き誇っている。花畑は柔らかな色に埋め尽くされていて、果てがない。地平線の彼方では澄んだ青色と混じりあい、地と空が渾然となっている。
小さな手が茎を摘み、そっと手折る。星型の花びらは風に小さく震えていた。
見たことがない風景。鼻先に触れる甘い香り。優しく吹く風が髪を揺らす。――これがきっと、人で言う“夢”なのだろう。
フェイヴァは瞬き、目の前に被っていた前髪を払った。
見慣れた桃色の髪。
海底から浮上したような感覚――目覚めは、フェイヴァの中から徐々に夢の内容を奪っていく。目を瞬くとともに、色も音も輪郭を失った。
(何かを、見ていたような)
内容を思い出そうとすればするほど、頭の中から夢の残滓が抜け落ちていくように感じられた。手の平の下の敷布を緩く握り、身体を起こす。
知らず、悲哀を帯びた溜息が口から漏れる。
(前までこんなことなかったのに……)
夢という概念は、テレサや友人たちから聞いた知識に他ならない。そもそも死天使は夢を見ない。瞼を閉じて意識を手放せば休眠状態に移行するが、それは眠っているのではなく、動力の消費を一時的に抑えているだけだ。かすかな物音ですぐに覚醒し、瞬時に行動することができる。フェイヴァの場合、ウルスラグナ訓練校に入学したばかりの頃、精神的な不調が積み重なると一時的に完全に意識を失ってしまうことがあったが、現在では回復している。
テレサとの生活の中でも、訓練校で過ごした日々の合間でも、フェイヴァはずっと夢を見ずに過ごしてきた。それが最近――テレサが亡くなってから、朝意識を取り戻すと、何かを見たような、何かを忘れているような、歯がゆい感覚に悩まされるようになった。
(……お母さんが死んじゃってから、寂しくて気持ちが弱ってるのかな)
母と暮らしていた日々が、もう何年も昔のことのように感じられる。どんなに辛く悲しいことがあっても、いつかはあの穏やかな日常に戻るのだと、漠然とそう思っていた。
なのに、失ってしまった。
テレサともう二度と会うことができないという現実は、フェイヴァから気力を奪ってしまっていた。誰かと話しているときはいい。現実を認識しなくてすむから。けれどもひとりでいると、喪失感がじわじわと頭の中に広がって、やがて埋め尽くされる。絶対的な心の支えが失われてしまったという絶望感が、胸を切り裂いていくように感じられた。
「お母さん……」
呟くと、涙がにじむ。いけない。頭を強く振って心細さを忘れようとした。
フェイヴァは寝台の上から扉を見た。外にはフェイヴァの監視を目的として、兵士が控えている。
反帝国組織本部に帰投して七日が経った。テレサに代わり、死天使の管理を任されたピアースは、身体を造り替えたフェイヴァの経過観察と検査、という名目でこの個室をフェイヴァに与えてくれた。それ以来、会議や訓練時以外はこの部屋に隔離されているような状態だ。ピアースとしては、テレサを失ったフェイヴァの精神を労ってのことなのだろう。
この部屋に閉じこもっていれば、兵士たちの冷たい視線を感じることはない。聞えよがしな陰口に心を痛めることもない。けれども、一日の大半をひとりで過ごさなければならないのは寂しかった。外にいる兵士たちが、せめて話しかけてくれないだろうか。なんでもいい。そうすれば少しは気が紛れるのに。
兵士たちの咳払いやかすかに身動ぎする音の中に、はっきりとした靴音が生まれた。段々と大きくなる、靴底が床を叩く音。足音の主は、近づいてくるとフェイヴァがいる部屋の前で立ち止まる。扉の前に立つ兵士たちと二言三言、言葉を交わした。
靴音の重さと声でわかる。夜明けの光が差し込むこの時間に部屋を訪ねてきてくれるのは、彼しかなかった。
「……レイゲン」
フェイヴァはそっと微笑んだ。
「おはよう、フェイ」
部屋に入ってきたレイゲンは、二人分の食事が載った盆を机に置いた。
レイゲンは朝の忙しい時間の一部を使って、フェイヴァとともに朝食をとってくれた。ピアースによって彼はフェイヴァの朝食係に任命されたのだ。フェイヴァに優しくしてくれるピアースのことだ。きっと気を利かせて、レイゲンとの時間を作ってくれたに違いない。
寝台から降りたフェイヴァを見て、レイゲンは困ったように目を逸らす。目覚めて間もないフェイヴァは、身体の線が露わな薄い寝間着を着ていた。
「……少し早かったか」
「ううん。私が起きるのが遅くなっちゃったから。今から着替えるね」
フェイヴァはしゃがむと、寝台の横にある衣装戸棚から衣類を取り出す。ハイネが訓練校から離れる前に、自分のものと一緒にフェイヴァの私服も持ってきてくれたのだった。背嚢の容量の問題ですべては無理だったらしいが、思い入れのあるものだけはこうして手元に残った。本来ならすべて諦めるはずだったから、ハイネには感謝してもしきれない。
「外に出ている」
「ここにいて」
「だが」
「……お願い」
ひとりになりたくなかった。衣服を胸に抱いたままレイゲンを見上げると、彼はややあって頷いた。
「……わかった」
沈黙が生まれる。
レイゲンは気まずげにこちらを向いたままだ。フェイヴァは顔に熱が集まるのを感じた。
「レイゲン、後ろ向いて? 見られるの恥ずかしい……」
「――っ!? ああ、悪い」
彼は今しがた気づいたというように瞠目すると、扉の方を向いた。高くて広い背中。薄群青色の髪の間から覗く耳が、赤くなっている。
フェイヴァは微笑んだ。いつも冷静で動じない印象があるレイゲンが、自分の前でこうやってどこか抜けた一面を見せてくれる。それが嬉しかった。
部屋の隅に置かれている壺から少量の水を掬い、顔を洗う。そうして服を着替えた。
「はい。終わったよ」
声をかけて椅子に座る。レイゲンは遅れて振り向くと、フェイヴァの向かいに腰を下ろした。
豆と茸の汁物。穀物を練り込んだ麺麭を薄く切り、葉野菜と肉を挟んだもの。芋と魚の切り身を油で香ばしく揚げたもの。流石ロートレク国とその同盟国に支援されている反帝国組織だ。搬入される食糧の量も、訓練校とは比較にならない。
食欲はなかったが、レイゲンがせっかく持ってきてくれたのだ。食べないという選択肢はない。フェイヴァは食前の祈りを口にすると、匙を手に取った。
「……いつもありがとう」
「気にするな」
なんでもないことのように、レイゲンは口にする。穏やかな返答に、心苦しくなった。
「朝早くから私のところに来てくれて、城の見回りして訓練して報告書作ったりして……疲れてない?」
「まさか。俺より周りの奴らのほうが五倍は早く疲れ果てる。俺はもっと鍛錬量を増やしてもいいくらいだ」
彼の少し誇らしげな顔がおかしくて、フェイヴァは声を潜めて笑った。もちろん、半妖であるレイゲンが人間と同じ運動量で疲弊するとは思えなかった。フェイヴァが気がかりなのは精神的な疲労についてなのだが、彼の様子を見るに杞憂なようだ。
「……それに、俺が来たいから来ているんだ。お前を放ってはおけないからな」
真剣な顔で見つめてくる。
レイゲンの切れ長の瞳に、自分の驚いた顔が映っていた。フェイヴァは気恥ずかしくなって、太腿の上で組んだ手に目を落とす。
いつも無愛想でぶっきらぼうで。口数が少なくて、心中を窺わせない物言いをする人だった。つい自分の気持ちを口にしてしまったときだって、焦って誤魔化すような人だったのに。
「……レイゲンって、素直になったよね」
頬の熱さを感じながら、フェイヴァは上目遣いにレイゲンを見る。彼は瞬くと、無言で続きを促した。
「前までは自分の気持ちを正直に伝えてくれなかったでしょう?」
匙を置いて、レイゲンはフェイヴァから視線を外した。己の心に問いかけてでもいるのか、ふっと遠い目をする。
「そうだったな。今までは、自分の思いを吐露する必要性を感じなかった。誰とも親しくなるつもりはなかったし、むしろ人との繋がりは自分を弱くするだけだと考えていた。誰にも頼らず、ひとりで生きていくつもりだった」
赤みを帯びた瑠璃の瞳と、ぴたりと目が合う。瞬間、フェイヴァの脳裏に、眼前とは異なる景色が割り込んできた。
槍のように打ちつける雨。曇天を照らす稲光。膝下の地面は大きく抉れている。辺りに飛び散った血は、豪雨に洗い流されていく。
大きく穿たれた地面と手の中のリボンの切れ端を、視線が行き来して。――レイゲンは強く、手の平を握りしめる。
レイゲンの目を通して彼の過去を覗き見るのは、彼が隠しておきたいものを勝手に暴いてしまうようで罪悪感を覚える。この七日間、レイゲンと過ごすうちに、自分が破壊されたあとのレイゲンや友人たちがどんな様子だったのか、フェイヴァは少しずつ情報の欠片を集めていた。
「……もう嫌なんだ。自分に嘘をついて、失ったあとに後悔するのは」
フェイヴァの身体が砕け散ったあと、レイゲンはフェイヴァが身につけていたリボンの切れ端を、まるで形見のように持ち続けていた。
無気力な日々を過ごす中、リボンを眺めては――後悔が澱のように沈殿していく。
『出ていってくれ……!』
『フェイヴァは機械ではありません!』
『……そうか。俺は、ずっと』
彼の悲痛な思いが、怒りが、戸惑いが、フェイヴァの心に深く刻み込まれた。
身の内から沸き上がった感情のように、鮮烈で、生々しい。
こんなに誰かに想ってもらえることが、フェイヴァには信じられなかった。彼の気持ちが嬉しい。泣きたいくらいに嬉しいはずなのに――あまりにも不相応に感じられる。
自分は、これほど想われるに足る存在なのだろうか。
「……レイゲン」
「どうしたんだ? そんな顔をして」
「ううん。なんでもない」
誤魔化すために口許を緩めて、フェイヴァは首を振る。
「ね、それよりリボンの切れ端まだ持ってるよね?」
レイゲンは怪訝な顔をしたが、次には軍服の懐を探った。フェイヴァが人の記憶の一部を覗く力を持つことを、思い出したのだろう。
「これがどうしたんだ?」
大きな手にのった布の切れ端。あんなに美しい水色の光沢を湛えていたのに。今では色褪せて毛羽立っている。
「それ、私にくれない? 髪を結ぶリボンがあるんだけど、それに縫いつけようと思って」
訓練校で使っていた髪をまとめる黒いリボンは、ハイネがフェイヴァの服と一緒に持ってきてくれていた。裁縫はテレサに教えてもらっている。薄い織物を縫うくらいは簡単だろう。
「これを? 洗ってはいるが、ぼろぼろだぞ」
「いいの。お守りみたいなものだから。身につけていると安心できるの。……あなたからもらったものだから、大切にしたい。リボンも、この服も」
フェイヴァは胸に手を当てた。胸元のフリルを彩るのは赤いリボン。淡い水色と桃色で染められた、ふんわりとした生地のワンピース。
生まれて初めて買い物をした都市で、レイゲンがフェイヴァに選んでくれた服。
「フェイ……」
レイゲンは名前を呼び、そうして唇を噛んだ。切なげな、それでいてどこかもどかしげな表情。
腕を伸ばして、彼は手の甲を机上においた。フェイヴァは手の平にのったリボンの切れ端を取ろうとする。
机の中心で、二人の指先が触れる。
わずかに感じた熱を合図にして。どちらともなく、指を絡ませた。
はらりと、切れ端が机に落ちる。
レイゲンが手首を返すと、フェイヴァの小さな手は、難なく彼の手の中に囚われる。指と指を重ね、隙間がないほどぴったりと手の平をあわせた。
手の平から伝わってくるレイゲンの体温が。鼓動の音までもが愛おしい。
(……ずっと、こうしていられたらいいのに)
フェイヴァとレイゲンはしばらくの間、見つめあっていた。言葉はない。フェイヴァが手に少し力を込めると、彼も重ねた手にほんの少しだけ力を込めてくれた。ただ互いの想いを確かめるように、手の平を触れあわせている。
もう二度と、離れることがないように。
「……なあ」
静けさの中。彼が発した声は、心地よくフェイヴァの耳に触れた。レイゲンは考えるふうに机上を見ていたが、ややあって顔を上げた。
「今は自由に都市に行くことができないが、いつかお前の新しいリボンを選びに行こう。……一緒に」
口にしたあとに恥ずかしさが襲ってきたのか、フェイヴァに見られないようにレイゲンは顔を伏せる。
「……うん」
母を失って穴が空いた心に、彼の優しさが染み込んでくる。レイゲンが視線を外してくれていてよかった。目尻ににじんだ涙を、見られたくなかったから。




