35.空に消えた言葉(2)
止まらぬ涙を拭うこともせず、フェイヴァはテレサに縋りついた。
テレサの濃い隈がある目元から、涙が一筋こぼれた。青白い顔が、困ったようにかすかに微笑んでいる。
「フェイはひとりじゃないわ。あなたには、ここまで一緒に歩いてきた仲間がいるじゃない」
弱々しい声ながら、確信を持って呟かれる。
レイゲンたちはフェイヴァにとって特別だった。死天使であるフェイヴァを忌避することなくそばで支え、命の危険も顧みずに力を貸してくれた。愛おしい、かけがえのない人たち。
けれども、彼らとテレサを天秤にかけられるわけがない。テレサはフェイヴァを造り出してくれた。人間らしい生活をさせてくれた。フェイヴァを愛し励まし、崩れそうな自尊心を繋ぎ止めてくれた。
テレサも、フェイヴァにとっては失いたくない唯一の人なのだ。血が繋がっていなくても。人間と、機械の身体でも。彼女はフェイヴァにとって正真正銘の母だ。
言葉にしなくても思いはテレサに伝わる。フェイヴァの声なき声を、母は顔を和めて聞いているようだった。長い睫毛の下――空色の瞳が、フェイヴァを見つめる。
「……もっとレイゲンたちに頼りなさい。ひとりですべてを背負っては駄目よ……」
フェイヴァのしがみつくような思いを、切り捨てる言葉。
「それから……」
消え入りそうな声。瞼が重いとばかりに、緩慢に瞬きをする。母はやがて眠りに落ちるように、全身の力を抜いた。
「お母さん?」
反応はない。
テレサの右手を少し力を込めて握る。
反応はない。
テレサは穏やかに呼吸をしている。疲労によって睡魔に抗えない。そんなふうに見える。気力が回復すれば、目を覚ますのか?
――いや、これは死の眠りだ。このままフェイヴァが声をかけずに見守れば、テレサは二度と目覚めない。
「お母さん! 眠っちゃ駄目!」
叫んで、テレサの肩を揺さぶった。うっすらと開いた瞼。視線が定まっていない。
「人を呼んでくる!」
強く、外套が引かれる。フェイヴァはテレサを見下ろした。テレサはかすかに唇を動かしている。囁きよりも小さな声。
フェイヴァはテレサの口許に、耳を近づける。
「……愛しているわ。世界中の誰よりも」
微笑み。慈しむような声。外套を掴んでいた手が、ぱたりと落ちた。
フェイヴァがはっと目を見開いたときには――感情も声も、テレサの顔からは失われてしまっていた。
「……お母さん? お母さんっ!」
テレサはなんの反応も示さない。先ほどまで言葉を交わしていたのが嘘のように。命が抜け落ちて、後には作り物めいた身体だけが残った。
もう二度と抱きしめてくれない。もう二度と、微笑みかけてはくれない……。
***
澄んだ空に、ふわふわとした雲が散らばっている。涼風が肌を撫でる。柵に囲まれた牧草地で、牛がのんびりと草を食んでいた。
午前中の勉強が終わると、テレサはフェイヴァをよく外に連れ出してくれた。商業区の露店や農地区の家畜たちを眺めた後は、都市の中心に位置する広場で昼食を取る。それはいつしか生活の一部となり、フェイヴァにとっては貴重な息抜きの時間となっていた。
さらさらと、草が揺れる音が心地よく響く。フェイヴァは緩やかな丘の上に寝転がり、流れていく雲を見上げていた。
こうやって平穏な時間を過ごしていると、何もかもが悪い夢だったような気がしてくる。自分が天使の揺籃という化物から生まれたことも。ディーティルド帝国で殺されかけたことも。反帝国組織の兵士たちの、奇異なものを見る眼差しも。
(ずっとこんなふうに生きていければいいのに……)
誰にも傷つけられずに、二人だけで。
フェイヴァの隣に座っていたテレサが、顔を傾けた。フェイヴァの目を見て意思を読み取ったのか、淡い笑みが浮かぶ。
励ましたいという気持ちと、哀れみが混じりあったような、複雑な表情。フェイヴァにはそう見えた。
「ええ、そうね。……だけど、あなたもいつか私の手から離れて、自分の人生を歩んでいく日がくるわ」
平素と変わらない温和な口調。けれどもその不穏な内容に、フェイヴァはがばりと身を起こした。
「やめてよ。そんな話しないで」
たったひとりで知らない場所で生きていく。自分にそんな生活ができるとはフェイヴァには思えなかった。テレサとともにディーティルド帝国から逃れてから、フェイヴァはテレサ以外の人間と碌に口を利いたことがなかった。どうすれば人と仲良くなれるのかわからない。どんな表情で、どんな話をすればいいのかさえわからないのだ。――いや、わかっていたとしても。自分は死天使だ。人ではないと知られれば、誰もが恐れ距離を取るに決まっている。
人ならざる者を見つめる瞳。現実を突きつける言葉。鈍く光る銃口。思い出しただけで震えてくる。
「ごめんなさい、フェイ」
テレサはフェイヴァの手を両手で包み込む。
「あなたにまだこんな話をするべきじゃなかったわね」
「私には無理だよ。きっと誰も私と友達になんてなってくれないよ……」
今はまだ、自分がどうやって生きていくかなんて考えられない。漠然とした未来には、暗澹たる空が広がっている。フェイヴァの行く末を暗示するような暗闇。光の瞬きさえない闇夜だ。
「大丈夫よ」
そっと頭を撫でられる。顔を上げると、テレサは微笑んでいた。表情や声には、陰鬱な想像を跳ね除ける力強さが満ちていた。
「酷い人ばかりではないわ。あなたのことを受け入れてくれる人たちは、必ずいる。だからどうか、人と自分自身に絶望してしまわないで」
フェイヴァにとってそれは、虚しい慰めのように思えた。現実味が感じられない。気持ちの悪い化物から生み出された自分を、一体誰が受け入れてくれるというのだろう。
「私……怖い。どうやって生きていけばいいかなんてわからない」
「それでも……生きて」
残酷なことを言う。
「苦しくて寂しくて……ひとりぼっちで、誰にもわかってもらえなくても?」
「ええ」
「……幸せに、なれなくても?」
所詮は歪な命だ。フェイヴァはもとから自分が幸せになれるとは思っていなかった。しかし、何故だろう。この言葉を口にするには、並々ならぬ勇気が必要だった。
まさか無意識に期待してしまっているのだろうか。自分に、幸福が訪れはしないかと。そんな可能性は万に一つもないというのに。
テレサは眉を寄せた。じっとフェイヴァの顔を覗き込むと、口を開いた。
「せっかくこの世に生まれてきたんだもの。幸せになりたい。人に受け入れられたい。たくさんの人たちに囲まれて、喜びを分かち合いたい」
それはフェイヴァが心の中に押し込めていた、誰にも話せない願いだった。人の手によって生み出された自分が、幸福を望むこと自体、許されないような気がして。本心を押し殺して見ないふりをしていた。
「許されないなんて、そんなことがあるはずがないわ。あなたもこの世界で生きるひとつの命なんだもの。人と同じように幸せになる権利があるのよ」
テレサはフェイヴァの肩を抱き寄せた。優しく背中を叩く。テレサと二人で暮らすようになってから、フェイヴァが不安に苛まれていると、よくこうして抱きしめて落ち着くまで待ってくれた。
「わかってくれないと決めつけて壁を作っては、誰も近づいてはくれないわ。自分から心を開いて。歩み寄って言葉を尽くして、居場所を作るの。幸せになる努力をするのよ。そうしなければ掴み取れない。幸福は、無条件に与えられるものではないから」
フェイヴァは息を潜めて、テレサの話に耳を傾けていた。
そうなのだろうか? 世界には、怖くない人間もいるのだろうか。確かにフェイヴァは母以外の人間を避けて過ごしてきた。まだ誰とも深く関わったことがない。相手を知る前から恐れ、逃げ腰になってしまっている。
「強く生きて。あなたが生き続けることこそが、私の、私たちの……」
***
(お母さんはあのとき、何を言おうとしたんだろう……)
星屑を散らした空に、煙が立ち上っていく。
『お母さん?』
『なんでもないわ。さあ、広場に行きましょう』
テレサは言いかけて止め、あれから結局聞けず終いだった。一年前の言葉の続きは、今彼女の魂とともに空へ昇っていく。
フェイヴァは煙を吐き出している煙突から、視線を下げた。それは屋根つきの煙突を頂点とした、五階建ての塔だった。公共区に位置する火葬塔と呼ばれる施設だ。住人や冒険者などが都市の中で命を落とした場合、遺体はこの塔の最上階にある炉によって荼毘に付される。最上階の窓には東西南北に計五枚のステンドグラスが嵌め込まれており、神話に伝えられる天使が一柱ずつ描かれている。
フェイヴァは庭園の隅から、ぼんやりと塔を見上げていた。フェイヴァのいる場所からは、赤を基調としたステンドグラスが見える。死天使の視覚は、遥か遠く離れたステンドグラスの模様まで仔細に読み取る。赤い髪をなびかせ巨大な翼を広げた天使。剣を掲げた勇ましい表情の、人天使エルティアが描かれていた。
遺体が燃える際に生じる煙は、死者の魂が目に見える形になったものと言われていた。ステンドグラスに神の使いを描くことによって、彷徨える霊魂を天使たちが天界へと誘ってくれると考えられていた。
石畳を踏む音が近づいてくる。振り返ると、レイゲンと反帝国組織の兵士二人が駆け寄ってくるところだった。
テレサが死亡してから、フェイヴァたちは追ってきた四人の兵士たちと合流した。彼らはエフェメラ大聖堂に急ぎ知らせを送ったり、テレサの火葬を手配したりと忙しく駆け回った。火葬塔の使者と話をつけると、兵士二人をフェイヴァの見張り役としてつけ、少し離れた場所でレイゲンから詳細な報告を受けていたのだ。
三人の兵士は固まって、何事かを話していた。けれども視線だけはフェイヴァから外すことはなかった。彼らの不審も露な眼差しにも、話の内容にも、フェイヴァは何も思うことができなかった。フェイヴァは彼らに背を向け、再び白く棚引く煙を見上げた。
「……大丈夫か?」
気遣わしげなレイゲンの声が、フェイヴァの背中にかけられた。
テレサが亡くなった直後にも彼は声をかけてくれたが、気が動転していてフェイヴァはよく覚えていなかった。それからほどなくして兵士たちがやってきたので、レイゲンとは今まで話せなかった。
煤けた煙突から、空に昇っていく煙。かすかに、しかし確かに鼻孔に感じられる、人の肉が焼ける臭い。それらを目の当たりにして、ようやく現状が理解できた。……理解せざるを得なかった。
「……うん。大丈夫」
やっと言葉を絞り出した。心配しないで。そう続けようとしたが、躊躇う。レイゲンと親しげに喋ってはいけない。
背後の兵士たちの表情が気がかりだった。自分が彼らにどう思われようと仕方がないが、自分と話すことで、レイゲンが彼らに悪印象を持たれるのではないかと心配だったのだ。だから振り返って、レイゲンの顔を見られずにいる。
兵士たちにとっては、フェイヴァは人の言葉を喋る奇妙な兵器に過ぎないのだから。
「……私に近づかないで。レイゲンが変なふうに思われちゃうよ」
「知ったことか」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、レイゲンはフェイヴァの前に回り込んできた。彼はフェイヴァより頭一つ分背が高い。遠景にある塔が遮られて、彼に視線を向けるしかなくなる。
目と目が合う。レイゲンは眉を寄せると唇を噛み締めた。まるで悲愴なものを見るような眼差しだ。一歩前に踏み出す――フェイヴァは気づけば、レイゲンの腕の中にすっぽりと収まっていた。
後ろの兵士たちがぎょっとしたように息を飲むのを感じて、フェイヴァは我に返った。レイゲンの腕の中から抜け出そうともがくが、彼はフェイヴァの背に回した腕に力を込めてくる。
「無理をしなくていい」
労りを感じさせる声。レイゲンは愛想がなく口数が少ない。その上話し方も、どこか冷たさを感じさせるものがあった。そんな彼が、精一杯優しい声音になるようにと、気を遣ってくれているのを感じた。
「テレサはお前にとってたったひとりの家族だ。俺も母親を亡くした。家族を失う辛さは……よく、わかる」
記憶に刻まれた痛みが蘇っているのだろう。レイゲンが噛みしめるように呟いた声は、少し震えているように聞こえた。
(レイゲンもお母さんを……)
フェイヴァが感じている空虚な思いを、己の痛みとして受け止め分かち合おうとしてくれているようだった。
「フェイ、泣いていいんだ」
沈痛な声に、いつか聞いた彼の姿が蘇った。母を自ら手にかけ、涙が枯れるまで号泣している小さな少年。
からっぽになった胸の中が、哀傷で満ちて、あふれる。懸命に押し止めようとしていた激情が、堰を切った。
「……わたし……っ」
いつかまた、母と暮らすのだと信じていた。どんなに辛いことがあったとしても、耐え続けていればいつか終わりが来る。どれだけ時間がかかったとしても、いつかは帰れる。母と過ごした平穏な日々が自分のいる場所なのだと。
「……お母さん……! お母さんっ! うわあああああ!」
涙が幾筋も頬を伝っていく。レイゲンの胸にすがりついて、幼子のように声を上げフェイヴァは泣き叫んだ。




