34.空に消えた言葉(1)
***
響き渡る靴音と話し声。それらは長い廊下と三部屋を挟んだこの待合室にまで、かすかに届いていた。
フェイヴァは身を縮こませて椅子に座っている。両手を強く握って、その上に額をつけて目を閉じていた。遠くで交わされる話の内容を聞き取りたかったが、死天使の聴覚はそこまで万能ではないらしい。色の違う数人の声が遠くで反響して、小さく伝わってくるだけだ。
ふわりと。肩に温かさを感じて、フェイヴァは顔を上げる。
隣の椅子に座っていたレイゲンが、背嚢から引っ張り出した外套を肩にかけてくれたのだ。
「寒いだろ。これでも着てろ」
働きの鈍い頭が、遅れて彼の言葉を理解する。フェイヴァが身につけているのは薄いワンピースのみだ。夜が更け、呼気が白く色を変えている。レイゲンはフェイヴァが寒さに震えているように見えたのだろう。
レイゲンの心配は無意味だ。体温を適切に維持するのは、死天使の機能の一つらしい。だからフェイヴァは今まで極端な暑さや寒さを体感したことがなかった。身につけている服が厚かろうが薄かろうが、活動に支障はない。
けれども、それをレイゲンに説明するだけの心の余裕が、今のフェイヴァにはない。
「……ありがとう」
まとまらない思考のままに礼を言う。
幅のある机と四脚の椅子しかない部屋の中。準士が置いていった燭台の上で、蝋燭の火が弱々しく燃えている。
***
フェイヴァとレイゲンが再会を喜んだのも束の間、扉を抉じ開けてハイネが飛び込んできた。
テレサが気を失い、呼びかけにも応じないと。
フェイヴァたちはすぐに部屋を出て、テレサのもとに駆けつけた。その痛ましい身体にフェイヴァは言葉を失った。テレサの左腕が、肩から消失していたのだ。
取り返しのつかない姿を見て、フェイヴァは直感的に理解できた。フェイヴァの身体を再造するために、テレサは自身の腕を犠牲にしたのだ。
顔色は悪く、腕を切断したことにより多量に出血している。覚醒者が【水】の力で治療に当たったが、一向に目覚める気配はなかった。このままでは最悪な事態に陥るかもしれない。反帝国組織の三騎士――フォリッドという名前らしい――の決断は速かった。テレサを傍近の都市の治療院に移送することにしたのだ。
移送役を買って出たのはレイゲンだった。テレサを翼竜に乗せては、激しい振動で身体に障る。自力で飛行できる彼が運べば振動の影響も軽微で済むだろう。
レイゲンの提案をフォリッドは聞き入れた。レイゲンと三騎士直属の兵士四人でテレサを移送する――と決まりかけたところに、フェイヴァが割って入った。
遠く離れた場所で、母の容態に思いを巡らせるのは耐えられなかった。そんな状況を想像しただけで焦燥感に焼き焦がされそうだ。
フェイヴァは自分も連れて行ってほしいと、一生懸命に頭を下げた。上体を折った瞬間に見えた、兵士たちの怪訝に満ちた目つき。重い沈黙。
それを破ったのはレイゲンたちだった。レイゲンはフェイヴァの隣で頭を下げ、フェイヴァの同行を許可してほしい頼んでくれた。ハイネとルカも頷きあうと、レイゲンに倣った。リヴェンは彼らしく頭を垂れることはなかったが、兵士たちに向けられた瞳には鋭さが宿っていた。
フォリッドは苦渋の表情になると、渋々了承した。
エフェメラ大聖堂から最も近い都市、サッドへ。テレサを横抱きにしたレイゲンとフェイヴァが先行し、フォリッドにフェイヴァの監視を任された四人の兵士が後続することになった。
傍近の都市、と言っても翼竜で一日と半日はかかる距離だ。しかしレイゲンとフェイヴァならば一日で着くことができる。深夜だったことが幸いし、空を翔るフェイヴァたちが住民に目撃されることはなかった。サッドの公共区にある治療院にテレサを運び込み――そうして今に至る。
治療師と準士たちがテレサを治療院の奥に運んでから、もう三時間が経過していた。
静寂に満たされた部屋で、フェイヴァはこれまでの顛末をレイゲンから聞いていた。
身体が破壊されたフェイヴァは、テレサの力によって辛うじて命を取り留めた。彼女の提案でエフェメラ大聖堂に向かい、魔人たちと戦闘を繰り広げ、天使の揺籃によってフェイヴァの身体は再構築されたのだ。
テレサが人の心を受け入れて生かすことができる器人だったことには耳を疑った。しかし、驚くべき話はそればかりではなかった。そもそもフェイヴァは人間だった頃の記憶を喪失しているわけではなく、もとからそんなものは存在していない。フェイヴァという人格は、記憶を失う前の人格と連続しているわけではない。もともとの人格の犠牲の上に新しく生まれたものだということ――。
(……でも今は、そんなこととても考えられない)
テレサが快方に向かうかどうか。フェイヴァにとってはそれが何よりも重要だった。自己についての不安や疑問は、母が回復してから尋ねればいい。
「ねえ、レイゲン。お母さんは、私の身体を造るために腕を失ったから……だから、こんなことになったの?」
実際、フェイヴァにはそうとしか思えなかった。腕を失った際の大量出血が、テレサの体力を著しく損ねる決定打になったに違いないのだ。
「わからない。……思い返してみると、あいつは大聖堂に来てから体調が優れないようだった」
レイゲンが人を励ますために嘘をつくとは思えない。
「誰が強制したわけでもない。あいつはお前を救うために、進んで行動した。お前の身体の一部となって生き続けることができる。母親として、これほど幸せなことはないと」
「……そんな」
フェイヴァはレイゲンの横顔に視線を投げた。彼の赤みがかった瞳を通して、記憶の欠片が浮かび上がってくる。
レイゲンの言う通りだった。自分で腕を斬り落とし、激痛に苛まれているだろうに。彼の記憶の中のテレサは微笑んでいた。後悔や悲しみは微塵も感じられない。満ち足りた表情。
こんなにも見つめていることが辛いと思った表情は、他になかった。金属に包まれた心が確かに軋んで、痛みとともに我に返る。
「お母さん……」
テレサは己の腕を犠牲にしたときから、こうなることがわかっていたのだろうか。
――廊下を歩く、乾いた靴音。
フェイヴァは腰を浮かし出入り口を見た。入室してきたのは治療師だった。神妙な顔つきは心情を窺わせない。
「テレサさんが意識を取り戻されました」
丈の長い白衣を身に着けた中年の男は、マスクを外すと平板な声音で言った。
フェイヴァは胸を撫で下ろす。
「しかし、衰弱が激しく治療も意味を成しません。水医の力も効果が見られない。彼女はもう立ち上がることができません。……酷なことを言いますが、覚悟をされてください」
安堵で力が抜けていた身体が、崩れていくような感覚がした。
目の前のこの人は一体何を言っているのだろう。表情が乏しい顔で、なんて恐ろしいことを口にするのか。
「フェイ」
足から力が抜けて倒れそうになったところを、レイゲンに抱き留められた。フェイヴァははっと瞬く。彼に支えられ治療師に向き直った。
「テレサさんがどうしてもあなたと話がしたいと。私は外にいますので、準備ができたら出てきてください。病室に案内します」
治療師は足早に部屋から出ていった。扉が開閉する音が、夜の静けさの中に一際大きく響き渡る。
テレサの生命の灯火が消えようとしている。治療に当たった人間の話を聞いても、実感が湧かなかった。
テレサと離れ離れになって一年ほどが経過していた。こうしてやっと再会できたというのに。直接顔を合わせて目を見て、話したいことがたくさんあるのだ。それなのに。
どんな顔をして言葉を発すればいいかわからない。動揺する心のままに、レイゲンを見上げた。
「私、行ってくる。レイゲンはここで待っていて」
「しかし、フェイ」
「お願い。お母さんと二人きりで話がしたいの」
長い廊下を進んだ先に、テレサが待つ病室があった。治療師が扉を開けると、処置に当たっていた三人の準士が顔を上げる。各々道具を片づけると、手押し車にそれを載せてフェイヴァの横を通り過ぎた。
「我々は廊下で待機しています。何かあったらすぐに声をかけてください」
「はい」
治療師たちはフェイヴァに一礼すると退室した。
テレサが横になっている寝台。その隣には小さな机と椅子があり、簡素な造りの燭台が置かれていた。蝋燭がちりちりと音を立てる。火は一息で消えてしまいそうだ。
儚げなその灯火に、テレサの顔が照らされている。彼女は裾の長い服に着替えさせられていた。顔は死人のように青ざめ、目の下の隈も色の悪い唇も、ここに運び込んだときとまったく変わっていない。
病室の扉の前で、フェイヴァは立ち竦んでしまった。痛々しい母の姿が、フェイヴァに想像もしたくない未来を予見させるのだ。受け入れたくない。けれども、心の隅で諦観を抱いてしまっているのも、また事実だった。二つの相反する声が聞こえ、その場から動くことができない。
「……フェイ?」
寝台の中でテレサが身を起こそうとした。しかし、片腕のために自力で身体を支えることができない。フェイヴァは急いでテレサに近寄ると、彼女を介助した。
伸ばした手が左肩に触れる。中身のない袖が、だらりと垂れ下がっている。
「ありがとう」
一年前と同じ柔らかく温かな声は、力を失っているようにか細かった。
フェイヴァはテレサの肩を支えたまま、首を横に振った。
「お母さんは私を助けるために腕をなくしたから……だから、こんなことになったの? 私のせいで……! ごめんなさい……ごめんなさい!」
ただ、みんなを殺させないために必死でディヴィアに立ち向かった。自分が壊れた後、テレサがどんな行動を起こすかなんて頭の片隅にもなかったのだ。
まさか、自分の腕を失ってまで血の繋がらない娘を救おうとしてくれるなんて。母がこんなに自分を大切に思ってくれていたなんて。
「自分を責めないで。寧ろ私は、みんなを守るために逃げずに戦ったあなたの勇気を、誇りに思うわ」
フェイヴァの手に己の手を重ねて、テレサは微笑んだ。
「腕を失おうと失いまいと、こうなることは早くからわかっていたのよ。私は、力を使いすぎてしまった。この光輝の力は、使用者の体力と精神力を著しく消耗させる。二年前、ディーティルド帝国からあなたを連れて逃げたとき。そして、エフェメラ大聖堂での魔人との戦い。それらが積み重なった結果よ」
結局は、自分のために力を使い果たしたことには違いないのだ。フェイヴァは唇を噛んだ。
テレサはどんなときでも娘を庇う。けれど、今はその優しさが却って辛かった。
「フェイのせいじゃないわ。私が望んでやったことよ。誰にも強いられていない。どんなことをしても、あなたを生かしたかった。限られた時間だったとしても……そばにいたかった。
あなたの生きる姿を見守ることができて、私は誰よりも幸せよ」
晴れやかな空のような。見る者を励ます笑顔。実際、彼女はそうやってフェイヴァを元気づけようとしたのだろう。フェイヴァの痛心を少しでも和らげるために。
(……幸せ、だなんて)
テレサの純粋な思いが伝わってくる。神に尽くす信徒がごとくなその姿勢に、胸が潰れそうになった。
テレサの人生は畢竟、フェイヴァのためだけに存在したのだ。たったひとりの、血の繋がらない人間ですらない者のために、何度も傷つけられ痛みに耐え、片腕を擲ち……こうして自分の命さえ燃やし尽くそうとしている。
これが幸福な人生と言えるのだろうか。
何故テレサは己の幸せを追求しなかったのだろう。彼女は聡い。それに生活に困らぬほどの資金も所持していた。幸福になれる道は、いくらでもあったはずだ。
誰かを愛し家庭を築く。自分の血を分けた温かな子とともに生きる。そんな幸多き人生を、掴むことができたはずなのだ。
「どうして、自分の幸せを追い求めなかったの? そうすればこんなに辛い目に遭わずに済んだのに……」
「私のことを哀れんでいるのね」
「うん。……お母さんの人生を考えると……悲しいよ」
「少し傷つくわ。私は、私に用意された選択肢の中から、最善を選んできたつもりよ」
色を失って乾いた唇から、掠れた笑い声が漏れる。
ふと、テレサの身体が前に傾いだ。瞼を強く閉じて、何かを耐えているように見える。
身体が辛いのだろう。廊下にいる治療師を。背後の扉に顔を向けたフェイヴァだったが、外套がぐいと引かれた。
「……少し疲れただけよ。横になれば大丈夫だから」
言われるままに、フェイヴァはテレサをゆっくりと寝台に横たえた。厚手の毛布を肩まで被せる。自身は寝台の隣にあった椅子に腰かけた。
「二年前に……初めて暮らすことになった家で、あなたは私に同じことを聞いたわね。私の答えは、あの頃と変わっていないわ」
吐き出された息が震えている。
「私だけが幸せになったとしても、それは真の意味で幸福とは呼べないの。あなたに、人間としての生を送ってほしい……。幸せになってほしい。私もみんなも、ずっとそれを望んで生きてきたのだから」
テレサは時折つっかえながら言葉を紡いだ。
“みんな”とは、おそらくテレサが受け継いだ知識の保持者たちのことだろう。レイゲンから話は聞いていた。彼はテレサとマーシャリアの会話の内容を耳にしていたのだ。
テロメアと呼称される女性は、代替わりしている。今はテレサがテロメアとしての名と、知識を継承しているのだ。
自分自身についてもテレサについてもわからないことばかりだった。けれども、こんなにも弱りきった彼女に尋ねられるはずがない。
今は何よりもテレサに生きていてほしい……。
「これからは、私の古くからの友人が……あなたを見守ってくれるわ」
だからこそ、彼女が己の運命を受け入れたような発言をした瞬間、フェイヴァは堪えられなかった。
「そんな人知らないっ! 私は、お母さんにそばにいてほしい! 前に聞いたよね? また一緒に暮らせるよねって。お母さん頷いてくれたじゃない!」
一緒に生きていきたい。失うなんて耐えられない。
「いかないで、お母さん。私をおいていかないでよ!」
テレサがいなくなれば、自分はこの世界でひとりぼっちになってしまう。




