33.やがて響きあうもの
◇◇◇
暗闇に射す、緋色の光。
瞬き、目に映るものが鮮明になるにつれ、それが小さな灯火だということがわかった。柱に取りつけられた燭台で燃える、蝋燭の明かり。火はかすかに揺れながら、広大な室内に温かな光を投げかけていた。
フェイヴァはしっかりと瞼を開けた。目の前の光景に理解が追いつかない。ここはどこなんだろう。どうしてこんな場所にいるのだろう。
漆黒の槍が胸を貫き身体を砕いていく。衝撃と激痛が意識を揺さぶって……そうして、途切れた。自分は確かに破壊された。生きていられるはずがないのに。
「フェイヴァ……!」
震える声で名前を呼ばれる。そこでやっと気がついた。自分の上体が、誰かに抱き起こされているということを。
「レイゲン……さん」
彼は相槌を打つ。揺れる青藍色の髪。赤みがかった切れ長の瞳に均整のとれた顔立ち。柳眉が寄せられ、今にも泣き出しそうな表情をつくるが、唇を引き結んで耐えた。
「私は……どうして」
茫然となる。そんなフェイヴァを脅かすように、音がした。耳馴染みのある、しかし二度と聞きたくないと思っていた音。それはフェイヴァが目覚めたときに初めて見た、おぞましい生き物を連想させる。
レイゲンの肩越しに目をやる。そうして、すべてを理解した。
彼の腕から抜け出すと、踵を後ろに下げた。距離を取って、部屋の最奥――その生物の近くに寄る。
「フェイヴァ?」
「……どうしてこんなことしたの?」
レイゲンは戸惑いの声を上げ近づいてこようとしたが、フェイヴァの言葉に足を止めた。
「私の身体が造られていくところ、見たんだよね?」
「違う、俺は見ていない。テレサがすべてやってくれたんだ」
レイゲンの弁明に、首を横に振る。
「同じことだよ……」
フェイヴァは真横に鎮座する生物を指した。天使の揺籃。
金属と人の身体を取り込み、人に酷似した紛いものを生み出す。それだけのために生き続ける、醜悪な存在。
「ねえ、見て。この化物を目を逸らさずに、ちゃんと見てよ」
どことなく蛙を思わせる顔には、血の色に塗りつぶされた目と鋭い歯が生えた口がある。耳も鼻もなく、下半身も存在しない。頭と二本の腕だけが、それを辛うじて生物らしい形に見せている。腹には紛いものを造るための透明な球体が埋め込まれている。内部には青い液体が満ち、細い血管状の器官が這い回っていた。
正真正銘の化物だ。
「私、こんなものの中から生まれてくるんだよ。……気持ち悪いよね」
嘲笑しようとしたが、できなかった。この身体は、今度は誰を犠牲にして造られたのだろうか。死天使を造るには、生体死体を問わず、人の身体を使うのだとテレサが言っていた。
犠牲になった人のことを考えると、とても両手を上げて喜ぶ気にはなれない。身体の一部を使ったとしても同じことだ。その人のこれからの人生を思うと、あまりに心苦しい。
誰かを犠牲にしなければならないのなら、生まれてくるべきではないのだ。
(みんなと過ごしていると、人に近づけたような気がした。自分が機械だってこと、忘れていられた。……でも、もう逃げられない)
そんなものは幻想で、逃避でしかない。
今、眼前で息づいている化物が、どうしようもなく現実を突きつける。
自分は、人間ではないのだ。どんなに近づきたいと願っても、隣に立ちたいと思っても、愛しい彼らとは隔たった場所にいる。生きている限りそこから動けず、ひとりで鬱屈しているしかないのだと。
「あなたには……あなただけには、見てほしくなかったのに……!」
瞳から凍えた涙が流れる。こんな顔を見られたくない。けれどレイゲンに背を見せる勇気もなかった。だから俯いて顔を覆う。
天使の揺籃は、フェイヴァにとって心の奥底に閉じ込めておきたい暗部だった。忘れてしまいたい。なかったことにしたい。触れれば傷がつき血が流れる、刺のようなもの。
ハイネはフェイヴァと同じく、天使の揺籃を使って生み出されている。ルカもリヴェンも、種類は違うが似たような聖王暦の遺物を経て、魔人化しているのだ。三人はきっと天使の揺籃を見ても、フェイヴァを受け入れてくれるだろう。
けれど、レイゲンは違う。彼はもともとディーティルド帝国とは関係のない、普通の人間だったのだ。彼が天使の揺籃を見てどう思うか……それが、怖かった。彼がそれに対して抱く感情は、そのままフェイヴァに対する感情に直結するだろう。
言葉にできずに胸のうちに秘めていたこの想いは、完全に終わってしまったのだ。
指の間からこぼれた涙が、足下に落ちていく。堪えようとしても漏れてしまう、自分が嗚咽する声。天使の揺籃の腹部に充填された液体に、気泡が生まれ、浮き上がる音。それに、重い靴音が重なる。
そのまま踵を返して部屋から出ていってほしい。ひとりになりたい。
願い虚しく、レイゲンは一歩一歩床を踏みしめて近づいてくる。そうして、フェイヴァの目の前で立ち止まった。
「フェイヴァ、聞いてくれ」
優しく呼びかけられる。涙を拭う手に触れられ、そっと下ろされた。顔をすぐにでも隠したかったが、レイゲンの手と真剣な眼差しがそれをさせてくれない。
「俺はお前がいなくなってからずっと……苦しかった。もう二度と会えないと考えただけで、どうしようもなく怖かったんだ。
だから、ここにきた。お前ともう一度会うために。どんな敵が立ち塞がろうとも、諦めるつもりはなかった」
レイゲンの軍服から覗く首や腕には、一部血痕がついていた。身近にいるからこそわかる。毛先は焦げているし、焼けた臭いがうっすらと漂っている。
間違いない。軍服こそ真新しいが、彼は戦ったのだ。……他の誰でもない。フェイヴァを取り戻すために。
「お前がこの部屋で横になっているのを見たとき……お前が死天使だとか、そんなこと頭の片隅にもなかった。ただ、嬉しかったんだ。お前の顔が見られて、救えて、心の底から安心した。今更こんなものを見たくらいで、気持ちが揺らいだりするか!」
フェイヴァは思わず目を見開いていた。瞬きと同時に、雫が目尻から転がり落ちる。
フェイヴァの不安をレイゲンは一蹴した。そればかりか、思いを言葉にすることが少ない彼が、まっすぐにひたむきに、声に出して伝えてくれた。
「……好きなんだ」
レイゲンは絞り出すように、そう、呟いた。
「俺はずっと、お前のことが好きだったんだ」
彼の言葉が耳に入った瞬間、呼吸を忘れそうになった。純粋な驚愕に――困惑と躊躇いが生じる。
信じられない。夢のようだ。レイゲンがまさか、自分を好いてくれていたなんて。
だからこそ恐ろしい。
妖魔の力を宿しているとはいえ、彼はれっきとした人間だ。機械である自分とは生きる世界が違いすぎる。
確かにハイネは言っていた。もともとはフェイヴァも人間だったのだと。ハイネがそうであるように、フェイヴァも身体を機械に造り替えられただけで、人間であることは間違いないのだと。
それでも信じられない。ハイネと違い、フェイヴァには人間だった頃の記憶がないのだ。自分が人間であるという確信が持てない。自信などというものには穴が開いて、底が抜けている。
レイゲンに想いを寄せていた、ユニの顔が浮かぶ。彼女は殺されてしまった。なのに、自分が彼の告白に頷いてしまってもいいのだろうか。そんなことが許されるのだろうか。
いくら言い訳を重ねても、気づいてしまった思いに蓋をすることはできなかった。誰にも話さず我慢して、諦めようとしたその気持ちは、あまりに強すぎた。もう、見て見ぬ振りができないほどに、膨れ上がっているというのに。
「機械でも、いいの……?」
こんな自分に、人に愛してもらえる資格があるのだろうか。
「機械でもいい。だから、そばにいてくれ」
レイゲンの気持ちに応えたい。言葉にできなくて苦しかった、もどかしいこの思いを、ちゃんと声に出して彼に伝えたい。
「……私も、レイゲンのことが好き……!」
震える声で、そう告げた。言い切った途端に、今まで堪えていたものがどっとあふれて、視界が滲んだ。
レイゲンは己の聞いた言葉が信じられない、というように瞠目したが――次には目を細め、唇がゆっくりと弧を描いた。
レイゲンに掴まれていた手が引かれる。フェイヴァの身体が前に傾いで、彼の腕が背中に回された。ぎゅっと、強く抱きしめられる。
「フェイ……!」
感に堪えないといった声で、レイゲンが名前を呼ぶ。
「レイゲン。好きだよ、大好き……!」
涙がとめどなく頬を流れる。
間近でレイゲンの心臓の鼓動を聞き、その温かさに包まれながら、フェイヴァは彼の胸に頬を寄せた。




