32.生まれ 育み
◆◆◆
夜の帳が空を覆う。兵士たちが手分けをして、大聖堂の燭台に火を灯していく。
ここ地下にも、二人の兵士がやってきて、古ぼけた燭台に明かりをつけていった。レイゲンは気もそぞろに敬礼し、二人を見送る。
地下には、天使の揺籃が安置された部屋の前に立つ兵士二人と、レイゲンとルカ、リヴェンがいた。ハイネはこの時間、大聖堂の警備に割り当てられており、もうそろそろ他の兵士と交代し、ここに来るはずだった。
レイゲンは壁に背を預けたまま、扉の方にちらちらと視線を送っていた。見続けてどうなるものでもないが、気づけばつい顔を向けてしまう。テレサは今どうしているのだろうか。部屋の中の音を拾おうと、聴覚が鋭敏になっているのを感じる。
テレサがフェイヴァの身体の構築に入ってから、すでに七時間が経とうとしていた。部屋の中からは何も聞こえてこない。分厚い石の壁に遮られているのか、レイゲンの聴力をもってしても、明確な音を聞き取ることができなかった。
(遅すぎる。何かあったのか? まさか失敗……いや)
悪い想像だけが際限なく膨らんで、胸が潰れる思いがした。
ハイネに、死天使の構築に必要な時間を尋ねておくべきだった。彼女とはテレサが部屋に入ってから、すぐに別れた。正反対の位置の警備が担当だったため、言葉を交わすことができなかったのだ。
あの時点では思いもよらなかった。待つ、という行為が、こんなにも苦痛を伴うものだとは。てっきり見張りが終わる頃にはすべてが完了し、テレサとフェイヴァは部屋からでていると思っていたのだが。
立ち止まっていては、良からぬ考えしか浮かんでこない。かといって、無理矢理部屋の中に入るわけにもいかない。緊張と不安がいや増し、レイゲンはその場を歩き回った。壁際を行ったり来たりする。
床に座っていた二人が顔を上げた。ルカは苦笑いを浮かべ、リヴェンは舌打ちする。
「バタバタうるせぇんだよ! 図体がでけぇから無駄に足音が響いて耳障りで仕方ねぇ。静かに待つこともできねーのか!?」
「お前も声がでけーぞ。子供みたいに喚くなって。レイゲンは俺たちより二時間くらい長くここで待ってるんだからな。不安に思うのも無理ねーよ」
ルカに諭されて、リヴェンの不機嫌さにますます磨きがかかる。ルカは床に置いていた背嚢から携行食料を取り出すと、ほらよとレイゲンに投げた。
「お前、ここに来てから碌に物食ってねーだろ。これでも腹に入れとけ。少しは落ち着くだろ」
そういえばそうだった。忘れていた、というのもあるが、この大聖堂に踏み込んでから常に懸念がつきまとっていて、とても何かを食べられる気分ではなかった。戦いが終わったあとも、予備の軍服に着替えてから早々に警備に立ったのだ。
「ルカ……。ああ、悪いな」
レイゲンは床に腰を落とすと、食料の包み紙を剥がした。穀物を練り込んで焼き、乾燥させたパンだ。味は可もなく不可もなく、口の中の水分を全部持っていかれるほどにぼそぼそしている。
階上から駆け降りてくる靴音があった。軍服の長い裾をはためかせながら、ハイネが暗がりから姿を現す。虫襖色の瞳がレイゲンたちを見、次いでその後方にある扉に向けられる。
「……まだ出てきてないの」
「ああ。もう六、七時間は経ってるんじゃないか?」
答えたのはルカだ。彼の横に立って、ハイネは自身の顎に指を当てる。
「おかしい……。もうとっくに終わってるはずなんだけど」
ハイネの視線を追い、レイゲンは扉に目を向けた。――と、そのとき、扉がひとりでに動いた。
四人は一斉に駆け寄る。
自分で扉を開けたのだろう。顔を出したテレサは、扉を完全に開こうとした兵士を留めた。彼女の右肩と顔だけが隙間から覗いている。
「ごめんなさい。服を着せるのに時間がかかってしまって。……成功したわ」
四人に順に視線を投げて、テレサは微笑んだ。
自然と漏れた深い吐息は、強い安堵の念を明瞭に表していた。声にならないほどの歓喜に、レイゲンの胸が高鳴る。
「行こう」
気負い立ちつつ三人を振り返る。ハイネはルカと顔を見合わせていた。視線で意思の疎通をするように、ルカがひとつ頷く。
「……あー、俺はいいわ。ここで待ってる。これからはいつでも会えるんだしな」
「……何痛ってぇッ⁉」
怪訝な顔をしたリヴェンの耳を引っ張り、ルカは後ろに下がった。こちらに聞こえないようにだろう。声を潜めて何かを喋っている。
(なんなんだ、一体……)
隠し立てされているようでいい気はしない。
ハイネもハイネで、何かを面白がるようににやにやしている。
「わたしたちは、ここであんたらを待ってる。……フェイヴァに言いたいこと、あるんでしょ?」
(こいつら……)
言外にほのめかされ、レイゲンは胸の内で頭を抱えた。つまり……そういうことだ。しかし、ここで肯定すれば自分の気持ちを告白するのと同義だ。今まで誰にも話したことがない想いを、彼女らの前で声に出して認めるのは抵抗があった。
「……いや、俺はあいつを仲間として」
「はっあぁぁぁぁぁ!?」
ハイネが目をカッと剥いた。今までこんなにも呆れと怒りの入り混じった声を、誰かにぶつけられたことがあっただろうか。
「あんたね、ここまできて何情けないこと言ってんの!? 恥ずかしがってんのか、かっこつけてんのか知らないけどさぁ……あんたがフェイヴァをどう思ってるのか、わたしたちが気づいてないとでも⁉」
「うっそだろお前⁉ あれで隠してるつもりだったのかよ⁉ もっと隠す努力しろよ!」
「ガキでも察するぞ」
(なん……だと……?)
衝撃に言葉も出ないとはこのことだろう。一体いつから気づかれていたのだろうか。思い返すだけで羞恥心が湧き上がる。
(俺、そんなにわかりやすかったのか?)
「そういうことだから。ほら、根性見せて。もしあんたが流されて行動を起こさなかったら、厩舎に引きずっていって牛に頭を踏んづけてもらうからね」
「ま、気張らずにいけよ。フェイヴァだってお前の顔見たら安心するだろ」
「せいぜい頑張れや、レイゲン」
三人の励まし――一人は脅迫だが――を受けて、レイゲンはふと目線を下げた。リヴェンが自分の名前を呼んだ。どういう風の吹き回しだろうか。
「リヴェン、ついに人の名前を覚えられたのか。よかったな」
「うるせーっ! こんなときにつまんねぇボケをかましてくるんじゃねえよ!」
大口を開けてがなり散らすリヴェンに、ルカとハイネが声を上げて笑った。レイゲンも口元に微笑が浮かぶ。
三人の顔を見渡して、レイゲンはしっかりと頷いた。
(……ありがとう、みんな)
四人の様子を見守っていたのだろう。テレサは穏やかな表情をすると、部屋の中に身を引いた。
レイゲンはそのあとを追い、扉を通る。
円形の柱が立ち並び、備えつけられた燭台の上で火が静かに揺れている。部屋の最奥には、頭頂が天井につくほどに巨大な物体が鎮座している。生物なのか機械なのか判然としないその異様な存在も、今はどうでもよかった。
フェイヴァがいる。白い袖のないワンピースに身を包んだ彼女は、床に仰向けになっており、胸がかすかに上下しているのが見て取れる。
「あと数分で目を覚ますはずよ」
(フェイヴァ……!)
駆け寄ろうとして気がついた。床に点々と落ちている赤い液体。それはときおり線を描きながら、前方に立つテレサに続いている。
こちらに背を向けるテレサの――左腕がない。
彼女の足下には血飛沫が広がっており、赤く濡れた大剣が床に転がっている。まさか、自分で斬り落としたのだろうか。
「お前、何を……⁉」
「死天使を造るには、人間の身体の一部が必要なのよ。他の人間を使うわけにはいかないでしょう? こうするのが一番いいの」
「なんてことを……。他に方法はなかったのか⁉」
テレサが言うのだから、他に選択肢はなかったのだろう。理屈としては理解できるが、感情としては受け入れられない。
自分の母親が、自分を蘇らせるために腕を失ったと知ったら。フェイヴァはどんなに悲しむだろう。
「何も犠牲にせず済む方法があれば、私もそれを選択したわ。けれど、そんな都合のいいものはないのよ。
人が子を産み、命を次代に繋いでいくように……私はフェイの身体の一部となって生き続けることができる。母親として、これほど幸せなことはないわ」
テレサは頬を緩めた。その表情を見れば、彼女が自分の選択を欠片も後悔していないことが読み取れる。
ならば、自分に言えることは何もない。
「……わかった。外に出て早く手当をしてもらえ。傷は完全に塞がってはいないのだろう。血を流しすぎて倒れられては困るからな」
「そうさせてもらうわ」
片腕では不便だろう。付き添おうとしたレイゲンだったが、テレサは首を横に振った。
「大丈夫よ。ひとりで歩いていけるわ。あなたはフェイに顔を見せてあげて」
まるで微笑ましい場面を目撃したような、そんな優しい眼差しをテレサに向けられる。レイゲンの思考は彼女に筒抜けなのだ。フェイヴァに伝えたい何もかもを、彼女は見通しているに違いない。きまりの悪さを覚える。
テレサは銀髪をなびかせながら去っていった。彼女の腕を認識したのだろう。兵士らのどよめく声が耳に入る。やがて背後で、重々しい音とともに扉が閉められた。
レイゲンは部屋の奥へと歩を進める。段々と歩速が上がり、自然と駆け足に変わっていた。二十メートルほどの距離を一息に駆け抜け、フェイヴァの前で足を止める。
彼女は穏やかに眠っている。身体が跡形もなくなったことが、まるで嘘のように。生きていた頃と寸分違わぬ姿でそこにあった。
片膝をつき、フェイヴァの上半身を抱き起こす。目覚めが近いからだろうか。頬や小さな唇は血色がよく、ほんのりと薔薇色に染まっている。華奢な肩やほっそりとした手足は、力を込めれば壊れてしまいそうなほどに頼りない。目元にかかっていた桃色の前髪がさらりと流れて、長い睫毛が露わになる。
(フェイヴァ……。よかった)
もう二度と会えないかもしれないと、絶望さえした。そのフェイヴァが今、こうして腕の中にいる。こんなにも近くで顔を見て、触れることができる。それがとてつもなく……嬉しい。視界がぼやけて、レイゲンは頭を振る。母を手にかけてからこれまで、自分は憎しみや怒りでしか大きく心を動かされなかった。――なのに。
温かく柔らかな日差しに照らされているような、そんな心地だった。
早く言葉を交わしたい。くるくる変わる表情が見たい。
「なあ……覚えてるか。初めてお前と会ったときのこと」
思わず話しかける調子になる。声を聞いて、すぐにでも目覚めてくれないだろうか。
「俺はお前に、酷いことをたくさん言ったな。あのあと、テレサが俺にしたことも聞いた。知った直後は腹が立ったが……やられても仕方がないことを、俺はお前に言ったんだ。あのときのお前はきっと心細かったはずだ。なのに、お前の置かれた立場を考えずに、心ない言葉を投げつけた。本当に、すまなかった」
フェイヴァは反応しない。掴んだ肩の温かさと小さな寝息だけが、彼女が生きてここにいることを証明している。
「最初はお前のこと、変な奴だとしか思ってなかったんだ。できれば関わり合いになりたくなかった。仲良くなるつもりなんてなかったんだ。俺の前を通り過ぎていく人間と、大差ないと思っていた。……あの日までは」
フェイヴァと過ごした日々が、鮮明に脳裏に蘇る。過去の情景が浮かんでくるままに、レイゲンは言葉にする。
「鉄格子の部屋で眠っているお前を見たとき、俺はお前に自分を重ねていた。それからだ。お前のことが気になるようになって……訓練校に入ってしばらくしたら、目で追うようになっていた。お前と鍛練をしたり、たわいもない話をするのが楽しかった。……そういえば、お前があんなに上手にお菓子を作れるなんて、意外だったな」
小さく笑って。
「……お前が向けてくれる笑顔に、心のどこかで救われていた」
悪夢に苛まれて目覚めた朝。日の光に照らされて微笑むフェイヴァを見て、ささくれだった心がふっと軽くなったのを感じた。
「正直に言うと、考えもしなかった。お前を……こんなに大切に感じるようになるなんて。誰かを二度と失いたくないと思うだなんて。俺にそんな日は来ないと思っていたのに」
十年前のあの日、人間としての自分は死んだ。……そう、思い込もうとした。だから、愛情や慈愛などという人らしい感情は自分から切り離してしまうべきだと思った。誰かを想うべきではないし、愛を受け入れることもないだろうと。
それなのに――出逢ってしまった。
「フェイヴァ、伝えたいことがあるんだ。だから……目を覚ましてくれ」
瞑目し、腕の中の彼女に祈る。




