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機械仕掛けの天使は闇夜を翔る  作者: 夏野露草
10章 生まれ 育み やがて響きあうもの
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31.幸福の花に願いを託して


***


 戦いは終結した。


 ワグテイルによって殺害された兵士たちの亡骸は掻き集められ、防火帯によって区切られた炎の中で()()に付された。これには反帝国組織とオリジン正教の覚醒者たちが協力した。


 翼竜の数は限られている。死体を載せて運ぶにも、日が経てば腐敗は避けられない。感染症の危険性も出てくる。だからこの時代では遺体は燃やし、残った骨だけを壺に詰めて運ぶ。


 物言わぬ彼らが炎によって肉体を失い、魂が天に昇っていく頃には、防火帯の中の火は焼き尽くされていた。物悲しく吹く風が、人の肉の焼けた臭いを運んでくる。


 トゥルーズとカイムたちは、ガウス一佐官が率いる部隊によって本部に連行されていく。彼らは鎖で身体を縛られ、兵士とともに翼竜に乗る。捕虜一人につき、一人の兵士が監視につく形だ。大勢の捕虜を一度に移送するには、兵士も翼竜の数も足りない。


 オリジン正教の兵士たちは大聖堂の大広間に集められ、フォリッド三騎士らによって監視されている。彼らも部隊が折り返し次第本部に護送される予定だった。そこで審問が行われ、後日、ロートレク国の王都クレイスに送られることになる。


 魔人であるカイムたちは悪いようにはされないだろう。今は一人でも多くの戦力がほしい。ただの人間では話にならない。妖魔や、それが生み出す化物に対抗できる力を持つ者が必要だ。ベイルは彼らを反帝国組織の戦闘員として組み込むはずだ。……しかし。


(トゥルーズは二度と日の光を浴びることはできないだろう)


 己の思考が形になる前に先回りした、姿なき友(ラスイル)。テレサは内心で頷いた。


 テレサたちオリジン正教は、妖魔の脅威をひた隠しにしてきた。聖王暦から受け継いできた天使の揺籃、魔人の温床。そして、ディヴィアに対抗できる唯一の力。それらを秘匿し、人類の守護者を気取ってきた。しかしそれは、この時代で生きる人々を裏切る行為に他ならなかった。


 トゥルーズは情報を洗いざらい吐くまで、牢獄に幽閉される。暗闇の中で生き続けるのだ。


 そしてテレサも、本部に帰還すれば同じ運命を辿ることになる。


 時代は変わった。世界の舵を取っているのは、いまやこの時代で産まれ生きる人々なのだ。歴史の裏で蠢いてきた時代遅れの指導者は、その席を明け渡さなければならない。


(いつかは、こんな日がくるような気がしていたわ)

(……そうだな)


 きっと、フェイヴァを生み出すと決めた日から。




 テレサはフォリッドに許可をもらい、大広間から離れた。螺旋階段を降りて向かうのは、天使の揺籃が安置されている地下だ。(はや)る気持ちを抑えつつ、階段を駆ける。


 薄暗い階段が終わりを告げると、奥行きのある空間が広がった。突き当りには巨大な石の扉があり、両脇に二人の兵士が控えている。


 その手前には、見知った顔があった。レイゲンとハイネだ。彼らはリヴェンやルカとともに、大聖堂周辺の警備に振り分けられていた。外には大型の魔獣が闊歩している。それらが徒党を組み大聖堂に押し寄せれば、防壁も役には立たないだろう。魔獣を造作もなく屠れる彼らにとって、これ以上の適任はない。


 レイゲンの目を見れば読み取れる。ルカが気を遣って、二人の分まで警備を買って出てくれたのだ。


「今から取りかかるわ」


 小走りで駆け寄ってきた彼らに告げると、レイゲンは深く頷いた。


「俺も行く」


 まるでそれが当然と言わんばかりに、勢いよく言い切った。


「駄目よレイゲン。あなたはここでハイネと一緒に待っていて」

「何故だ。お前の邪魔はしない。せめてそばで見守るくらい」

「あんたさぁ、気持ちはわかるけどよく考えなよ」


 ハイネが苦笑を浮かべつつ、話に割って入ってくる。


「フェイヴァは何も身に着けずに出てくるんだよ? 身体が完成してから服を着せるの。あんた、もうあいつの裸を見るつもりなの?」

「はっ……⁉」


 レイゲンは息を呑むと、咄嗟に顔を伏せた。耳まで紅潮している。


 自分自身の発言で墓穴を掘ってしまったことに、耐え難い羞恥心を抱いているのだ。冷徹の仮面を被るのも忘れ、うぶで堅物な青年らしさが顔を出している。


 いけないと思いつつも、ついからかってしまう。


「あなたもそういう年頃だから興味津々でしょうけど、気が早すぎるわ。ちゃんと段階を踏んでもらわないと」

「違う! 決してそんな意味で言ったわけでは」


 しどろもどろに弁明するレイゲンがおかしくて、笑みがこぼれてしまう。ハイネと二人顔を見合わせた。


 ここで『そんなに恥ずかしがらなくても、あなたはもうすでにフェイの半裸を見ているじゃないの』などと追い打ちをかければ、更に話がややこしくなるのでやめておく。今は一刻も早くフェイヴァを目覚めさせたい。


 レイゲンとハイネを背後に引き連れ、テレサは兵士たちが脇を固める扉に近づいた。彼らに声をかけると、二人は力を合わせて扉を開いた。重量がある石の扉だが、テレサならば片腕で動かすことができるだろう。だが今は、彼らの面目を立てなくては。


 振り返ると、ハイネは緊張した面持ちで軽く手を振っていた。ハイネの心を読むことはできないが、彼女がどれだけテレサに期待し、フェイヴァとの再会を心待ちにしているかは、表情から推測できる。


 レイゲンはさきほどのやり取りの手前、少しハイネと距離をおいていた。室内に足を踏み入れようとしているテレサに、真剣な眼差しを向けている。


 二人に向けてしっかりと頷くと、テレサは背を向けた。


 重々しい音を立てて扉が閉まる。あとには、自分の呼気がうるさく感じられるほどの静けさが舞い降りた。


 壁に等間隔に設置された燭台の上、蝋燭の火が揺れている。かすかな光源はしかし、テレサにとってはなくても困らないものだ。テレサたち人ならざる者は、明かりに頼らなくても暗闇を見通すことができる。


 入り口から入ってすぐの場所に、刀剣の類が積まれ小山を作っている。オリジン正教の兵士たちに頼み用意してもらったものだ。


 その更に奥。確かに生き物が息づいている気配がする。かすかな呼気と、歯を噛み合わせる音。


 天使の揺籃は、成人男性を縦に三人並べたほどの巨躯を誇る。身体を覆う硬質な外皮は鎧にも似て、金属特有の冷たい光沢を宿している。醜悪な蛙を彷彿とさせる顔面。材料を口に運ぶための発達した腕。一箇所に留まり兵器を製造し続けるため、胴から下はなく、まるで切り落とされたように床に据え置かれている。


 血の色をした双眸を見つめていると、感慨深い思いが込み上げる。もう二度と足を踏み入れることはないと思っていたこの大聖堂で、こうしてフェイヴァの身体を再構築することになるとは。


目覚めよ(ヴィダルゼイアン)


 人類が初めて生み出したとされる最古の言語、アニュー語で命じる。


 それまで人の存在など気にもかけていないように見えた天使の揺籃は、このとき初めてテレサに視線を合わせた。


「ようこそ。軽微な不具合もなく、動作は順調です。ご命令をどうぞ」


 天使の揺籃から、(りゅう)(ちょう)な女の声が響く。揺籃自体が意思を持って喋っているのではなく、組み込んだプログラムに添って、内蔵された音声を発しているだけだ。


「自律起動型。新規作成」

「畏まりました。骨格のもととなる物質を示してください」


 テレサは背後を示した。鈍く光る剣の小山。


 揺籃は両腕を伸ばし、剣を数本掴み取ると口の中に放り込んだ。盛大な音を立てて噛み砕く。久々の食事にありつけたごとくな勢いだ。剣は次々と浚われ、牙の間に消えていく。


 腹の位置に取りつけられた半透明の球体。そこに培養液が充填され、海の中を思わせるような輝きがテレサを照らした。その中を小魚のように泳ぎ回る銀色の粒子。それは揺籃に取り込まれ液体となった金属で、これが寄り集まり、人の骨の何倍も頑丈な骨格を形成するのだ。


「骨格の生成を開始。筋細胞のもととなる物質を示してください。生体、死体問わず人間のみ使用できます」


 無感情に読み上げられる女の声を聞きながら、テレサは肩に手を回した。柄を握り鞘から大剣を引き抜く。赤みを帯びた(にび)の刀身は、造られてから一度も使っていない。魔獣や人の血で汚すわけにはいかなかったのだ。


 テレサは深く息を吸う。左腕を軽く上げ、脇の下に刀身を挟み込もうとした。


(待て)


 このときばかりはラスイルの言葉を疎ましく思った。


(君は、自分がしようとしていることを真に理解しているのか? 他の者を使うべきだ)

(あなたこそ、自分が口にしていることを理解してほしいものだわ。本気で人に頼めると思うの?

 “私の娘の身体を造りなおすために、あなたの腕を提供してほしい”と)


 誰が受け入れるものか。フェイヴァの身体が破壊されたときから決めていたことだ。ここまできて弱音を吐くのはやめてほしい。


(……君の命の灯火は消えかけている。ここで血を流しすぎれば、フェイヴァに真実を伝える時間さえ失うことになる)

(自分の身体のことは、自分が一番よくわかっている。ここで腕を失おうと失うまいと、フェイと過ごせる時間に大きな差は生まれない。……それにこの子は、自分が人の死体から造られたことに傷ついていた。まったく関係ない人間の身体の一部を脅して使ったと知ったら、この子の心の傷をさらに深くすることになるわ)


 テレサが持つ死天使の知識は、すべてピアースに伝えてある。自分の役目は終わったのだ。


 沈黙が訪れた。


 テレサは脇の下に挟んだ刃を動かさずに、ラスイルの返答を待つ。


 これまでともに生きてきた相棒のようなものだ。できればラスイルには、自分の選択を受け入れてほしかった。


(……あの日のように)


 ”テロメア“の名を継承し生きてきた女たち。彼女らが積み重ねた人生の一片が、思いとなってテレサの中に眠っている。彼女たちの記憶を受け継ぐことはできなくても、その思いは知識は、確かに受け継がれている。常人の何倍も生きているような錯覚――その長い長い人生の、最初のわずか数頁を捲る。


 それはテレサがオリジン正教の計らいで、グラード王国のグレイヘン家で暮らしていた頃の話だ。


***


 十年前。


 オリジン正教の研究員であったアルバスが、天使の揺籃を奪い姿を消した。その一報を受けたトゥルーズは、テレサの身に危険が及ぶのを恐れ、オリジン正教に寄進を行っていた一家庭であるグレイヘン家にテレサを引き取らせた。オリジン正教の司祭や幹部の家庭では距離が近すぎる。もしも行方を探られた場合、突き止められる可能性があるからだ。


 テレサがグレイヘン家で暮らして一年。アルバスがディーティルド帝国のガーランド皇帝と接触し、国を挙げて死天使を製造し始めたことを知った。


 なんという巡り合わせだろう。テレサは神に感謝の祈りを捧げた。


 エフェメラ大聖堂に身を置いていては、名もなき心に身体を与えてやることはできない。歴代のテロメアたちが胸に宿し大切に温めてきた心は、いずれ消え去る定めなのだ。


 ディーティルド帝国に行かなければならない。天使の揺籃を使い、なんとしても身体を手に入れる。悲願を達成するには、それなりの地位を手に入れる必要があるだろう。


 テレサは勉学に勤しんだ。もともとテレサにはテロメア・セントギルダから受け継いだ(えい)()があったが、この時代の理系文系を網羅しているわけではない。帝国に渡り、国の中枢を担う研究者を育成する高位校に、なんとしても入らなければならないのだ。


 光陰は矢のごとく過ぎていく。


 今日とてテレサは教本を広げ、一心不乱にペンを動かしていた。繊細な装飾が施された窓から、陽光が差し込んでくる。重厚な机や手に持ったガラス製のペン。そして壁やベッドに至るまでが、贅を凝らした作りをしていた。


(……テレサ、本当にディーティルド帝国に行くつもりなのか?)


 頭の中で響く、声とも思念ともつかない問いかけに、テレサは吐息を落とした。


(もう何度も説明したでしょう。私は行くわ。何年かかっても構わない)


 天使の揺籃がオリジン正教の監視下から離れている。歴代のテロメアたちの願いが、自分の手で叶えられるかもしれないのだ。今を逃せば、これ以上の好機が巡ってくることはないだろう。


(それとも、あなたもトゥルーズと同じことを言うの? 使命を果たせと)

(そうではない。その心を、人間の身体に移すつもりはないか?)


 テレサは瞠目した。ペンをインク瓶の中に浸すと、右手を胸の中心に当てる。


 そこに、いる。テレサが前テロメアから受け継いだ心が。身体を持たない“彼女”は精神の成長が止まっている。けれどもテレサの心の動きに反応しているのか、テレサが喜びを感じるとほのかに温かくなり、悲しみを抱くと凍えた。そんな情動がかすかに、しかし確かに感じられるのだ。まるで産まれたばかりの赤子のよう。


(君の願いは、その子が人間のように生きることなのだろう。ならば人間の肉体を持つことは重要な意味を持つはずだ。その子がいずれ誰かと愛を育んだとする。……私には想像することしかできないが、愛する者の子を産めないというのは、辛いことなのではないか?)


 隠密活動を想定し、死天使は限りなく人間に近く造られている。食事や就寝。人間としては当たり前の行動を始めとして、必要に迫られれば肌を重ねることさえできた。しかし、兵器として設計された死天使に、当然ながら出産機能はない。


(子供を産むことだけが幸せのすべてではないでしょう。お爺様とお婆様が私を我が子のように可愛がってくださるように、血の繋がりがなくても家族になれるわ)


 自分がグレイヘン家に養子に出されることになって、不安を感じなかったと言えば嘘になる。器人化してから、テレサはずっとエフェメラ大聖堂で暮らしてきた。歴代のテロメアたちも、ディヴィアが宿った人間を討伐するために赴く以外は、ずっと大聖堂で過ごしてきたのだという。


 自分が今世に疎いことは理解している。そんな自分が、家族という枠の中に入っていけるか、自信がなかった。


 けれども予想に反して、グレイヘン夫妻は優しかった。七十代の半ばに差しかかった彼らは、テレサを身寄りのない哀れな少女として慈しんでくれた。その顔にはいつも気遣うような微笑みがある。彼らの表情が偽りのものでないことは、老夫婦がテレサに向けてくれる感情が証明してくれていた。


 賑やかさはなくても、心休まる静穏な家庭がそこにはあった。


(それに、人間の身体に心を移すということは、もともとあった人間の魂を押し潰し、消してしまうことに他ならない。自分の生が、人の死の上に成り立っていると知ったら……この子はきっと悲しむわ)


 人間と変わりない容姿をしているといっても、機械の身体だ。残酷な決断であることには変わりないだろう。それでも……。


(本当にそれが理由か? そうではないだろう。君は、この子がいずれディヴィアと戦うことを予期しているのではないか?)


 小さな驚きがあった。テレサは胸に当てていた手を、握り込む。


(死天使の身体に心を移せば、彼女は人間を越えた身体機能を獲得する。もしもディヴィアが肉体を得るようなことがあれば……儀式を経て、力を継承できる。ディヴィアと戦えるだろう。

しかし、人の身に移せば、それは叶わない。不幸にもディヴィアと相対するようなことがあれば、何もできず露と消えるだけだからな)


 ラスイルの指摘に、動揺している己がいた。


 使命を捨て去り、この子を人間として生かそうと決めた。けれども、心のどこかで縛られているのだろうか。無意識に、覚悟してしまっているのだろうか。


 この子が、生前の運命から逃れられないことを。


(……違うわ。この子が戦いに巻き込まれないように私がいるのだもの。ディヴィアが宿った人間は私が必ず殺す。この子が人としての生を歩んでいる間は、決して近づかせない……!)


 ディヴィアの転生は途切れることがない。宿主を殺しても、その十数年後には必ず新たな人間の女に宿り、災厄を撒き散らす。かつてグラード国の都市、ペレンデールが壊滅に追い込まれたように、一つの都市、場合によっては国さえ滅ぼしてしまうことがあった。そのたび、歴代のテロメアはディヴィアの宿主の討伐に向かい、幾多の犠牲を払いながらもこれを討ち取ってきた。


 今も、トゥルーズにディヴィアの宿主の所在を探ってもらっている。知らせを受け次第出向き、殺す。発見は早ければ早いほどいい。それだけ命を落とす人間が少なくなるのだから。


(……そこまで考えているのならば、もう何も言うまい。私も長い間、君たちとともにその子を見守り続けてきたのだ。私にとっても、その子はかけがえのない存在なのだから)


 扉を叩く音が静寂を破る。テレサは小さく肩を震わせると、出入り口の方に顔を向けた。


「失礼します。お茶をお持ちしました」

「ありがとう」


 扉を開けたのは、グレイヘン家に雇われている侍女だ。グレイヘン家には他にも五人の侍女と二人の料理人が雇われているが、テレサはその中でも彼女が一番のお気に入りだった。気取ったところがなく話しやすい。それに、伝わってくる心の声が、少しの汚濁も含んでいなかった。


 彼女が押してきた小型の手押し車の上には、茶器と、花瓶に生けられた花が載せられている。


 何とはなしに、その植物に目を止めた。波打った葉。星型の花弁は薄桃色で小さく、凛と伸びた茎に幾つも咲いている。


 確か、フェイヴァという名前の花だ。


(この、花は……)


 なんだろうか、胸に込み上げるこの感情は。心がざわめいている。――いや、正確には、テレサが受け継ぎ守ってきた心が。”彼女“の感情の波が、激しく突き上がってくる。


(君も感じたか……)


 ラスイルも少しばかり驚きを感じているようだ。声音に、平素とは違う響きがある。


 テレサとラスイルの精神は繋がっている。テレサが見たものは、そのままラスイルにも伝わっているのだ。


(すべての記憶を摘出できているわけではないのだろう。おそらく、彼女が生前に感じた強い思いが、欠片となって残っているのだ。それがまっさらになった今の“彼女”に影響を与えている。

この花は、生前の彼女にとって、意味のあるものだったのだろう……)


 侍女は茶器を机に置くと、カップに紅茶を注いだ。(ほう)(じゅん)な香りが湯気とともに立ち上る。


「根を詰めるものではありませんよ。たまには休みませんと」

「ええ、そうね。……あの、この花は?」


 フェイヴァの花から視線を()らさずに尋ねる。


「これは奥様がお嬢様にと。お花を飾ればお部屋も少しは華やかになりましょう」


 テレサの部屋は殺風景だった。生活に困らない程度の家具だけを置いている。年頃の娘が欲しがるであろう人形や化粧道具、きらびやかな靴や服にも興味が持てなかった。勉強の邪魔になるだけだ。


「お嬢様はこのお花をご存知ですか?」

「名前だけは」

「そうなのですね。物知りなお嬢様が、珍しい」


 テレサの視界の隅で、彼女が笑う。


「奥様も私もこの花が大好きなんです。可憐ですけれど、とても生命力が強いんですよ。茎を切ってもすぐに生えてきますし、他の植物が生きていけないような厳しい環境でも育つんです。冬には枯れてしまいますが、根は生きていて、翌年にはまた花を咲かせるんですよ」


 乳白色の花瓶が、机の上に静かに置かれた。こんなに小さいのに、なんて健気な花なのだろう。


「花言葉は“あなたの幸福を願う”というんです」


(幸福を、願う……)


 まだ生まれてもいない、名もなきこの心。それがはっきりと揺れ動いている。一緒に過ごしてきて、こんなにも生の衝動を感じさせたことは、今までなかった。


 それがたとえ、生前の彼女から受け継がれた思いであっても。消えてしまったほうがいい記憶の(ざん)()だとしても――。


 この花には、テレサが子に願うすべてが詰まっている。


(ラスイル。ずっと悩んできたけれど、決めたわ)


 テレサはそっと胸の中心に手を当てた。そこに宿る心の温かさを求めて。


(この子の名前は、フェイヴァにしましょう)

(ああ。とてもいい名前だ)


 いずれ生まれてくるこの子の人生が、幸福であるように。


***


 過ぎ去った過去の情景に目を伏せていたテレサは、顔を上げる。


 天使の揺籃は静かにテレサを見下ろしていた。身体を構築するための材料を、待ちわびている。


(私は考えを変えるつもりはない。受け入れて、ラスイル)


 テレサにとって、器人化してからともに生きるラスイルは家族のような存在だ。そしてそれは、ラスイルも同じだった。歴代のテロメアたちをそばで見守り、その目をその心を通して、世界を見てきた。


 だからこそ、今にも潰えそうなテレサの命を、こんなにも惜しいと感じてくれている。


(……わかった)


 血反吐を吐くように、苦しげな響きだった。


(君の決めたことだ。もう、何も言うまい)

(ありがとう……)


 瞳を閉じた拍子に、雫が頬を流れて落ちた。


 大きく深呼吸をすると、手の中の柄を強く握り込んだ。刃を挟み込んだ左肩に力を入れる。


「フェイ……。あなたは私の……私たちの、人生のすべて!」


 瞼を開き涙を跳ね飛ばすと、一息に柄を押し下げた。





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