30.墜下
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巨躯でありながら炎の翼で迅速に飛び回るワグテイルに、レイゲンとリヴェン、カイムたちが食らいついていく。リヴェンとカイムはすでにダメージを負っており、あと二三度火炎を受ければいかに彼らでも戦線離脱は避けられないだろう。否、その前に翼竜に限界が訪れる可能性が高い。鱗に包まれている胴体と違って、翼の皮膜はずっと脆いのだから。
レイゲンが半妖の力で生成した剣は、躱されることさえなかったが、ぎりぎりで半身を捻るなどして急所から外されていた。裂傷は瞬時に塞がる。その力は無尽蔵なのだろうか。生み出される炎も自己再生能力も、まったく衰える気配がない。
ワグテイルの目を見ても、過去の断片を何一つ掴むことができなかった。テレサは悔しさに歯噛みする。記憶を見ることさえできれば、ワグテイルの変化の過程も力の詳細も推測できるかもしれないのに。どうやら処置の効果は、異形に姿を変えた後でも継続するらしい。
ワグテイルが旋回する。生み出された熱風が、リヴェンとカイムが同時に撃った雷撃を吹き飛ばした。翼が大きく翻り、テレサたちの方に近づいてくる。
上空にいたルカとグラントが地の力を行使する。テレサたちの身体を、衝撃を緩和する保護膜が覆った。
ワグテイルの前方に巨大な炎が生み出される。五つに分裂し翼を広げると、一直線に疾駆する。空気を焼き焦がしながら、火の鳥は急速に距離を詰めてくる。
他に選択肢はなかった。テレサはハイネを引き寄せる。眼前に光の盾を構築し、既のところで直撃を避ける。光輝は敵を滅する力。守備範囲は自身の周囲だけだ。
背後で立て続けに黒煙が吹き上がる。ハイネがルカの名を叫んだが、構っている余裕はない。
刃のような鋭い風圧を撒き散らして、ワグテイルが迫る。
「逃げ場はねぇぞ! 命乞いを聞かせてくれよぉ!」
翼竜を羽ばたかせて避けるだけの時間はない。その場で待ち受けようとしたテレサの横を、四頭の翼竜が翔け抜ける。
オレットが放った火炎弾がワグテイルに直撃する。ダメージを与えることは端から期待してはいないようだ。炎が弾けた瞬間に黒煙が吹き上がり、ワグテイルを包む。その隙に肉薄するグラントとルカとマーシャリア。それぞれの武器が唸りを上げる。視界を遮り攻撃を叩き込むつもりだ。
地の力により膂力を高めていたのだろう。ワグテイルの腕をルカの大剣が斬り飛ばし、グラントの拳がワグテイルの肩を穿つ。マーシャリアが繰り出した穂先は、ワグテイルの首に狙いを定めていた。
その穂先がカッと燃え上がる。ワグテイルの口腔から放たれた焔が、マーシャリアを飲み込んだ。翼竜の翼もとうとう燃え尽き、主とともに地上に墜落していく。翼竜のか細い悲鳴が尾を引いた。
続けざまに振るわれた巨大な尾。掴んでいた腕がハイネに振り払われる。彼女は飛翔するとルカの前に飛び出した。大剣をかざして強打からルカを守る。
しなり、真横に薙ぎ払われた尾が、オレットとグラントを襲う。彼女の肉体を炎化する能力も、翼竜ごと打ち据えられてしまえば意味がない。彼女は翼竜の背から放り出された。グラントは持ち前の硬質化能力で、自身の翼竜に直撃する前に、迫り来る尾を打ち返した。
「ほら、どうしたぁ? どんどん味方が減っちまってるぞ。次はどいつかなぁ?」
勝ち誇った笑声を響かせて、ワグテイルはすぐさま上空に飛び上がった。レイゲンの一太刀が回避される。天空に上昇したワグテイルを、レイゲンたちは追っていく。
グラントは、マーシャリアとオレットに顔を向けることすらしなかった。翼竜の胴を蹴り戦線に向かう。
人ならざる者である彼女らが、地上に落ちた程度で死ぬはずがない。しかし、できることならマーシャリアには、しばらく意識を取り戻さないほどの深手を負ってほしかった。
テレサの意識は今のこの戦いではなく、フェイヴァを蘇らせた後に向けられている。マーシャリアにテロメアの叡智を受け継がせることは避けたい。変質した彼女の精神が、どちら側に転ぶか予想ができないのだ。もしも、使命を果たすためにフェイヴァを犠牲にしようとしたら――そう考えると、胸が掻き乱される思いがした。すべてが終わるまで眠っていてほしい。
テレサは翼竜を駆り、戦いの只中へ向かう。ワグテイルは遠距離から標的を攻撃できる。一方レイゲンたちは、肉薄し大剣で首を落とさなければワグテイルを仕留めることができない。レイゲンの半妖としての力も、リヴェンたちの能力も、ワグテイルを倒す決定打にはなり得ない。
加えて、驚異的な敏速と再生能力。急所以外を斬り落としても即座に再生し、急所を狙おうにも翼の強力な羽ばたきがそれをさせてくれない。
(一撃だけでも浴びせられれば勝機はある。テレサ、ハイネに協力を頼むんだ)
脳裏に浮かぶ耳慣れた声。男とも女ともつかない声音に、テレサは首肯する。ワグテイルに果敢に挑んでいる、ハイネとルカを目指した。翼竜の胴を蹴りつける。
ワグテイルは火炎の翼を羽ばたかせる。風が吹き荒び、巨体を一気に上空へと押し上げる。次いで発された火炎が、テレサたちめがけて疾走する。
テレサは辛うじてハイネの腕を掴むと、自分の後ろに引き寄せた。ほぼ同じタイミングで盾を展開し、自身とハイネのみを守る。
焔が強烈な光となって空を焦がす。黒煙に覆われていた視界が明瞭になると、戦線に残っていたのはレイゲンとカイムとグラント、そしてテレサたちだけだった。火炎が翼竜の翼を焼いたのだろう。眼下にはどんどんと小さくなっていくルカとリヴェンの姿。
ハイネが振り払おうとした手を、テレサは離さなかった。
「彼らは死んではいないわ、今はまだ。早くワグテイルを倒さないと、彼らは本当に殺されてしまう」
振り返った顔に漲る憤り。虫襖色の瞳を正面から受け止めて。テレサは口を開いた。
「あなたに頼みがあるの」
自力で空を飛べるのはレイゲンとハイネだけだ。レイゲンはワグテイルの牽制に専念してもらう。これはハイネにしか頼めない。
翼の薄い皮膜と鱗は黒く焦げついている。カイムとグラントの翼竜は、今にも落ちてしまいそうに見えた。けれども消耗を感じさせぬ咆哮を発し、主に御されるまま敵に向かっていく。
ワグテイルは炎の翼の一振りで二人に接近する。カイムを切り裂こうと振るわれた鉤爪をグラントが真正面から受け止め、なおかつ硬質化した拳で叩き折った。その隙をつき、後方に回り込んだカイムが稲妻をまとわせた刃を振るう。
風の力の補助能力は使用者以外には効果を発揮しない。如何に武器を振るう者が敏捷でも、翼竜の飛行速度が増すわけではないのだ。ワグテイルが振るった尾は翼竜ごとカイムを吹き飛ばした。鈍い音がし血が飛沫となる。
ワグテイルはグラントの胴を掴むと、炎を吹きつけた。硬質化で軽減できるといっても、高温を一気に浴びせられれば一溜まりもない。健康的だった肌色は、あっという間に黒く染まった。興味を失ったようにグラントを放り投げ、ワグテイルは降下してくる。
羽ばたきによって吹き荒れた風がテレサの髪を弄ぶ。ワグテイルが迫る。逃げるという選択肢はなかった。テレサはハイネの前を飛びつつ、ワグテイルを迎え撃つ。
ワグテイルの斜め後ろから、大剣を構えたレイゲンが接近する。ワグテイルはすぐに勘づいたようだ。すぐさま炎の塊が現れると、分裂しレイゲンに殺到した。冴えた青空のなかに黒煙が立ち上る。
この瞬間。テレサは翼竜を突撃させる。ワグテイルの動きを観察していてわかった。あの化物は炎を連続的に打ち出すことができない。大きな一撃を放った直後には、必ず腕や胴で追撃している。
テレサが近づくと、案の定ワグテイルは腕を振り下ろした。テレサの頭頂から翼竜の胴体までを引き裂く爪の一閃。テレサは身体の前に盾を構築した。盾は爪を防ぎはしたが、翼竜の翼を斬って捨てた。竜の悲痛な声が響く。勝利を確信したワグテイルの顔。テレサは翼竜とともに地上に吸い寄せられていく――翼を羽ばたかせ、ハイネが降下した。その肩を足場にし、テレサは跳び上がる。
右手には赤みを帯びた大剣。それが陽光を帯びた雪のように、燦然とした光を宿す。太陽の剣、としか形容できないそれを、テレサはワグテイルの肩に振り下ろした。目を眇めるほどの光輝は肉を焼き切る熱となる。肩が深く抉れ、焼き焦がされた肉からは血さえ流れない。
一瞬目を見開いたワグテイルだったが、鰐じみた顔面はすぐに醜悪な笑みに歪む。
「俺を殺したかったら首を狙うべきだったなぁ? これくらいの傷だったらすぐに」
余裕の表情が固まり、血色の眼球が動揺に揺れた。
「なんだ!? お前何しやがった!?」
風切り音が耳障りながなりに重なる。レイゲンが薙いだ刃が、ワグテイルの頭部と胴体を分かつ。ワグテイルの目は、墜下していく自分の身体とテレサたちを忙しく見比べた。
「ま、待ってくれ……! 話があるんだよ。あのな」
重力に従って落ちていく首。後方からレイゲンが、前方からテレサが、ほぼ同時に刀身を走らせた。
「畜生ッ! 死にたくねぇッ!」
岩をも裂く刃が、憤怒の表情をした顔面を両断し、細切れにする。ワグテイルの頭部は肉片と血の雨となって地上に降り注いだ。
翼竜がなくても空を飛べるレイゲンとハイネとは違い、テレサの身体は落ち続けていた。落下は途中で止まる。空気の壁を蹴りつけ飛んできたレイゲンが、テレサの腕を掴んだのだ。
渋面をしていた彼は、テレサを捕まえるとほっと吐息を落とした。腕でテレサの身体を抱え上げる。フェイヴァに対して罪悪感が込み上げた。背負われるよりよっぽどいいだろうが。
「あなたも少しは女性の扱い方を覚えたということかしら?」
「……それ以上言うと脇に抱えるぞ」
「ふふっ、ごめんなさい」
実際、レイゲンはテレサたちと出会った頃と比べて、驚くほど優しくなった。しかし本人はそれを認めたくないのだ。特にフェイヴァ以外の前では。
ハイネはどこだろうと首を巡らせれば、彼女はすでに翼で風を切って地上に向かっていた。ルカのことが心配で心配で堪らないのだろう。
テレサは右手に握ったままの、血に濡れた大剣を見下ろした。これはハイネから借りたものだ。テレサに支給された大剣は、背中の鞘に収めたまま一度も使っていない。彼女に返しそびれてしまった。
「何故自分の大剣を使わない」
「そういえば忘れていたわ。咄嗟にハイネの手から奪って使ってしまったのよ」
口から出任せだ。真実味がある理由を考えるのがただただ面倒だった。レイゲンが納得してもしなくてもどうでもいい。
彼はしばらく考える素振りを見せたが、追求してはこなかった。
ゆっくりと地上に降下していく。
地面が近づくにつれ、煙の臭いが強く感じられるようになる。
反帝国組織の兵士たちが少数に別れ、鍬や斧を手に森林に散らばっていた。木々は依然として燃えていたが、火は大聖堂には達していない。火勢が衰えていない樹木と、まだ火災に飲まれていない森林の間には、深い溝が掘られていた。火に近い木々も数本切り倒され地面に転がっている。こうして防火帯で延焼している場所を囲んでしまえば、いずれは火種も尽き火勢が広がることもないだろう。
大聖堂のそばにはルカたちの姿があった。怪我の程度はわからない。リヴェンなどは地面に大の字になっているが、全員生きてはいるようだ。マーシャリアはグラントに抱えられていた。意識があるようには見えない。
遠方に見えるのは、巨大な肉の塊。ワグテイルの首から下だ。生命活動が停止すると炎の翼も消えるようだ。木々を折り倒し横臥している異形は、グズグズに溶け始めようとしていた。ワグテイルの肉体が人間から魔獣寄りになっている証拠だろう。その身体の近くに、あるいは遠くに。テレサたちを乗せて空を飛んでいた翼竜が倒れている。翼を失い、または深い傷を負っており、次々と魔獣の餌食になっていく。
テレサは居たたまれなくなり、両手を組むと聖王神に祈りの言葉を捧げた。せめて彼らの魂が、安らかな場所に迎えられるようにと。
「一体何をしたんだ?」
地上の様子を見守っていたテレサは、レイゲンの言葉に頭を上げた。訝しげな表情と視線がぶつかる。
「あの瞬間、奴は我を忘れていた。だから俺が後ろから近づいても気づかれることはなかったんだ。傷も治癒しなかった」
テレサが翼竜を犠牲にしてハイネを足場にしたのは、ワグテイルの不意をつくためだった。あの一瞬では首を切断するまでには至れない。肩を斬りつけるので精一杯だ。けれども、それで十分だった。
今まで急速に治癒していた傷に、変化がない。それはディヴィアに与えられた力に胡座をかいているワグテイルからすれば、衝撃的すぎる事態だっただろう。周囲の警戒を怠ってしまうほどに。
おそらくあの再生能力は、ディヴィアによって魔獣の細胞を極限まで活性化させられ得たものだろう。その程度ならばテレサでも阻害することができた。
「お前たちがディーティルド帝国から逃れたと知ったときから疑問だった。お前のあの力は何だ? 俺たちが知らなかっただけで、器人となった者はみなお前のような力が使えるようになるのか?
あの盾といい、剣を覆う光といい、まるで……」
レイゲンは続く言葉を飲み込んだ。彼は気づいているのだ。自身の半妖の力と、テレサが使う光輝の共通点を。
「この力は、妖魔を殺すために人工的に造りだされたものよ。魔獣や妖魔には特効を有するの」
「……まさか」
レイゲンは茫然としている。彼の頭に聖王暦、という紀年が浮かぶ。レイゲンが察しているように、神世暦――今の時代では、妖魔や魔獣の骨を剣に加工することはできても、超常的な力を人の手で造りだすことは不可能だ。
「お前の力があればディヴィアを殺せるのか?」
「私ではこの力を完全に使いこなすことができない。人間に宿っていた頃なら、私でも倒すことができたわ。でも、今のディヴィアは完全な肉体を得つつある。……私では、力を使う前に八つ裂きにされるでしょうね」
そうは言ったが、こんな推測はするだけ無駄だ。
その力の由来をレイゲンが尋ねる前に、テレサは眼下を示した。
「さあ、早く下に降りましょう。みんなを手伝わないと」
今ここで答えを聞かずとも、いずれレイゲンもすべてを知ることになるのだから。




