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機械仕掛けの天使は闇夜を翔る  作者: 夏野露草
10章 生まれ 育み やがて響きあうもの
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12.悪夢からの脱出




 司令室をあとにしたテレサは、アーティが眠る病室へと向かった。彼女に個室が割り当てられているのは、正体が露呈していたこともあるが、目覚めたアーティが周囲に危害を加える可能性を考慮してのことだった。


 扉の脇を固める兵士に軽く頭を下げ、扉を開けてもらう。室内はベッドが横に五台並んだら、それだけでもう隙間がなくなってしまいそうな狭さだった。最奥に長机と三脚の椅子が置かれていて、机上には分厚い本が乱雑に置かれている。


 中央のベッドに横たわるのが、アーティだ。造り変えられてから、身の回りの世話をろくにされなかったのだろう。薄く茶色かがった金の髪は艶がなく、目を覆ってしまうほどに伸びきっている。血色が悪く、本来ならば少女らしい丸みを帯びているはずの頬は、やつれていた。胸にかかった毛布がかすかに上下していて、やっと生きていることがわかる。


 自分では顔も見たことがない、言葉も交わしたことがない少女。けれどもテレサにとって、アーティは近い距離にあった。読み取った他者の記憶の一部を引き出すことで、まるで自分が見知った人物であるかのような錯覚に陥るのだ。知識を引き継いで間もなくは違和感を覚えてばかりだったが、今では人が歩いたりするのと変わらない、自然なこととして受け入れていた。


 椅子に腰かけてアーティの身体を拭いているのは、リディアという女だった。ほっそりとした容姿に、茶色の髪を頭頂で一つに結い上げている。反帝国組織が雇い入れた治療師の一人である。


 水の能力を持つ覚醒者のみがなれる水医と違い、従来の医療を駆使し患者を診る。水医と比べれば治療には時間がかかり、完治させられない場合もあるが、水医と比べれば診察代は安価である。一般的な経済状況の家庭にとっては、なくてはならない存在だった。


 反帝国組織本部には、二人の治療師と二人の水医。そして七人の準士――治療師や水医の補助を行う――が駐在している。


 部屋にはリディアの姿しか見えない。準士は、昏倒状態で手の施しようのない少女よりも、他の病室にいる兵士の世話をしているのだろう。


 リディアはテレサに気づくと、ぱっと表情を明るくした。安堵と喜び。彼女は寝たきりだった自分を心配してくれていたのだ。


「テレサさん、よかった。目が覚めたんですね?」

「ええ。あなたには随分世話になったようね」


 リディアの記憶は、その純粋さを象徴している瞳に視線を走らせるだけで、まるで自ら飛び込んでくるようにテレサの中に入ってくる。


 テレサが眠っている間、身の回りの世話は彼女とピアース、そして数人の女兵士が行ってくれたのだ。あとで礼を言わなければ。


「体調のほうはどうですか? 何か必要なものがあれば、遠慮なく仰ってくださいね」


 そう言って穏やかに笑う。今年で二十二歳になるが、飾り気のないその表情は、邪気のない少女を思わせる。


 短く礼を言い、アーティを見下ろした。間近で喋っているにも関わらず、身動ぎさえしない。呼吸さえ聞こえなければ、精巧な作り物のように見える。


「疲れているでしょう? 一時間ほど休憩してきたらどう? 私がここでアーティを見ているから」

「……ですが、勝手に持ち場を離れるわけには」

「総司令には了承済みよ。あなた、私を世話していた時以外は、この子につきっきりだったのでしょう? たまには気を抜かないと、あなたまで倒れてしまうわ」


 嘘は言っていない。ベイルにはアーティの件もきちんと報告している。もしも彼女が、テレサが予想した通りに変質しているのならば、目覚めは一日でも早いほうがいい。


 総司令には了承済み、という言葉に、リディアは迷う様子を見せた。隠しているが、疲労は重く彼女にのしかかっている。カルトス大平原での戦闘で負傷した兵士に、テレサやアーティの存在。リディアはほぼ休みなく負傷者の治療を行い、その上に今にも死んでしまいそうな様相の少女を心配し続けてきたのだ。それに。


 テレサはリディアの記憶の一部を抜粋した。この病室に、ルカとハイネが足しげく通っていたのだ。アーティに呼びかけ、その手を握る二人の様子を間近で見ていたリディアは、三人に強い同情を抱いていた。


「何もしてあげられないのが悔しいんです。こういう子を助けるために、わたしは治療師になったのに」

「仕方ないわ。この子の意識が戻らないのは、おそらく心因性のものよ。あなたはよくやっているわ。

心配しないで。何かあればすぐにあなたを呼びに行くし、外には兵士もいるのだから」


 リディアは溜息を落として、「じゃあ、一時間だけ。仮眠室にいますから、何かあればすぐに教えてください」と言い、おぼつかない足取りで扉から出ていった。


 靴音が遠ざかっていくまで待って、テレサはさっきまでリディアが座っていた椅子に腰かけた。アーティの弱々しい手を握る。


 瞳を閉じ、精神を集中する。意識を細く糸のようにして、アーティの手から腕。胸へと伸ばしていく。やがて精神に到達し、彼女の記憶や思考がテレサの中に流れ込んでくる。


「やはりこの子は」


(間違いない。器人だ)


 ラスイルとほぼ同時に、確信を持つ。


 アルバスは悲願達成のために焦っていたらしい。アーティが器人化して間もなく、処置もせずにカルトス大平原へと向かったようだ。


 彼女が器人に造り変えられてからの記憶は特に興味深かった。彼女はユニの死体から立ち上っていく二つの魂を分かち、一方は見送り、もう一方は己の胸の内に一旦保管した。そうして石の棺で眠る肉体に移したのである。


 己の眉間にしわが寄るのがわかる。更に固く瞼を閉ざして、テレサはアーティの目覚めを妨げる記憶を探った。器人化直後に行われた、アーティを支配下に置くための暴行。ユニが殺される直前に、アルバスに受けた躾という名の拷問。それらもアーティに強い負担をかけていたが、最も大きな原因は、ディヴィアを受け入れたことによる精神的損傷だった。


 人間を道具としか思っていないアルバスは、器人の管理についても無頓着だったようだ。器人はただでさえ他者の記憶に影響されやすい。本来ならば一月ほどは、精神の安定と能力の訓練に時間を費やさなければならないのだ。能力に習熟せぬまま、ディヴィアの荒れ狂う魂を受け入れるのは、非常に危険な行為だった。むしろ魂を肉体に移すまで、よく意識を保っていたと感心さえする。


 テレサが器人化した直後に能力を遣い昏倒しなかったのは、前テロメアだったマーシーの記憶を見て、無意識に精神の統一の仕方や力の適切な使い方を学んだからだった。


 まずテレサは、アーティの心を毒のように蝕む記憶を肩代わりした。これによって暴力を受けた時の記憶は靄がかかったように不鮮明になり、彼女が感じた死の恐怖や絶望を軽くしてやることができる。続いて彼女の過去をつぶさに観察し、幸福だった記憶だけを取り出して、流し込んだ。


 ルカと、今とは容姿が違うハイネと、並んで食事を取っている。少量の野菜くずが入ったスープに、噛み切るのに顎が痛くなりそうなパン。けれども二人と一緒なら笑みがこぼれ、味気ない食事も美味しく食べることができた。


 ボロボロになった服を丸め麻紐を巻いてつくった球を蹴って、ルカと二人で遊んだこと。ハイネと一緒に洗濯物を干して、吹き渡る風が葉を揺らす音を聞いたこと。侵蝕病、そして特殊覚醒者のみが集められた管理施設での、つかの間の平穏だった。


 ずっとアーティの手を握っていた。傷ついた彼女の心が生きる気力を取り戻すようにと、ひたすらアーティが好ましいと感じた記憶を送り込み続けた。


 アーティが小さく呻いた。瞼が震えるのを見て、テレサは手を離した。――目覚める。


 ゆっくりと持ち上げられた睫毛の下。琥珀色の瞳が覗いた。ふわふわと定まらなかった視線がテレサに向けられ、身体を上って瞳へと行き着く。途端に大きく見開かれる瞳。息が吸われる。


 アーティが叫ぼうとしたその瞬間、彼女の口を手で覆った。大声を聞きつけて、兵士に入ってこられては面倒なことになる。


「落ち着いて」


 目覚めた瞬間に口を塞がれれば、誰だろうと驚愕するだろう。テレサの手を外そうともがくアーティに、できるだけ優しく声をかける。


「あなたの脳裏に広がっているものに囚われては駄目よ。それは過ぎていく景色と同じものなの。そう自分に言い聞かせなさい」


 十八年前の自分を思い出す。マーシーを初めて目にした時、彼女の記憶が流れ込んできて、テレサは絶叫したのだ。


 通常、器人が人間の記憶を読み取る場合、時系列にそって伝わってくるものだが、テロメアの名を継いだ者は違う。人の一生では考えられない量の思いや記憶が、混沌となって押し寄せてくるのだ。幼い少女には強い衝撃となるだろう。


 細い腕でテレサの手と格闘していたアーティは、やっと観念したのか身体からふっと力を抜いた。瞳から、もう叫ばないという思念が伝わってきたので、解放してやる。


「いきなりごめんなさい。誰にも邪魔されずにあなたと話がしたかったの」

「……はい」


 小さく澄んだ声音。アーティは目にかかる髪を指で撫でつけると、顔を伏せた。肩が小さく震えている。テレサの記憶と思いを見て、自分がおかれた状況に察しがついているが、心からそれを信じてはいないのだ。


 アーティは自分が、夢の中にいると思っている。


「もう大丈夫よ。あなたを傷つける者はここにはいない。反帝国組織に保護されたのよ」


 悪夢はもう終わったのだと、口に出して聞かせてやる。


 大きな瞳が瞬いた。ぼんやりとした表情をして、胸の内でテレサの言葉をはんすうしている。


「ルカもハイネもここにいるわ。訓練が終わったら、すぐにここに来てもらうから」

「ルカにいと、ハイネちゃんが……?」


 二人の名前を耳にした瞬間に、アーティの中で思慕の念が膨れ上がった。耐え難いほどの激しい感情が、嵐のように吹き荒れる。涙が白い頬を伝って、膝の上で組んだ手に落ちる。


「わたし、ずっと……」


 語尾が消え入る。本当は泣き叫びたいだろうに、必死に声を殺していた。ずっとそうしてきたのだろう。


 アーティが器人化してからの記憶は、口に出すのもはばかられるほどに悲惨なものだ。誰一人味方がおらず、暴力を振るわれる恐怖と苦しみ。それは彼女が生来持っていた人懐こさと柔らかさを、忘れさせてしまうほどに強烈なものだった。


 テレサはアーティに身を寄せて、彼女の肩に手をのせた。アーティは怯え、小さく悲鳴を漏らす。


「よく一人で耐えたわね。あなたは頑張ったわ。もう、苦しまなくていいのよ」


 穏やかに声をかけながら背中を撫でた。薄く、背骨があらわだった。


 アーティは震えながら、泣き続けた。ときおり嗚咽が漏れる。彼女が落ち着くまで、テレサはずっと背中を撫でていた。




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