08.芽吹いた意識 幼い自我の、その定め(1)
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フェイヴァの死の瞬間を感じたときは、すべてが終わってしまったと思った。
翼竜を全速力で駆ったとしても間に合わない。フェイヴァが死ぬ前に、敵の攻撃から庇ってやることができない。それは確信めいた予感だった。
曇天の下。目測で五十キロほどの距離に、カルトス大平原が広がっていた。まばらに生える木々となだらかな丘と。
それらを見渡せる崖の上に降り、テレサは目撃する。人を超えた視覚がテレサの脳裏に伝えたのは、今まさに激突する二者。
一つにまとめた髪を振り乱し、片足のみで向かっていくフェイヴァ。避けようともせずに真正面から受けようとするディヴィア。二人の影が交差し、強く光が瞬く。
耐え難い激痛がテレサを襲った。胸の中心に食い込んだ槍が、周囲の骨組みや肉を砕きながら身体を貫通する。凄まじい衝撃が、胴を、足を、腕を、粉砕し塵にしていく。
娘が死の間際に感じた苦しみが、一瞬にして意識を乗っ取った。悲鳴が迸り、尾を引く。
力が抜ける。全身に震えが走った。とても立っていられない。
「ああ……! フェイが、逝ってしまう……!」
(気をしっかり持てっ! 君が取り乱せば、フェイヴァは本当に逝ってしまうぞ!)
切迫感が満ちた思念が、テレサを現実に立ち返らせた。涙をこぼす瞳を見開く。
そうだ。痛苦に怯んでいる場合ではない。テレサは空を仰ぎ、視線を動かした。
テレサの器人としての能力が、光を捉えさせた。本当に小さな、小指の先ほどの球体。それはぼんやりと発光しながら上昇していく。それこそが、器人のみが視ることができる、天へと迎えられる魂の姿だった。
おそらくもっと離れた位置だったなら、器人の視力でさえ見つけることはできなかっただろう。
(十八年前にできたことだ。今できないはずがない)
脳裏に響く力強い声に背中を押され、テレサは小さく息を吐いた。一点──今にも儚く消えてしまいそうな光を見つめ、精神を集中させていく。
求めに応じたのか、光はゆっくりと方向転換すると、テレサのもとへ近づいてきた。衣服を通り抜けて、身の内に飛び込んでくる。
身体を駆け抜ける、震えるような熱さと寒さ。テレサは顔を伏せて、自分の胸を腕で抱いた。離れていかないように、きつく。
やがて仮の住み処を見つけた魂は、刻まれた歴史を花開かせる。テレサはフェイヴァの隣に立ち、彼女の人生をともに見つめた。獣の生より短い生涯。悲しみと喜びの循環を。
フェイヴァを逝かせずに済んだ安堵感に、張り詰めていた心身に限界が訪れた。上半身を支えていられずに、固い地面に倒れこむ。
兵士たちの慌てたような声が耳に飛び込んできたのが最後。意識がぷつりと消えた。
事の顛末を想起したあと、テレサは四人の顔を見渡した。
目を丸くし、口を半開きにしているルカ。リヴェンは眉をきつく寄せて、眉間に刻まれたしわが二度と取れないのでは、と思わせる表情をしている。
リヴェンは当然として、ハイネから情報を得ていたルカも、すんなりとは受け入れられないはずだ。
レイゲンも同様で、たった今テレサが口にした言葉が飲み込めないのか、面には懐疑の念が浮かんでいる。
この中で最も理解が早いのは、経験者であるハイネだろう。彼女は胸を撫で下ろすように吐息を落としたが、テレサに向ける双眸には、信用からは程遠い感情が見てとれる。
「ピアースから話を聞いたのね。苦しい思いをさせてしまったわ。器人の肉体は、仮の器としての機能も持つのよ。むしろ、呼称からそれが本来の役割だと予想がつけられると思うけれど。
……あの時、すんでのことでフェイヴァの受け入れに成功したのよ。あの子は消滅を免れて、今は私の中にいるわ」
ハイネから注がれる、突き刺さる視線を無視して。テレサはレイゲンに声をかけた。
ハイネの話を聞くまで、器人の存在など考えもつかなかった彼だ。テレサの話を信じきれずに、四人の中で最も動揺している。喜びが、他の複雑な感情に絡みとられて、浮き上がれない。
「こんな話、すぐに受け入れられないとは思うけど。この人が言ってることは本当のことだよ。身体さえ造り直せば、フェイヴァは戻ってくる。……よかったね」
ハイネは柔らかな表情を見せた。
彼女の確信を帯びた言葉によって、彼はようやく疑念から脱却し、テレサの肩を掴んだ。先ほど襟を掴んだ、荒々しい手つきではない。かすかに震える手には、事実であってほしいという切なる願いが込められていた。
「フェイヴァは……戻ってくるのか?」
「ええ。死天使の身体が破壊されても、私のような器人が魂を受け入れて、身体を再構築する手立てがあれば復活できるわ」
尤も、器人が生きている限り無制限に力を使えるというわけではない。一人の器人につき、せいぜい二回だ。他者の魂を自分の中に呼び込み、住まわせるというのは、生身の肉体に大きな負担をかけるのだ。
「フェイヴァ……よかった」
テレサの肩から手を離したレイゲンは、フェイヴァがいなくなってからの心労が一気に噴出し、床に膝をついた。
ルカが安堵したような顔を見せて、レイゲンに手を貸す。リヴェンはレイゲンの様子を鼻で笑ったが、顔には彼らしくない柔い色が表れていた。
(初めて会った頃は、なんて冷たい男だと思ったが。人はここまで変わるものなのか)
頭の中で響く意外そうなラスイルの声に、テレサは微笑んだ。テレサの五感はラスイルと繋がっており、テレサが見たものはすべて伝わる。今テレサの中で生きている、フェイヴァの記憶も同様だった。
最初の頃は、互いに相手の中に自分を見ていた。青年はそれに戸惑い離れ、しかし少女は自分から近づいた。付かず離れずだった距離は環境の変化とともに狭まって、やがてふたりの心の壁さえ取り払わせた。
生が、本来ならば交わるはずのなかったふたりの道を、ひとつにしたのだ。
生きることは、変わることなのだから。
「ねぇ、あんた。歳はいくつ?」
レイゲンが抱いているフェイヴァへの想いは、覗いてしまうことに罪悪感を覚えるほどのものだった。思わず口許がほころんでしまう。誰かの感情が、こんなにも温かく染み入ってくるのはいつぶりだろう。
だから、自分にかけられた厳しい声にも、テレサは心を乱されることはなかった。
穏やかな雰囲気に包まれている三人とは違い、ハイネだけはテレサに挑むような視線を向けていた。心を読めなくてもわかる。彼女は三人とは違う場所に立ち、異なるものを見ているのだ。
「二十四よ」
「ふぅん。子供の一人や二人いてもおかしくない歳だね。でも、フェイヴァはあんたの実の娘じゃないよね。似てるのは雰囲気だけで、外見に共通点がないし。そもそも、生前とまったく違う容姿にする必要なんてないもんね。あんたとフェイヴァを見比べると、母子っていうより姉妹みたいだし」
「……何を言っているのかしら?」
「とぼけないで。あんたには言いたいことが山ほどあるんだよ」
形のいい虫襖色の瞳に、敵意と怒りが宿った。
「どうしてフェイヴァには、人間だった頃の記憶がないの?」
小さく微笑んだままのテレサの口許が、凍りつく。
(この少女をごまかすのは無理だろう)
ラスイルの言葉は、テレサの思考を代弁していた。
空気が、重さを増したような気がした。沈黙が生まれ、聞こえるものはかすかな呼気だけになろうとした時――場違いなほど騒々しい音が、降って湧いた。
ピアースが扉を突き破らんばかりの勢いで入室してきたのだ。彼女は、テレサとハイネの間に漂う強張った空気を感じ取り、心苦しそうに目を伏せた。
「す、すみません。お邪魔してしまったみたいで」
「いいのよ。あなたにも話を聞いてほしいわ。ピアース、質問にはあとで答えるから、今はただ黙って私の話に耳を傾けていてほしいの」
「了解しました」
五人が思い思いの位置につくのを待って、テレサは話し始めた。
「器人はもともと、優れた魂の永続性を図るために造り出されたものなのよ。私たちには、受け継いだ膨大な知識があった。それを抱えたままでは、フェイヴァの生前の意識を保持することはできなかった。だから魂を三分割し、記憶と心を別々に受け持つことにしたのよ。器人の能力はそういった使い方もできるの」
ピアース、ルカ、レイゲンは話を理解しているようだ。三者三様に難しい顔をしている。しかしリヴェンは、頭に疑問符を浮かべていた。テレサはルカと彼の思考を読むことはできないが、リヴェンは四人の中で一番表情の変化が大きく、思考の予想が容易だった。
「ちゃんと正直に話してよ。どうしてそんなことをしたの? フェイヴァは一体誰なの?」
「それを話す必要はないし、あなたたちが知らなくてもいいことよ」
「どうして?」
叫ぶようにハイネが問う。
「何故なら、フェイの意識は、記憶を喪失してから──死天使の身体に宿ってから、芽生えたものだからよ。……この子が記憶を取り戻して、生前の頃の自分に戻りたいと願うのなら、私たちはそれを叶えてやることができるわ。でも、過去と一つになれば、フェイは消えてなくなってしまう。あなたたちと過ごした記憶も、再構築された自我に飲み込まれてしまうのよ」
だから、フェイヴァは何も知る必要がないのだ。決して一つになることはできない。過去に置き去りにした者の記憶を語って聞かせたところで、混乱させてしまうだけだ。




