03.少女の願い
守衛士が撃ち鳴らす銃声を、フェイヴァの聴覚が捉えた。距離と方向を探りながら駆ける足を速める。靴底が地面を蹴るたび、もうもうとした砂埃が巻き上がった。
曲がりくねった居住区の道を全力で駆ける。目に映る景色が形を失い、色までもおぼろになる。にも関わらず、レイゲンとフェイヴァの距離は瞬く間に縮まっていく。テレサも類稀な戦闘能力を有していたが、レイゲンはその比ではない。彼は死天使との戦闘で一度も傷を負うことはなかったのだ。
頭上に影が被さったと思った瞬間、眼前にレイゲンが降り立った。一度の跳躍でフェイヴァを飛び越え、なおかつ瞬時に振り向く。
迂回して避けようとしたフェイヴァの腕を、レイゲンが掴んだ。振り払おうとしたがびくともしない。悔しくて思わず奥歯を噛みしめた。涙はさきほどから止まる気配がない。
「動くな、落ち着け」
「いやです! 離して下さい!」
じっとしていれば、何をされるかわからない。自分の感情を制御することができなくて、衝動のまま滅茶苦茶に腕を振る。
レイゲンが大きくため息を落とすのが聞こえた。がっちりと掴まれていた腕が唐突に離されて、フェイヴァは目を見張ると硬い地面に転倒した。
桃色の髪を振り乱してレイゲンを仰いだフェイヴァに、少々困惑した眼差しが向けられる。
「……武器はあるのか」
「え?」
てっきり大剣で斬りかかられると覚悟していたフェイヴァは、レイゲンの言葉に拍子抜けした。
「今から魔獣を殺しに行くんだろうが。武器がなければ怪しまれるぞ」
確かに、自分は見た目だけならば普通の少女だ。素手で魔獣を相手にした上勝利したとなれば、守衛士たちがどんな感情を抱くか。フェイヴァは想像できるような気がした。
だが、レイゲンは勘違いをしている。
「べ、別に倒すことが目的じゃありません。少し痛い思いをさせて、都市から追い払いたいだけです」
「奴らは引き際というものが理解できない。家畜にも劣る知能だぞ」
それが本当なら、どうやって守衛士たちを守ればいいのだろう。思い悩むフェイヴァを、レイゲンは腕を掴んで立ち上がらせた。
「まずは泣き止め。泣き顔のまま戦いに挑む奴があるか」
「は、はい」
フェイヴァは指で涙を拭った。深呼吸をして、悲しみを押し出そうとする。
「このままでは埒が明かん。俺がどうにかしてやる。お前は立って見ていろ。……だが、勘違いはするなよ。妙な真似をすればどうなるかわかっているな」
背を向け駆け出したレイゲンに、フェイヴァは瞳を瞬いた。なぜ、と問う前に彼の背中が小さくなっていく。フェイヴァは慌ててあとを追った。
戦場は、居住区の北──防壁にほど近い場所だった。踏み荒らされた道。裂傷と弾痕を刻んだ家々。地に倒れ伏したままぴくりとも動かない守衛士。金属の胸当ては砕かれ、茫然とした顔で天を仰いでいる。彼らがすでに息絶えていることは、誰の目にも明らかだった。濃い血の臭気が鼻孔を満たす。引き千切られたかのように断面を露にした、無惨な遺体。呆然と虚空を仰いだその瞳。仲間の犠牲を無駄にしまいと、守衛士たちは果敢に敵に向かっていく。
戦闘のまっただなかに突入していくレイゲンの後ろ姿を見送って、フェイヴァは守衛士たちが相手にしている魔獣をはっきりと視界に収めた。
(あれが……)
こんなにも間近で、姿を見るのは初めてだった。その魔獣は、二本足で直立する狼の姿をしている。人の血の色をした瞳。筋骨隆々の巨体は、人間の背丈を越えている。手足に生える爪は、一枚一枚が剣のように鋭く太い。血肉で汚れた牙を剥き出しにして、聞く者の鼓膜を激しく震わせんばかりに吠えた。
魔獣がまとめられた図鑑で見たことがあった。人のように二本足で立つことから、人もどきと命名されている個体だ。聖王暦以前の時代に普及していたとされる最古の言語、アニュー語から取られている。
外壁で隔てられた都市の外に棲息する、凶暴な生物──魔獣。大昔に、彼らによって野生動物は食い尽された。まるでその死を嘲笑するかのように、魔獣たちは異形の動物の姿をしている。今では、人が翼竜の背からしか望めない外界を、彼らは我が物顔で闊歩していた。
魔獣には鳥や翼竜の形をした個体がいない。知能も低いため、都市の周囲を壁で囲むことができれば、人の安住は約束された。
それは本に描かれている昔の話である。
魔獣は人間の文明が発達していくとともに、進化を始めた。近年では、その自慢の脚力によって壁を跳び越えたり、壁の破壊を可能とした種が現れている。
戦火の及ばぬ国に暮らす人々からすれば、帝国から遣わされる死天使よりも、外界を縄張りとする魔獣の方が現実的な脅威だった。
ダウトフルの周囲に展開する守衛士たちは、散弾を放ち視覚を奪う。弾は命中はするが、一、二分で両の目は再生してしまう。その隙に大剣を握った守衛士が背後から襲いかかる。
誰よりも速く、ダウトフルに肉薄した者がいた。──レイゲンだ。攻撃を察知した魔狼が腕を横薙ぐが、爪は虚空を裂くのみだった。レイゲンは右足を軸にして半身を捻り、腕を躱していた。両腕に構えられていた大剣が、鋭い光だけを残して走る。人郎の腕を断ち斬った刃は、そのまま引くことなく首にかかる。レイゲンが両腕を振り抜けば、首と胴体は元々別の物であったかの如く易く別れた。狼の首は宙に跳び、地を転々と弾む。
首から噴水のように、赤墨色の血液が吹く。どう、とわずかな振動を地に伝わらせ、巨体は倒れた。
「……助かった」
「ああ。俺、もう死んだと思った」
今にも魔獣に飛びかかろうと大剣を構えていた守衛士たちは、しばらくすると自分たちが救われたと理解できたのか、兜の下の表情を和らげた。
フェイヴァはダウトフルのそばに伏した、守衛士たちを視界に入れた。言葉を交したこともない人々だが、彼らの生は終わり、もう二度と起き上がることはないのだと理解すると、胸のどこかが痛むような気がした。
もう少し早くこの場所に到着していれば。多数の犠牲者を生じさせてしまったことを悔いているような自分に、フェイヴァは自嘲した。
(私はこの人たちの命を救うために戦いたかったわけじゃない。この人たちを助けることができたら、褒めてもらえるかもしれない。誰かに存在を認めてもらえるかもしれない。……そんな気持ちで、人の命は救えないんだ)
「何者かは知らんが、礼を言う。その若さでこれほどの腕とは」
「……いえ。職務の邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
鐘の音は止んだ。家に閉じ籠っていた市民たちは、おそるおそる扉を開く。気心が知れている近所の者同士で集まって、今回の襲撃についての情報を交換し始めた。
その脇をフェイヴァたちは通り過ぎた。自宅に荷物を取りに戻るのだ。レイゲンに片腕をきつく掴まれ、導かれるままに道を歩いていた。
(私、何がしたかったんだろう)
嫌悪感が胸にわだかまる。やはり自分は人間とは違うのだ。人が人を助けるために、利己的な理由を持ち出したりしないだろう。
人の無惨な死が目に焼きついたからか、フェイヴァの瞳から涙が流れた。服の袖で拭っても拭っても、心が叫びを上げるように雫が止まらない。
肩越しにフェイヴァの方を向いたレイゲンは、口の端を歪ませた。その表情は嫌忌を伝えるものではない。もっと単純な、困惑だった。
「泣くな」
「す、すみません。自分の感情を制御できなくて。……私は人が怖いです。誰もわかってくれない、優しくしてくれないと思っていたんです。でもそうやって諦めていてもどうにもならないから、自分の力で誰かを助けられたら、私を認めてくれるかもしれないって思いました」
レイゲンは何も言わずに聞いている。だからフェイヴァは思いの丈を全て吐き出した。
「……でも、守衛士の人の死体を見たら……そんな風に考えていた自分がいやになって。自分が人間じゃないって、よくわかって。……だから、泣いてるのかな」
人に対する恐れや不安。そして認められたいという、切なる思い。それらは自分が想像していた以上に大きなものとなっていたのだ。
「怖がらないでほしい。避けないでほしい。理解してほしいとは言いません。だけど、私も入れてほしい。……あなたたちの輪の中に」
聞き終えると、レイゲンはフェイヴァの腕を強く前に引いた。フェイヴァの身体は大きく傾げ、前のめりになる。
「まず泣き止め」
「……はい」
「それとお前は、人間に幻想を抱いているようだな。人間は自分が認められたいがために、危険な状況に足を突っ込んだりはせん」
「でも、お母さんはそういう人でした。それに私は人間じゃないから。死天使を相手に戦えたんだから、魔獣だってたぶん、人より簡単に倒すことができます」
「お前は自分のためだったと言うが、目的はそうでも、手段は十分他人のためになっている」
(励ましてくれてる……?)
レイゲンの言葉が意外で、フェイヴァは目を瞬かせた。
(ひどいことを言われたりしたけど、本当はそんなに冷たい人じゃない……のかな)
『彼は普通の人間とは違う。色々なことがあって荒んでしまったけれど、本当は優しい子なのよ』
テレサも以前そう言っていたではないか。フェイヴァは自分の中で、レイゲンに対する見方が少し変わっていくのを感じていた。
「ふぎゅっ」
レイゲンが唐突に立ち止まったものだから、前に足を運んでいたフェイヴァは、彼の背中にぶつかってしまう。
レイゲンはゆっくりとフェイヴァに顔を向けた。目を見開いて、口を半開きにしているさまは、自分で自分の言葉に動揺している心情が強く表れている。
「……今の言葉は忘れろ」
「え? なぜですか?」
「いいから忘れろ。わかったな」
釈然としないものがありながらも、フェイヴァは頷いた。
「はい。忘れました」
「よし」
レイゲンは氷を思わせる鋭い顔つきに戻った。彼はフェイヴァに垣間見せた感情を隠すために、仮面を被ったのだ。
しかしフェイヴァが獲得した能力は、彼の内面を覗くことができた。彼の瞳と視線が交差した瞬間、虹彩の赤を通して脳裏にある光景が浮かんだ。
『話ってなんだよ』
幼子特有の高い声の中に諦観がにじむ、レイゲンの声。彼はわずらわしさを抱いて、ひとりの男を仰いでいた。
日に焼けた肌に、ざんばらな黒髪が特徴的な偉丈夫だった。彼は黒曜石を思わせる色をした鋭い瞳で、レイゲンを見下ろす。ベイル・デュナミス。レイゲンの養父だ。
『共通校で、同級生を殴ったそうだな』
『あいつが先に手を出してきたんだ』
『腕の骨が折れたそうだ』
『おかしいな。加減してやったんだけど』
ベイルは深く、ため息を落とす。
『お前の身体能力は人間を越えている。普段から力を制御するように言っていたはずだ』
『いやだ。舐められて堪るか』
『必要以上に他者に力を誇示するべきではない。少しでも異常を感じさせれば、人はお前を理解しようとする気持ちさえ抱かない』
『それがどうだっていうんだ。関係ない』
素っ気ない口調で返しつつも、レイゲンは怯えた。これから一生、自分はひとりで生きていかなければならないのだろうか。自分を偽り続けながら、周囲に接しなければならない。その事実に恐怖する自分を、脆弱だと罵りたくなる。
弾かれるようにして、フェイヴァはレイゲンの記憶の中から現実に帰ってきた。
(今のは)
成長したレイゲンは、フェイヴァの前を歩いている。腕を掴む手の力が、少し緩んだように感じた。
フェイヴァだけではない。もしかするとレイゲンもまた、己ではどうすることもできないものを身の内に抱えているのかもしれない。
「あなたも同じ、なんですね」
フェイヴァは彼に抱いた親近感を言葉にして伝えてしまった。
レイゲンは歩みを止める。
「気分を害させてしまうと思いますが、私は人の断片的な記憶が見えるんです。あなたは私と似ている」
「貴様などと一緒にするな」
レイゲンの声色のあまりの厳しさに、フェイヴァは竦んだ。かつてこれほどまでに、誰かに怒りを露にされたことがあっただろうか。怯えたあとに、自分の軽はずみな発言を悔やんだ。
「すみません」
(私の馬鹿。私みたいな奴と一緒にされて、いやな気分にならないわけがない)