29.死が二人を(2)
レイゲンの瞳に飛び込んだのは。
撃ち出された槍が、フェイヴァを貫く瞬間だった。激しい光の中に、彼女は飲み込まれる。華奢な身体は砕け散り、衝撃が荒れ狂う風となって吹きつけた。
これは夢だ。現実であるはずがない。目の前の光景を否定し、逃避する。そうしなければ、精神の均衡を保つことができない。思考が白く染まっていく。
レイゲンは二歩、三歩と足を踏み出し――そうして、膝をついた。
大きく抉れた地面に、血が飛び散っている。刀身が砕かれた大剣が落ちていた。ただ、それだけだった。他には何も残らなかった。
突風が吹き渡り、雨に濡れた髪を撫でていった。何かが優しく頬に触れ、手の中に落ちる。
フェイヴァが髪を結んでいた、水色のリボンの切れ端だった。
強く、握りしめる。
「……ああ」
震える吐息は、呻きへと変わり。
「うわあああああッ!」
喉も裂けよとばかりに、慟哭が迸った。
レイゲンの悲嘆の叫びに呼応し、それは起きた。海の底に沈んでいくような悲しみと絶望は、徐々に異なる感情へと変質していく。血管を通って身体の隅々まで行き渡った怒りは――沸騰する力を呼び覚ましたのだ。
体外に漏れ出た力はレイゲンの周囲に留まり、闇に溶ける色の刃を形成する。一斉に射出された五本の刃は、一直線に女に向かっていく。
「ほう、力を取り戻したか。――だが、一足遅かったな」
女の前方に円形の盾が展開し、刃は漏れなく防がれた。
「如何に貴様に資質があろうと、その力は一朝一夕で使いこなすことはできん」
次弾を撃ち出すも、またもや刃は盾に阻まれて標的に到達することはなかった。
レイゲンは地面を蹴る。足下の空気が見えない足場となり、レイゲンの飛距離を更に伸ばす。女の頭上から体重を乗せた斬撃を放つ。
盾が女の頭上に現れ出る。暗黒の障壁は、硬質な音を鳴らして大剣を弾いた。レイゲンは着地しすぐさま背後を振り返る。
「……そう言えば、礼がまだだったな。お前に宿っていなければ、新たな肉体を手に入れられはしなかっただろう」
空中に漆黒の槍が形作られる。魔獣の爪よりも鋭く、牙よりも太い巨槍は、ひとりでに旋回するとレイゲンに刃先を向けた。
「お前の一番欲しいものを送ってやる。ユニ、この男の魂は永遠にお前のものだ!」
興奮した声音とともに、槍が放たれる。穂先は肉体を易々と貫通し、四肢を散乱させる。
――はずだった。
槍はレイゲンに接触することはなく、まるで何かに吊り上げられたかのような不自然な軌道を描いて頭上を飛び越えると、後方の地面を深く抉ったのだ。
女は不快げに眉を寄せた。その、わずかな隙。
レイゲンの大剣が、鉄紺の色を帯びる。燃え盛る激情に反応し、力は強さを増す。根本から切っ先まで、炎に似た揺らぎが纏った。
肉薄とともに、渾身の一撃を振るう。女はわずかに反応が遅れる。
盾と刀身がかち合い、金属が激しく歪む音が響き渡った。女は驚愕と呼べる表情になる。暗黒の障壁に、細かなひびが走ったのだ。
今にも盾は砕け、刀身が女の頭部を捉える。レイゲンが確信した矢先、頭上から叩きつける殺気を感じた。
レイゲンは攻撃を中断し、女から距離を取る。地面を砕きながら着地したのは、アルバスだった。黒いガウンをはためかせて、彼は女とレイゲンの間に立ち塞がる。
「だから言っただろう。お前はまだ本調子ではない」
「……いや、それ以外に」
後ろを振り返らず声をかけるアルバスに、女は自らの顔に手をやった。
「小娘の思念が、私の中で生きている。この男を相手にすると、攻撃も防御も満足に行えない」
「引け。お前に傷を負われては困る」
レイゲンは跳躍し、アルバスに斬りかかる。鋭い音を鳴らして、刃は障壁に受け止められた。
女はアルバスとともに宙に飛ぶと、一度指を鳴らした。小さな、しかし高い音が、辺りに鳴り渡る。
レイゲンはあとを追おうとするが、背後から魔獣に飛びつかれて防止された。こんな雑魚に構っている暇はない。後方に踵を振り抜いて魔獣を粉砕した。首から上をなくした鼠は、蹴られた勢いに引き摺られて吹き飛んでいく。
周辺を見渡せば、いつのまにそこにいたのか、レイゲンは魔獣の群れに取り囲まれていた。大小様々な種類の魔獣は、たった一つの使命を実行するべく、レイゲンに次々と飛びかかった。
雨の槍が降り注ぐ。遠方で雷が鳴っている。
障害を排除した頃には、女もアルバスも消えていた。
容赦なく叩きつける滴は、傷だらけの鎧についた返り血を洗い、抉れた土の中に流れこんでいく。その上に、レイゲンは座り込んだ。
身にのしかかるのは疲労感。そして、圧倒的な無力感だった。ポケットに忍ばせていたリボンの切れ端を手に取った。柔らかい生地はすぐに水を吸って、掌にほんのわずかな重みを感じさせる。
何も、できなかった。フェイヴァを救えず、彼女の敵を討つことさえできなかった。
鋭く強烈な失望が襲う。
視野がぼやけて、掌に水滴が落ちる。
誰かが、自分の名前を呼んだ。忙しい足音が近づいてきて、肩を掴まれる。
「おい、大丈夫か!?」
跳ねた髪が濡れて、張りついている。目を見開いたルカの顔を、レイゲンはただ見上げた。鈍くなった思考の中で、心のどこかは冷静だった。ルカたちの方に向かった死天使を、レイゲンはすべて破壊していない。あくまで進行方向に立ち塞がった者だけだ。なのに何故、ルカとリヴェンがこんなところにいるのか。
視線を外さずにいるのを疑問と受け取ったのか、ルカが口を開く。
「お前が走って行ってしばらくして……後方から死天使が飛んできたんだ。そいつらは俺たちを攻撃せずに、向かってきた死天使を標的にした。そいつらや、一緒にきた軍隊が注意を引いてくれたおかげで、俺たちは生き残れたんだ。……かなりギリギリだったけどな」
「おい、何寝ぼけた顔してんだテメェ。しっかりしろ」
「フェイヴァはどうしたんだ? ……まさか」
反帝国組織から救援がきたのだ。遅すぎる到着だった。
――もう、手遅れだった。取り返しがつかない。すべてが終わってしまった。
彼らがもっと早くに駆けつけてくれていれば、事態は変わったのだろうか。今となっては知る由もない。
レイゲンにわかることは――あまりに多くの人間が犠牲になり、サフィもユニも殺され、そしてフェイヴァも死んでしまったということだけだ。彼女は跡形もなく消し飛んだ。
残されたリボンの切れ端が、激しい雨に打たれていた。




