26・夜道を照らす ほのかな光芒(1)
◇
無数の黒点が、灰色の空に散らばっている。弱い雨音を打ち消すように響く規則的な音は、着実に迫っていた。フェイヴァは聴覚を揺らす死の羽音を聞いていた。針の先のような大きさのシルエットは、まもなく人の形を取り、地上に舞い降りる漆黒の翼が露になるのだろう。
フェイヴァは周囲を見渡した。四人とも度重なる戦いで満身創痍であり、表情には疲労の色が強く浮かんでいる。身体に負った傷は癒える様子がなく、再生能力を宿していることが信じられないような有り様だった。
「……クソッ! こんなところで終わって堪るか!」
そう口にしたのは、リヴェンだった。飛んでいってしまった翼竜を呼び戻そうとして口笛を吹きかけた彼を、ルカが止める。
「無駄だ。奴らは火傷を負ってる。呼び戻せたとしても、普段通りの速度は出せねーよ」
「それでも、他に手段がねぇだろうが!」
甲高い音が空に打ち上がり、尾を引く。その音のなんと虚しいことか。
飛び去ってしまった巨体は、飛来することはなかった。もしかすると翼が燃え尽きて地に落ているのかもしれない。
フェイヴァの胸中に失望が広がった。心のどこかでは自分も、リヴェンと同じように翼竜が舞い戻ってくることを期待していたのだ。
長い長い、吐息が聞こえた。ルカが俯けていた顔を上げる。
「俺が残る」
フェイヴァは表情を強張らせた。リヴェンがぎょっとした顔つきになる。ルカの横に膝をついていたハイネは、二人の比ではない驚愕を感じさせた。痩せ細った少女の手を握っていた彼女は、瞳を大きく揺らがせる。
「早くここから離れろ。お前らが逃げる時間くらいは稼いでみせるさ。ハイネ、アーティを頼む」
フェイヴァとリヴェンに顔を向けたあと、ハイネをしっかりと見据えて、ルカが言った。諦念が滲んだ笑み。
「駄目! ルカがこの子の側にいてあげて! わたしがここに残る!」
堪り兼ねた様子でハイネが叫んだ。悲鳴のような激しい声音だった。
フェイヴァはかすかな驚きを感じながら、ハイネの膝の上に頭を預けている少女を見た。顔に雨粒が当たるが、彼女は瞼を震わすことさえない。
――彼女がアーティなのか。何故今のような状況になっているのか、フェイヴァには皆目見当もつかない。
そもそも、何故ユニが殺されてしまったのか。アルバスが腕に抱え飛び去った人物は何者なのか。その答えの一片さえ掴むことができないのだった。多くの人を犠牲にして、彼らが成し遂げたかったことなど、理解できようはずもない。
「アーティはわたしのことがわからない。わたしよりも、ルカが一緒にいてあげたほうが、この子も安心できる」
「お前にそんな真似させられるか」
「……揃いも揃ってでかい口叩いてんじゃねえ、このクソ虫どもが。飛べねぇテメェらが残ったところで時間稼ぎになるかよ」
苛立ち混じりにリヴェンに一蹴され、ルカもハイネも表情を暗くする。リヴェンの言う通り、相手は空を自在に飛ぶ死天使だ。翼竜がないルカや翼の修復が完了していないハイネでは、足止めの役目を果たすことはできないだろう。
「もう力も使えねぇ。……終わったな」
己の手を握り締めて、リヴェンが苦々しげに口にした。
彼の言葉に、誰一人反論する者はいない。死天使の攻撃を凌ぐことはできない。自分の状態を痛いほどに理解しているのだ。
恐怖が震えとなってフェイヴァの身体を走る。
もう本当に駄目なのだろうか。こんなところで、みんな殺されてしまうのか。
(嫌だ)
彼らが死ぬことは、自分が死ぬことよりも堪え難い。
(私を受け入れてくれた人たちだもの。絶対に死なせない!)
空を飛べさえすれば。死天使をたった一人で引きつけて、五人を逃がす時間を稼げるかもしれない。それが可能なのは、今ここに一人しかいない。
あくまで可能性の話だ。たった一人ですべての死天使の足止めなどできるはずがない。けれども、敵が到達するまでの間、何もしないで座っているよりは遥かにマシだろう。死天使の翼は翼竜の飛行速度を上回る。おまけに四人とも傷を負っていて、万全の状態にはほど遠い。今から全員で走って逃げたとしても、焼け石に水。追いつかれるのがわずかに遅れるだけなのだから。
ミルラを守れなかった。サフィもユニも、救うことができなかった。訓練校でともに学んだ仲間たちも、逝ってしまった。
あまりに多くの人たちが唐突に命を奪われてしまった。それなのにこれ以上失ってしまうなんて。しかも、フェイヴァの正体を知っても離れずにいてくれた、かけがえのない友達なのだ。彼らを守れないなんて──自分が人よりも力を持つ意味があるのだろうか。誰一人助けることができないのなら、生きる価値はないのだ。
フェイヴァは、ルカとハイネに向き合った。
「私は三人のこと、詳しく知ってるわけじゃないけど……ずっと会えてなかったんでしょう? アーティちゃんには二人が必要なんだよ。お願いだから、この子をおいていなくならないで」
目をしっかりと合わせて、祈る思いで言葉を紡ぐ。
「最後まで、諦めちゃ駄目だよ」
立ち上がり、リヴェンとルカとハイネと、そしていまだに顔を伏せたままのレイゲンに、視線を移した。
「だって、私たちはまだ、生きているんだもの。……そうでしょう?」
仲間たちはきっと、抵抗したくてもできなかったに違いない。命は一瞬で断たれ、希望に満たされていた人生は途絶した。
彼らの代わりに生き残った自分たちができることは、最後まで戦い抜くことだ。命ある限り、何度でも立ち上がり、挑んでいく。
リヴェンが鼻で笑う。口許が皮肉げに歪んだ。
「大層なこと言いながら、ぶるってんじゃねぇか」
彼の指摘に、フェイヴァはひきつった笑みを浮かべた。いつもこうだ。辛いことや悲しいことがあったときに無理に元気に振る舞っても、すぐに見破られてしまう。
「わ、私は緊張してくると、産まれたての子牛みたいに足がガクガクしてきちゃうんだ! 決して怖いわけじゃないよ! もう、リヴェンの目は穴しかないなぁ」
「眼球がねぇじゃねぇか! なんも見えねぇ!」
慌ててごまかすと、リヴェンがいつもの調子でつっこんでくれた。
緊張が解れる。少しだけ、気が楽になった。これでいいのだと一度心を決めると、強い使命感だけが身内を満たす。
恐れは霧散した。身体はもう震えない。
リヴェンは傍らに落ちていた大剣を掴むと、立ち上がった。ハイネはアーティの手を離すと、ルカと頷きあう。
「最弱のテメェにケツ叩かれるようじゃ、オレも終わりだな。どうせ行き着く先は同じなんだ。……だったら、最後まであがいてやるよ」
「うん! その意気だよ!」
傷を負い普段の力を出すことができなくても、戦う意思を持ち続けていた方が生存確率は上昇するはずだ。諦めてしまえば、そこで終わりなのだから。三人はきっと戦い抜いてくれるだろう。あとは――。
フェイヴァは首を巡らせると、四人の脇を通り過ぎた。レイゲンは一人、座り込んでいる。
彼は項垂れ、身動ぎすらしない。青藍色の髪が瞳を隠している。身体の痛々しい傷以上に、レイゲンの心は傷ついてしまっているのだろう。今まで誰にも負けたことがなかった彼が、生涯を懸けて倒すと誓った相手に一撃も浴びせることができなかったのだから。プライドは粉々に打ち砕かれてしまった。
でも、それでも、立ち上がってもらわなければ困るのだ。レイゲンの力がなければ、敵を掃討することはできない。
「……レイゲンさん」
かけた声は、自分でも驚くほどに小さい。うちひしがれた彼の姿に、フェイヴァは動揺していた。これではまるで彼に哀願しているようだ。いつもみたいに助けてほしいと。
フェイヴァが心に深い傷を負ったとき。虐げられ、死を覚悟したとき。レイゲンはいつもフェイヴァを助けてくれた。フェイヴァはいつのまにか、彼を頼っていたのだ。圧倒的な力に無意識に甘えてしまっていた。
そんな弱い思いは捨てなければならない。
「放っとけ。完全に戦意喪失しちまってる。役には立たねぇよ」
リヴェンの無慈悲な言葉を無視して、フェイヴァはレイゲンの手を握った。身を乗り出して、顔を覗きこむ。
『お前、その馬鹿丁寧な喋り方やめてみたらどうだ? もうお前だけだぞ、こいつにそんな面倒臭い話し方すんの。
な、お前もその方がいいだろ?』
『……勝手にしろ』
『……こ、心の準備ができたら、ということで……』
日常の一場面が、ふっと頭の中に蘇る。何故こんな時に決心を揺らがせるように、過ぎ去った光景が思い浮かぶのだろう。
「レイゲン」
力をこめて名前を呼んだ。彼はかすかに肩を震わせ、そして顔を上げた。自失したような赤い瞳と、正面から視線を合わせる。
「諦めないで」
重ねた手を、ぎゅっと握った。
「たった一度の敗北で、自分に負けてしまわないで。あなたは、自分が思っているよりも、ずっとずっと強い人。何度だって立ち向かっていける。だから、簡単に諦めてしまわないで。最後まで生き残る道を探して、あがいて」
涙がこみ上げる。こぼれ落ちそうになる滴を、唇を噛み締めて堪えた。
「私……」
言えなかった。
思いは言葉にならず、胸の内に帰っていった。
レイゲンのことが大好きだったユニは、血の池に横たわっている。彼女を前にしてとても伝えられない。それに、死に行く者の思いなど形にしたとしてどうなるというのだろう。彼の重荷になるだけだ。
「みんなを連れてここから離れて。生きて、ほしい」
だから代わりに、精一杯の感謝の気持ちを。
「今までありがとう。あなたに出逢えて、よかった」
彼が何事かを口にする前に。手が伸ばされ、衣服を掴む前に。フェイヴァは一人、飛び立った。




