23.失望
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眩いばかりに輝いていた太陽は、雲の中に隠れていた。果てなき平原には、薄く影が落ちている。
レイゲンは体勢を低くし、翼竜をひたすらに疾く羽ばたかせた。群青色の鱗に覆われた翼は、大きく振るわれるたびに皮膜が空気を叩き、力強く前進する。青藍色の髪が乱れ、視界を過った。
度重なる死天使と魔人との戦闘。フェイヴァを守り、リヴェンを援護しながら敵を退けたレイゲンだったが、蓄積した損傷と疲労は、隠しきれないほどに肉体を蝕んでいた。呼吸は荒くなり、身動ぎするたびに全身に刺すような痛みが走る。着込んでいる軽鎧は傷だらけになっており、あと一二撃受ければ、ただの鉄片と化してしまうだろう。
レイゲンだけではない。前方をひた向きに飛ぶフェイヴァも、簡素な服がところどころ破けてしまっている。一見、純白の翼は重さを感じさせぬ動きをしているが、翼竜が離されることなく追行できていることを考えると、痛みを堪えて飛行しているのだろう。
横を行くリヴェンも同様だった。全身が血と泥にまみれている。裾がぼろ切れと化したジャケットから覗く腕には、出血の跡がある。目つきは常時とは比較にならないほど険しく、眉間に刻まれたしわが体力の低下を雄弁に語っている。
特殊能力のすべてを深層意識に埋没させているレイゲンと違い、二人は自己再生能力によって傷が塞がっているが、それが却って色濃い消耗をもたらしているように思えた。
レイゲンたちは、平原の中間地点に差しかかった。眼下に広がる緩やかな丘。周辺には疎らに木々が生える。草が、海原めいてそよぐ平原の中にあって、特徴的な風景だった。
フェイヴァは唐突に制動する。大翼が彼女を空に繋ぎ止めるために、強くゆっくりと羽ばたく。
「フェイヴァ、どうした!?」
背に問いかけるが、返答はない。次の瞬間、フェイヴァは鋭く翼を翻すと、桃色の長髪を振り乱しながら急降下した。
「ユニッ!」
名を呼ぶ声は絶叫に等しく、虚空に響く。
レイゲンとリヴェンは彼女のあとを追う。視界が捉えたのは、地上に直立する四人の人物と、草の上に横たわる黄金色の髪の少女。リヴェンが小さく舌打ちする。
着地したフェイヴァは、ユニに駆け寄ることができずに、膝から崩れた。
ユニから流れ出る血は、草を黒く染めながら地表に染み込んでいく。誰の目から見ても明白だった。彼女の命は、すでに失われてしまっている。
「ああ……っ!」
後悔と悲哀が入り交じった、か細い声だった。立ち上がる気力さえ打ち砕かれたのか、フェイヴァは蹲ったまま肩を震わせる。
レイゲンは翼竜から飛び降り、フェイヴァの前に立ち塞がった。横に並んだリヴェンが、背中の鞘から大剣を引き抜く。
(何故、ユニを……!)
レイゲンは拳を強く、握りしめる。
敵の目的が掴めない。殺害するために、わざわざ連れ去ったというのか。死天使と魔人を使って。
事切れたユニの瞳からは、光が消えていた。
廃墟となったペレンデールの農地区で、気持ちを伝えてきたユニの表情が思い出された。彼女に対し、苛立ちや怒りを覚えたことはあった。しかしフェイヴァとユニの関係が悪化する前までは、彼女は間違いなく自分の友人の一人であったのだ。
ユニだけではない。サフィも。そして、訓練校の生徒と教官も。あまりに多くの人間が死んでしまった。
視線を素早く、周囲に走らせる。
遠くに見えるのは、黒いフードで顔を隠した人物だった。棚引く裾の下に覗く足は細く、小柄な体格は子供のように見える。石をくり貫いて造られた長方形の箱の前に立ち、微動だにしない。
続いて目線を、眼前に立つ三人の人間に固定する。
武器を手にしたメリアとワグテイル。二人を従えるのは、片時も忘れたことはない、男の姿だった。
「久しぶりだな、我が息子よ」
低音でありながら良く通る声で、男が手を差し伸ばす。自分より赤の色味が強い瞳が細められ、凶悪な表情が顔に張りつく。
あの日から十年が経過したというのに、記憶に刻みつけられた姿と、さして変わっていない。時を止めたようにある男の容貌が、身に宿した人とは異なる力を、強調していた。
「お前が、殺したのか」
何故この場所にいるのか。疑問を深く考える間もなく、捨てる。
わななくほどの衝動が、身内から込み上げてくる。それは憤怒か。それとも、悪夢のような幼少期をもたらした男を、自分の手で殺せる高揚だろうか。
「そうだ。……この娘の人生は、死によって初めて意味を成した」
ユニを一瞥した双眸は、人間の情というものをわずかも滲ませることはなかった。口の端を歪ませ発した言葉は、人の命そのものを嘲弄する調子が込められている。
扉に鍵をかけ、厳重に封印していた記憶が、レイゲンの脳裏に蘇る。傷つき、涙し、人生に絶望した遠き日の情景が。
罪のない人間たちを自らの欲望のために利用し、自身の妻さえも人外の身に墜したこの男を、許すことはできない。
レイゲンは雄叫びをあげ、アルバスに肉薄する。間合いを一息で詰め、大剣を振り抜いた。
――それは、苦節を経たレイゲンの、万感を込めた一撃だった。
烈々たる剣気は、周辺を圧する。草は薙ぎ払われ、木の幹は裂け、枝は折れ飛んだ。抉られた地面から砂煙が舞い上がり、レイゲンの視界を曇らせる。
振り抜ききった刃。しかし、肉を斬り骨を断った手応えがない。
刹那、総毛立つような感覚に襲われる。間近に迫った気配に振り向く前に、腹を強か蹴られた。レイゲンは吹き飛び、木に叩きつけられる。内臓が破裂したのでは、と感じられるような衝撃が全身を襲う。レイゲンを受け止めた幹は、悲鳴を上げて真ん中から裂ける。木は完全に真っ二つになり、支えを失ったレイゲンは、辛うじて剣を突き立てて、地に足をつける。
「久しぶりに遊んでやろう。お前の成長を私に見せてみろ」
余裕然とした笑みを湛え、アルバスが手招きする。闇で紡いだような漆黒のガウンには、傷ひとつない。
その背後では、リヴェンがメリアとワグテイルを相手にしていた。ワグテイルが放った火球を間一髪で回避し、リヴェンは雷撃を放つ。距離を詰め斧を走らせたメリアと、大剣を噛み合わせた。
フェイヴァは蹲ったまま、動く様子がない。ローブを纏った小躯も、箱の前で佇むばかりだった。
レイゲンは両足に力を込め、蹴りつけた。足下は陥没し、身体は疾風と化して前方に押し出される。
振り上げた剣は、残像を残して躱される。動きを目で追い、刃を走らせる。薙ぎ、振り下ろし、突き。大剣を片手剣と同様に取り回し、かつ重量で速度を落とすことなく斬り込んでいく。しかし、そのどれもがアルバスに掠りもしなかった。
動揺しそうになる精神を、意志によって強引に捩じ伏せる。自分を律することができなければ、どう足掻いてもこの男を殺すことはできない。
剣を繰り出しながら、レイゲンはアルバスの動きを観察していく。刃が触れる前に残像が残るほどの速度で移動する。瞬間的な移動は、どうやらごく短い距離に限定されるようだ。さきほどからレイゲンの周囲に現れては、消えを繰り返している。逸る気持ちを抑えて、動作を注視し続けていると、その動きに規則性を見出だすことができた。
――ならば。レイゲンは足下を蹴り上げた。地が砕け、土塊が弾丸と化しアルバスに襲いかかる。
風を切る音を残し、アルバスが回避する。残像が消える――その一瞬。アルバスの移動位置を予測し、背後に回り込む。
振り向く前に、首に高速の剣を叩き込む。
硬質な音が、一際大きく差し響いた。
空中に浮かぶ暗紫色の盾が、レイゲンの刃を阻んだのだ。アルバスの首の横に構築された正方形のそれは、薄く脆く見えながら一本のひびさえ生じることはない。
「そろそろ本気を出したらどうだ?」
どんなに力を込めても砕けることはない盾を目に焼きつけて、レイゲンは奥歯を噛み締める。
異なる角度から、苛烈に大剣を振るう。接触する直前に盾が展開され、剣撃はことごとく防がれる。
(何故だ!? 何故、届かない!?)
手を抜いているのではない。人間としての平穏な生活が壊されたあの日に、肉親に対する情は捨てたのだ。
万全な状態ではない。戦いを経て負傷している。しかしそれは、易々と攻撃を防がれる決定的な理由にはならない。
これほどまでに、自分とアルバスの間に実力差があるとは。信じられなかった。信じたく、なかった。
刀身と盾が幾度もかち合い、甲高い音が鳴り響く。
「膂力、反応速度、脚力――どれも期待した領域に達していない。これがお前の、十年間の集大成なのか?」
アルバスの周囲の空気が揺らぎ、煌めきとともに六本の剣が生成される。薄暗く景色を透かす刃は、ゆっくりと旋回し、立て続けに射出される。
回避動作に移った時には、すべてが遅すぎた。風のように速く鋭利な切っ先は、レイゲンの身体を斬り裂いていった。吹き上がった鮮血が、視界の端に映る。
倒れかかったところを、渾身の力で殴りつけられて宙を舞う。視野に映る何もかもが遅々としていて。地面に叩きつけられた衝撃は凄まじく、身の内に響いた痛みが一瞬、頭の中を白く染めた。
喉を焼く呼気だけが、己が生きている証だった。
千切れた草と土煙が舞う中を、アルバスが悠然と歩いてくる。
子供らしさを捨てて、人間らしく生きることを諦めた。記憶の中の、身の毛のよだつようなアルバスの笑み。かつて親愛を向けていた男の顔を、完膚なきまで叩き潰すために、剣の腕を磨いた。どれほど時が経とうとも、憎みは去らなかった。殺すために、強くなりたかったのだ。
(こいつを殺せるなら……死んでもいいと、思っていたのに)
復讐を誓い生きてきた十年間を、否定された瞬間だった。
はためく裾が、視界の隅に映る。冷徹な眼差しがレイゲンに注がれ、男の意思を反映した剣が、切っ先を一斉に下に向ける。
研ぎ澄まされた刃が動く――その時、金属音が間近で響いた。残響が木々の間に消えてゆく。
背後からアルバスに襲いかかったのは、フェイヴァだった。背中に振り下ろされた大剣はやはり、盾に受け止められる。
「よくもユニを……!」
「テレサが生み出した人形か」
振り向くことなく、剣だけが方向転換し背後に放たれた。フェイヴァは血飛沫を上げる。幹に叩きつけられ、葉が激しく揺れた。
「フェイヴァ!」
「人間にも劣る劣等種が。お前の出る幕はない」
フェイヴァは地面に倒れこむ。剣を支えに立ち上がろうとするが、呻き、膝をついた。
横顔に冷笑を浮かべたあと、アルバスはレイゲンに向き直る。
「お前には私に迫る力を与えているはずだ。なのに、何故遣わない。力を抑えて勝てると思えるほど、愚かではあるまい」
レイゲンは詰めていた息を吐き出した。大剣の柄を握り、激痛に挫けそうになる足を踏み締めて、立ち上がる。
「……それとも、いまだにつまらぬ感情に囚われているのではないだろうな」
――つまらぬ感情。刃に貫かれ、茫然とした声を漏らした母。黒々とした髪の間から覗く、白い面。差し伸ばされた弱々しい手。
「黙れっ!」
激情が、身体の芯を熱くさせる。怒りに突き動かされるままに振るった大剣は、アルバスに届く前に動きを止めた。
鮮烈な痛みが、突き抜ける。アルバスが放った剣が、レイゲンの胴と足を貫いていた。レイゲンはよろめき、倒れた。溢れた血の上に、顔を浸す。
「それがお前の弱さだ、レイゲン」
堂々と屹立する風采は、峻険な山のように、レイゲンを見下ろしていた。




