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機械仕掛けの天使は闇夜を翔る  作者: 夏野露草
9章 曙光散らす 死の翼
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22.深き淵の煉獄


 ◆


 澄み渡った青がどこまでも続く空。天上から柔らかな陽光が降り注いでいるが、ユニはその温かさを、わずかも感じ取ることができなかった。


 それどころか、殺戮兵器に抱えられている恐怖も、見知らぬ場所に連れていかれる不安も、抱くことはない。


 閉じた世界の中。連れ去られる間際に見た光景が、繰り返されている。サフィが殺される、まさにその瞬間。彼が大剣に貫かれ、おびただしい血を流すさまが。 


 大切な人がまた、自分を守るために逝ってしまった。


 目前に横たわる整然とした事実を、ユニはいまだ飲み込むことができないでいた。


 耳には、翼が空気を叩く音だけが聞こえている。


 訓練校を発って以降、死天使は飛行を続けている。ユニは整った容姿をした男に、抱かれたまま抵抗しなかった。助かるために手を上げることもなければ、振り落とされないようにしがみつくこともない。


 そのまま虚空に放り出されて、地面に叩きつけられたとしても、一向に構わなかったのだ。しかしユニの思いも虚しく、死天使はユニが腕の中から落ちそうになるたびに、しっかりと抱え直した。


 道中何度か、数人の死天使や翼竜に跨がった人間たち――おそらく魔人――とすれ違う。彼らは何を言うでもなく、ただ死天使とユニを見送った。


 空中に点在する飛行部隊。それが何を意味するのか、茫然とした頭では理解することができなかった。


 通り過ぎていく地上の緑だけが、ユニに時間の経過を知らせていた。


 ただ足下に視線を向けていたユニは、やがて鈍っていたじょうしょを捉えられるようになっていく。


 ゆるゆると、現実感が押し寄せてくる。


 感情を失っていた胸中に、目が覚めるような痛みを感じた。


 それは、永遠の喪失を自覚した瞬間だった。


 心を開いた大切な人たちは、みんな自分のために犠牲になってしまったのだ。もう二度と会えない。取り戻すことはできない。


 千々に乱れた心が涙となって、頬を幾筋も流れていく。


 頭痛を生じさせるほど泣いても、涙は枯れる気配がなかった。




 やがて、前方になだらかな丘が見えた。丘の上には樹木が群生し、秋の装いをした葉をそよがせている。


 死天使は、ゆっくりと降下した。


 眼下には四人の人物が立っている。そばには、人一人が横になれるほどの石製の棺が置かれていた。


 距離が近づくにつれ、彼らの顔がはっきりと認識できるようになる。死天使はユニを草原に降ろすと、元来た空の道を引き返して行った。


 たった一人おいていかれたユニは、近づいてくる人物たちの方を向いた。


 傷つき嘆いていた精神は、悲しみ以外の感情を取り戻した。――純子たる恐怖を。


 鶏の鶏冠を思わせる髪型をした、半裸の男。豊満な胸の上に淡い色のケープを纏い、光沢を放つスカートの下からほっそりとした足を見せている女。フェイヴァを連れ去り暴行した、ワグテイルとメリアの姿がある。


 彼らは、長身の男の両脇に控えていた。


 黒曜石の色をした長髪を、後ろに撫でつけた男。身に纏った漆黒のガウンから、鍛え上げられた上半身が覗く。鷹のように鋭く油断がない双眸は、引き締まった顔面の中にあると、冷然な印象を抱かせる。深い瑠璃色に交ざるのは、人の血色に似た深い紅。


 ユニが見慣れた、虹彩の色だった。瞳の色だけではない。容貌までもが、ユニの思い人を連想させる。


(この人、レイゲンに似てる……)


 ワグテイルよりも大柄な身体つきをした、壮年の男。レイゲンがあと十ほど歳を取れば、彼とそう変わらない容貌になるのではないだろうか。


「やっと……逢えたな」


 男の発した低音は、音を立てて吹き渡っていく風の中であっても、鮮明にユニの耳に届いた。


 死天使に抱えられて以降、心の奥底に引っ込んでいたディヴィアが、顔を上げる。魂だけの存在でしかない彼女がそのような動きを取るというのは、ユニの想像――妄想でしかなかった。だが、強く感じるのだ。ディヴィアの魂が、目の前の男に強烈に引きつけられているのが。


「最初は興味深い研究対象でしかなかったお前は、いつの頃からか私の夢の中にまで現れるようになった。屍が散乱する世界に君臨するお前は、私が理想とする究極の生命体だ。私はお前に近づくために、人間を超越した。そして今、機は熟した! その愚鈍な肉体を捨て、再び人の世に蘇る時が来たのだ!」


 切れ長の瞳は、落ち着きなく揺らいで見える。口許には奇妙な笑みが張りつき、男の声は段々と興奮の色を帯びていく。ユニは顔を引き攣らせて、後退した。


 一体この男は何なのだ。明らかに正気ではない。


「何なの……!? アタシに何をす」

「口を慎みなさい、人間!」


 メリアに高圧的に怒鳴られて、身がすくむ。


「入れ物風情が。私が用があるのはお前ではない。お前の中に眠る妖魔の王、ディヴィアだ」


 先ほどまで声音が孕んでいた熱は、嘘のように消え失せる。言葉を斬りつけるかのごとく発した顔貌には、一片の慈悲さえ滲んではいなかった。


 何故ディヴィアのことを知っているのか。疑問に深く囚われている暇はないと、ユニは直感する。これから自分が何をされるのか。容易く予想できたからだ。


 ここから、逃げなければ。


 ユニはゆっくりと後ろに下がっていた足を、方向転換させて駆け出した。いくらも走らない内に腕を取られ、引き寄せられる。唇から悲鳴が漏れた。


「逃げんなよぉ。まだありがたーい話の途中だろうが」


 ワグテイルが、にやついた顔で覗きこんでくる。ユニは滅茶苦茶に腕を振り回すが、全く効果がない。彼は片方の眉毛を釣り上げて、小馬鹿にするように笑った。腕を捻り上げられて、無理矢理正面に身体を向けられる。


「じたばたすると、この綺麗な腕がへし折れるぞ」


 自分の行く末を思うと、奥歯が震えだす。上手く息ができない。腕の痛みすら、些細な問題と言えた。


(お願い、助けて……!)


 サフィを見殺しにしたディヴィアに、震えながら助けを乞う自分。わずかな嫌悪も情けなさも感じることができなかった。ただ、この異常な状況から脱したい。その一心だったのだ。


「待って、ください」


 草木の奏でる音の中に、消えてしまいそうなほど小さな声。


 ユニの願いを聞き届けたのは、ディヴィアではなかった。腕が折れそうなほど苦痛を訴えているというのに、ユニに返答せず、男の出方を窺っていた彼女は、声の主に意識を向けた。


 メリアとワグテイルの更に後ろから進み出たのは、黒いローブを着た小柄な人物だった。体躯と声からして、少女だと推測できる。袖から出ている手足は細く、病人のように白い肌色をしていた。すっぽりと被ったフードの中から伸びる、茶色がかった金の髪は整えられておらず、彼女の面をほとんど隠してしまっている。髪の間から見える琥珀色の瞳には、色濃い恐怖が滲んでいた。涙が今にもこぼれ落ちそうなほどに。


「この人の命を奪うのは、やめてください。どうか、どうかお願いします」


 少女はユニと男の間に立つと、両手を広げた。男の羽虫を見るような眼差しを、真正面から受けている。


 ユニは、少女の足が小さくわなないているのに気づいた。見ず知らずの彼女は、恐怖を押してユニを助けようとしているのだ。だが、何故。


「アーティ、血迷ったことを言うのはやめなさい! せっかく生き長らえた命を、無駄に散らすことになるのよっ!」

「この半端もんが! 何度言って聞かせりゃ学習すんだ!? もっと痛い目に遭いてぇのかっ!」


 メリアとワグテイルに怒鳴られて、アーティと呼ばれた少女は大きく身体を跳ねらせる。けれども、震える足は依然としてその場を動こうとしない。


 ワグテイルは舌打ちすると、ユニを掴んだままアーティに近づいた。それを手で制したのは、長身の男だった。


「反抗的な個体は、無力を自覚させ従順に仕付けろと言ったはずだが」

「申し訳ありません。その個体の体力は、魔人の平均値を著しく下回っております。通常の教育方針ですと、死亡してしまう恐れがあります」


 メリアは唇を噛みつつ、男にこうべを垂れる。


「こいつは明らかに出来損ないですよ。実験の時もバテてやがったし、あと二、三回力遣ったら、くたばりますって」


 今の内にワグテイルの手を引き剥がそうとしていたユニは、彼のぎこちない喋り方にぎょっとした。ワグテイルが、他者に対しへりくだった態度を見せるなんて。きっと、凶悪さでは右に出るものがいない彼を、越えるほどに恐ろしい人間に違いない。


「よりによって成功したのが、この脆弱な個体とはな。だが、今はこれ以外に駒がない。存在理由は全うさせなければな」


 男はアーティに近づくと、髪の房を掴んだ。小さな身体は、男の太い腕にかかると、まるで小動物のように易々と持ち上げられる。木の枝に劣らないくらい細い足が、宙で揺れる。


「私がこの時のために、どれほど面倒な手順を踏んできたか……邪魔をするというのなら、相応の覚悟はできているな」


 アーティは何かを言おうとしたらしい。口を喘がせるが、歯が鳴り、上手く発声することができなかった。


 男はアーティを、地面に叩きつけた。痛みに呻く彼女の腹を、執拗に蹴る。


 ユニは全身を硬直させ、顔を背けた。瞼をきつく閉じると暗闇の世界が広がり、アーティの切迫感のある悲鳴だけが聞こえてくる。それは弱々しくなるどころか、絶望を内包した絶叫に変わった。およそ、弱々しい印象を抱かせる少女の口から発される声とは、とても思えない。怯える獣の鳴き声だった。何をされているのか、見ることさえ恐ろしく、想像したくもなかった。


 喉が枯れ声が掠れて、喘鳴のような小さな呻きに変わるまでに、大した時間はかからなかった。


 何かが風を切りたかと思うと、どん、と重量のあるものが落下する音が響いた。


「治せ」

「かしこまりました」


 おそるおそる瞼を持ち上げると、放心したように空を見上げるアーティと、彼女の傍らに腰を下ろすメリアの姿があった。


 アーティの四肢は折られ、身体の横に投げ出されている。腹や肩にも深い傷を負っており、大きく開いた傷口から流血している。彼女は痙攣しながら、口から血を吐き出し続けていた。呼吸は今にも死に絶えそうなほど、かすかに耳に届く。


 メリアの周りに、水色の冷光が散る。アーティの身体の傷は、みるみる内に塞がっていった。慈愛の微笑みを浮かべて、メリアは赤い唇を開く。


「これでわかったわね。あなたには、わたしたちに従う以外に選択肢が残されていないの。あなたがまだ拒否するというのなら、苛烈な行為も辞さないわ。気を失ってもすぐに起こしてあげるし、ちゃんと発狂する寸前を見極めるから」


 アーティは答えない。ただ、瞳からぼうと涙を流し、自らの血に染まった顔で頷くだけだった。


 あまりに異様な光景だった。この場所には、自分が理解できる人間は誰一人いない。今まで命の危機を感じたことは何度もあったが、これほど心の底から逃げ出したいと感じたことはなかった。



「この娘は器人だ。今から入れ物の生命を断ち、お前の魂を取り出し肉体に移す。その棺の中で眠っている。妖魔と魔人を掛け合わせて創った、お前に相応しい身体だ」


 男は顎をしゃくって斜め後ろを示した。石の棺に被せられた蓋には、一ヶ所切り込みが入っており、外気を取り込めるようになっている。


 男のでたらめとしか思えない話は、途中からユニの耳の中をすり抜けていくだけだった。刻々と近づく死を意識し、肩を震わせる。


 ワグテイルの握力は凄まじく、振り払うことは不可能だった。身動きを封じられ、最早許される動作は、死の間際に瞼を閉じることくらいだろう。


「違う!」


 凍りついた喉から、精一杯の否定の叫びを絞り出した。


「何か勘違いしてるんでしょう!? アタシはあなたが言ってることなんて知らない! 関係ないっ!」


 男は鋭い犬歯を覗かせて、不気味に笑った。


「言い逃れが通用するとでも思ったのか? お前の過去は調べがついている。十に満たない覚醒者が、人を殺傷するほどの力を使いこなせるものか。しかもお前は、訓練校にいる間一度たりとも自らの意志で力を遣ったことがないのだろう。何より――私が夢見たディヴィアの容貌に、お前は驚くほど似ている」


 一歩一歩、男は歩を進めてくる。背の低い草を掻き分けて近づいてくる靴音は、心の薄皮を一枚ずつ削り取っていくように感じられた。


 こんな運命を許容できるわけがない。死にたくない。まだ、何もしていない。けれど、非力な自分では何もできない。


(助けて! お願いっ!)


 目を閉じて、自らの内側に叫ぶ。


 狂乱しそうなほどの恐怖は、ユニの中にいるディヴィアに直接響いているはずだ。ユニに命の危機が迫れば、彼女は必ず行動を起こす。


(見てるんでしょう!? 早くこいつらを殺してよ! アタシが死ねば、あんたも死ぬのよ! それとも、あの男の馬鹿馬鹿しい話を信じるの!?)

(……私が誰を信じるかなど、最初から決まっている)


 やっと言葉を発したディヴィアに、ユニは救われたような気分になる。彼女が自分を裏切ることなど、ありえないのだから。


(今まで世話になったな)


 冷たい衝撃が全身を駆け巡って、ユニは瞠目した。目の際に盛り上がった涙が、瞬きとともに流れ落ちていく。


(お前を庇って犬死にした人間たちには、同情を禁じ得ない。いずれ死ぬ人間のために、命を捧げたのだから。私にとってお前は、退屈しのぎにはなるが、所詮は窮屈な入れ物でしかない。お前のことは、印象深い入れ物の一つとして記憶に留めておくとしよう。……さらばだ、ユニ)


 ディヴィアの声が脳裏で響き終わらぬ内に、視界の端で鋭い光が走った。


 自分に向かって突き進んでくる半透明の刃。それは陽光を照り返し、薄紫に光る。


 ただ大きく、身内を震わす衝撃があった。


 痛みもなく意識が狩り取られ、あとには無という名の静寂が残る。



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