02.決断の時
「そんなこと、できるわけないよ。私は死天使なのに、普通の人のみたいに学校に通うなんて……」
「私はあなたができないことは言わないわ」
テレサはまっすぐにフェイヴァの瞳を見すえた。フェイヴァは反対に、彼女の顔に目を向け続けていることができなかった。机の木目に視線を落とす。
「そうやって自分を決めつけてしまうのが、あなたの悪いところよ。私はあなたと一年間を過ごしてきたわ。だから自信を持って言える。あなたが努力すれば問題なく人の中でやっていけるわ。怖がっては駄目。自分の殻を破らなければ」
本当は心のどこかで、テレサ以外の人に受け入れてもらうことを望んでいる。ともに笑い悲しみを分かち合いたい。しかし、憧れは強大な恐れに踏み潰されてしまう。矮小な自分から脱却しなければならない。わかってはいるが、どうしても恐怖の先に向かうことができない。
「それに私たちはもう、彼らに大きすぎる借りを作ってしまっている。この一年間、私たちを都市に移り住ませる間、彼らが何をしてくれたか知っている?」
「まさか……」
「彼らは私たちの平穏を守るために犠牲になったのよ。ディーティルドの兵器の力は圧倒的よ。彼らは人間とは隔たった場所に立っている。人間がどんなに鍛練を積んだとしても、少数で死天使を打ち倒すことは不可能なのよ」
見知らぬ兵士が自分のために殺されたのだと思うと、胸がわずかに傷んだ。彼らはどんな思いで死んでいったのだろう。できることならその命を、罪のない善良な市民を守るために使いたかったはずだ。人もどきのためではなく。
「私たちのために、どうしてそこまでするの?」
「彼らは私の技術が欲しいのよ。私は死天使の小片を書き換えることができるから。技術提供をする代わりに、ディーティルドからの逃亡の協力と、一年間の私たちの保護を頼んだの」
「……お母さん」
「悔しいけれど、私だけではずっとあなたを守り続けていくことはできない……。私は反帝国組織に行かなければならない。監視は解かれるでしょう。そうなれば、あなたはディーティルドに襲われる。あなたも、彼らの目が届くところに行かなければならない。一月の間、彼らが駐屯するダエーワ支部にお世話になりなさい」
理屈は理解できる。テレサと離れてひとりきりになった自分が、ディーティルド帝国から逃げられるとは思えなかった。何より、知らない人ばかりの世界に取り残されれば、自分はどう生きていけばいいのかわからない。
「私、怖いよ……ひとりになりたくない……」
テレサが椅子から離れ、フェイヴァを抱きしめた。フェイヴァは彼女の胸に顔を埋める。
やはり、許されないことなのだろうか。人と違う自分が、人並みに幸せになりたいだなんて。
(私は、お母さんとずっと一緒にいたい。ただ、それだけなのに)
「辛い思いをさせて、ごめんなさい。私もあなたと一緒にいたい。けれど、この状況下では、人の手を借りる他ないの。全てを終わらせて、私はあなたを迎えに行くわ。だからしばらくの間、堪えてほしいの……」
思い通りにならない現状に、あるいは自分の無力さに、テレサの身体は震えていた。フェイヴァは母の身を切るような悲しみと、自分に向けられる深い愛情を感じ取ったのだ。
(私たちは本物の親子じゃない。それなのに、お母さんはこんなにも私のことを想ってくれている)
一方自分はどうだろう。フェイヴァは自分のことだけしか考えていない。寂しい思いをしたくないから、訓練校でやっていける自信がないから。内面に釣り合った子供じみた思考だ。
「……泣かないで。私は大丈夫」
テレサが励ましてくれるように、フェイヴァは力強く発した。
「いつまでも、子供みたいなことを言ったら駄目だよね。私は十六歳なんだから。強くならなくちゃ」
「……フェイ」
「私、頑張ってみる」
***
「お母さん。気をつけてね。また二人で、一緒に暮らせるよね?」
「……当たり前よ。心配しないで」
涙があふれそうになって、フェイヴァは顔を歪めた。
(泣いちゃいけない。小さな子じゃないんだから)
「そう。泣いては駄目よ。大丈夫、寂しくはないわ。離れていても、私とあなたは繋がっている。あなたの無事をいつも祈っているわ」
「お母さん……」
「主よ。娘の行く道を、絶えざる光で照らしたまえ」
夕方に到着した反帝国組織の兵士に連れられ、テレサは出て行った。別れ際、聖王神にフェイヴァの無事を祈って。
フェイヴァの行く先はテレサとは違う。ディーティルド帝国の襲撃を警戒して、フェイヴァは明日の朝に迎えがくることになっていた。
荷造りにさほどの時間はかからなかった。テレサに買ってもらった教本と読みかけの本。着替えを鞄に詰めこむ。それらすべてに母との思い出がつまっていて、別れて一日も経っていないのに泣いてしまった。
夜の帳が空を覆う中、静かな家の中でひとりきり。遠くに鳥の声を聞きながら、込み上げる心細さにフェイヴァは身体を丸めて眠った。
***
鐘を打ち鳴らす甲高い音が、フェイヴァの意識を揺り動かした。
「なになに!?」
驚いて飛び起きたフェイヴァは、勢い余って床の上に転げ落ちた。
「くぅ~!」
額を撫でながら起き上がる。
窓を見ると、空に滞っていた闇は青白い光に追い払われようとしていた。夜が明けていない時刻にも関わらず、市民の眠りを妨げるほどの音量が鳴り響いている。理由は一つしかない。
「魔獣が、入って来たんだ……!」
このような経験は初めてではない。テレサがそばにいてくれた頃は、鐘の音がやむまで家でじっとしているように教えられた。魔獣が居住区に近づいているときは、武装した守衛士に避難誘導をしてもらう。そうやって事なきを得てきた。
今回も同じように家から出ないことだ。それは当然の選択だった。いつまでかかるかわからないが、鐘は止むだろう。守衛士の命を犠牲にしたあとに。
一度、魔獣の討伐が終わった直後に家の外に出たことがある。血糊が付着した道。魔獣の牙や爪によって、亀裂が生じている塀。近所の人の噂を耳に挟む。誰が死んで誰が生き残ったか。
外敵との戦闘は命の危険が伴う。襲撃があるたび、多かれ少なかれ人は死んだ。
(部屋の中で鐘が止むまで待っている。……それでいいの?)
自分は無力な娘ではない。人よりも力があり、傷を受けても再生する。純白の翼は空を翔る。それなのに、何もせずに事が済むのを待っていていいのか。自分が戦えば、助けられる命があるかもしれないのに。
『相手が怖いからといって避けたり、わかってくれないと決めつけては駄目よ。それはそのままあなたに返ってくるのだから。人はひとりでは生きていけないわ。まずは歩み寄ってもらおうとする努力が必要なの。そうすれば絶対に、あなたにとって大切な人が増えていくはずだから』
これから自分は、たったひとりだけで見知らぬ人々の中に入っていかなければならないのだ。寂しくても傷ついても、慰めてくれる人はいない。テレサはもう、離れた場所に行ってしまったのだから。
(確かに人は怖い。でも、こうやって自分から避けていても始まらない。もしも殺されそうになっている人を助けられたら、受け入れてもらえるかもしれない。人の輪の中に、入れてもらえるかもしれない)
手早く身支度を整えたフェイヴァは、扉を開けた。全速力で駆けようと踏み出したとき、視界に影が被さった。
「ぶふっ!?」
「っ!?」
顔面が何かに激突する。勢いそのままに跳ね返り、フェイヴァは転倒した。
「あいたっ!」
「一体何をやっているんだ、お前は」
呆れた声音が降ってきて、フェイヴァは顔を上げた。扉を背にして立っていたのは、見覚えのある青年の姿。だが、瞳に焼きついていた容姿とは少し違っている。一年という時の経過が、元々高かった彼の背を更に伸ばし、目つきを鋭くしている。虹彩の赤が一段と強くなっているように見えた。
「……お久しぶりです」
レイゲンはフェイヴァより頭一つ分ほど背が高い。立ち上がって頭を下げると、フェイヴァはまるで自分の身長が縮んでしまったような錯覚を覚えた。
一年前から無愛想ぶりに変化がないレイゲンが、親しみを込めた挨拶を返してくれるわけがないと思っていたが、彼の顔つきはフェイヴァが予想していたより更に不愉快そうだった。
「親しく声をかけてくるな。行くぞ」
そっけない声で言い、レイゲンは踵を返した。フェイヴァは思わずため息をつきそうになる。
(……相変わらず顔が怖い)
家の外に出て扉を施錠した。レイゲンを振り向き、広い背中に声をかける。
「……あの、少しだけ待っていただけませんか?」
「そんな暇はない」
「じゃあ、先に行っていてください。私、今から守衛士の人たちを助けに行きます。それでは」
時間が惜しい。こうしている間にも、怪我をしてしまった人がいるかもしれない。フェイヴァは走り出し、レイゲンの隣を通り過ぎた。
銀色の軌跡が目前を過ぎた。風切りによって、髪が荒々しく乱れる。フェイヴァは寒気にも似た衝撃を覚え、足を止めた。レイゲンが大剣を抜き、フェイヴァの進路を塞いだのだ。一年前とまったく同じように。
「勝手な真似をするな。保護者がいなくなって、やっと本性を表したようだな。そんな嘘に誰が騙されるか」
レイゲンの瞳は、刃のような鋭い光を内包している。冴え冴えとした眼差しは、フェイヴァの中に震えを走らせるほどの恐怖を生んだ。彼の身から立ち上っているのは、明らかな殺気だった。それは威圧感となってフェイヴァを襲い、心象に視覚とは異なる姿を刻む。レイゲンは背は高いが、見上げるほどの巨漢でもなければ筋肉を誇示する肉体をしているわけでもない。それなのに伝わってくる、絶対的な強者の貫禄。
「嘘だなんて……そんな」
「言ったはずだ。貴様を信用するつもりはないと。黙って俺についてこい」
フェイヴァは瞳を閉じた。一年前、レイゲンと服屋に行き可愛らしい衣装を選んでもらったのが嘘のようだ。あの服はフェイヴァのお気に入りとなって綺麗に洗濯され、鞄の中に入っている。
レイゲンとは、他のどの兵士よりも距離を縮めることができたと思っていた。いつか再会する日がきても、彼はフェイヴァを真っ向から否定することはしない。味方になってくれるとは思わないが、敵にもならないだろう。──それはフェイヴァの希望的観測に過ぎなかったのだ。
失望か怒りでか、目尻に涙がにじんだ。フェイヴァは臆することなくレイゲンを見上げる。
「私は他の人と違って身体も丈夫です。戦い方も知っています。私が助けに入れば、怪我を負わなくて済む人がいるかもしれない。そう考えるのは、いけないことなんですか!? もういいです! 私が人を傷つけるつもりはないと、今から証明してみせます!」
フェイヴァは涙をこぼしながら訴えた。するとレイゲンの顔に変化が起きた。瞳が一瞬だけ見開く。それだけのささいな、しかし確かな動揺の色。その隙にフェイヴァは跳躍し、持ち前の身体能力で彼の大剣を飛び越えた。
「──貴様! 待てっ!」