18.兄弟(1)
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風が吹き荒ぶ。
茶色の髪が視界を過ぎて、ルカは手で乱暴に掻き上げた。
瞳を真っ直ぐに、リヴェンとレイゲンに向ける。彼らは当初こそ動揺した表情を見せたが、状況をすぐさま理解したらしく、眼差しが鋭く変化していた。
そもそも二人は、フェイヴァと違ってわかりやすく感情を顔に出す性格ではないのだ。
「国の使い走りが、こそこそ内部工作してやがったってわけか」
唸るように喋るリヴェンに、ルカは苦笑した。
「好きに言えよ。こっちは仕事なんだ。ユニが死なないように監視したり、フェイヴァを拉致しやすくするために日程組んだり、余計な気を回さなきゃならなくて大変だったぜ」
アルバス・クレージュの直属の部下であるメリアから下された命令。ユニの保護と、フェイヴァを拉致しやすいように計らう。それがルカとハイネの任務だった。
「三人のことは聞いてたが、まさか魔人が一人潜り込んでいたなんてな。お前が正体を明かした時は、こっちの身まで危うくなるんじゃないかって、ひやひやしたんだぞ」
まさか、ディーティルド帝国から逃げ出したリヴェンが、ウルスラグナ訓練校に紛れ込んでいるとは思いもよらなかった。
記憶にある弟が成長した姿に、初めて目にした時は驚いたものだ。イクスタ王国の孤児院を経由してディーティルド帝国に報告してみると、ルカが捨てられて間もなくリヴェンも侵蝕病を患い、魔人化されたことを知った。
なんという不運だろう。親元にいた頃はリヴェンばかり可愛がられることに不満を抱いたりもしたが、だからといって彼には罪はないのだ。人間として、幸せになってほしかったのに。
「ユニ……」
それまで口を利かなかったレイゲンが反応した。血の色が滲んだ瞳に、険が宿る。
「帝国が何故、ユニの身を守る必要がある? あいつをどうするつもりだ」
ルカは息を吐いた。なるべく意地悪く見えるような笑みを浮かべたつもりだが、相手にどう捉えられたかはわからない。
「……知らねえよ。俺たちは使い走りだからな。上の命令に従うだけだ。疑問に思うのもいいが、自分たちの身を心配した方がいいんじゃないか?」
そろそろ、魔人と死天使が駆けつける頃だ。レイゲンが戻ってきたことは計算外だが、ユニはすでに帝国の手の内だ。あとは圧倒的な戦力を投入し、叩き潰すだけだ。
重々しい羽音を聞き取る。肩越しに見ると、抜けるような青空を背に、援軍が近づいてきていた。最早、羽ばたく翼の形が、はっきりと捉えられる距離まで近づいていた。死天使の優美な翼とは違い、凹凸のある骨格に皮膜が張ったそれは、紛れもなく竜の翼である。二本の角を頭部に生やした、灰色の鱗を持つ竜。ディーティルド帝国産の翼竜である。その背に跨がった魔人が二人。彼らの後方からも、敵影が続く。
「おい、花畑のとこ行けよ」
レイゲンは、リヴェンがそんなことを言い出すとは予想していなかったらしく、目を丸くした。
ルカとハイネが裏切って、最も当惑しているのはフェイヴァだろう。ハイネに連れ去られて一対一の状況に追い込まれても、戦うことができないかもしれない。
リヴェンは口が悪く自分のことしか考えていないように思えるだろうが、その実ちゃんと周りを見ているのだ。
(……そういう奴だよ、お前は)
――だが、行かせるわけにはいかない。
「とっとと失せろ木偶。女のケツを追いかけるのはテメェの特技だろうが」
「行かせるか」
レイゲンの翼竜が上昇する。ルカは彼のあとを追った。身体の周囲を黄金色の光の粒子が取り巻いて、光球を構築する。それはレイゲンの間近で炸裂し、眩い光とともに破片を撒き散らした。彼は手綱を引き、刃のごとき鋭さを持つ破片から、翼竜を逃れさせる。
地の覚醒者能力――膂力の上昇や身体に膜を張り攻撃を軽減する力に続く、三番目の力は身体の周辺に光球を出現させ炸裂させることにより、攻撃対象の接近を防止する。風の覚醒能力の一つである雷撃のように強力ではないが、出が速く牽制にはもってこいだ。しかも地の力は、身体能力の向上効果を他者に及ぼすことができる。自身の敏捷性しか上昇させられない風と比べると、どれほど優れた補助能力かわかるだろう。
破片の弾丸を回避した翼竜を狙い、黄緑色の電撃が走る。それはレイゲンの翼竜すれすれを通過し、明滅して消えた。
「おっまたせ~!」
場違いなほど明るい声音。
声の主は、白花色の髪を肩の上で切り揃え、漆黒のドレスに身を包んだ少女だった。彼女は手綱を引いて、翼竜を制動する。翼竜は大袈裟に身を捻った。太い牙が覗く口腔から、小さく甲高い声を漏らす。主人に対し、完全に萎縮してしまっている。相変わらず翼竜の御し方が身についていないようだった。
少女の名はエンジュという。メリアにまとわりついて彼女の妹のように振る舞う、水の能力を持つ魔人である。
ぱっちりとした瞳が細められ、悪戯めいた笑みがルカに向けられる。
「ルカ久しぶりぃ。学校生活は楽しかった? 人間の中にいたせいで鈍っちゃったんじゃないのぉ?」
「……かもな」
エンジュの方を見ずに、ルカは答える。
彼女に続いて現れたのは、十代半ばの外見年齢をした少年だ。こちらに油断なく向けられた双眸にも、口許にも感情が浮かんでいない。痩せた体躯と白い肌があいまって、どことなく生気が乏しく感じられる。
彼の周囲に黄緑色の冷光が現れ、雷撃が放たれる。リヴェンとレイゲンはほぼ同時に翼竜の手綱を引き、大気を焦がすような熱から距離を取る。
確か、セルヴァという名前だった。数えるほどしか会話をしたことがないから、印象が薄い。リヴェンと同じ風の力を宿した魔人だ。
「さぁ、早く片付けちゃおうね~。援護はエンジュとルカが担当するから、セルヴァはガンガン力使っちゃって!」
「わかった」
リヴェンとレイゲンに指を突きつけて、エンジュは明るい口調で言う。今年で十四歳になるはずだが、自分を名前で呼ぶせいで実年齢より更に幼く思える。エンジュの指示に、セルヴァは言葉少なに頷いた。
「……お前がそのつもりなら、容赦はしない」
レイゲンは背の鞘から大剣を引き抜いた。エンジュでもセルヴァでもない――たった一人、ルカに対して切っ先を向ける。
流石レイゲンだ。今まで肩を並べていた相手に騙されていたと知っても、躊躇する様子はない。
実行に移す直前まで迷い、そして今もまたためらいを捨てることができない自分と比べたら、彼の方がよほど兵士らしい。
ルカは平静を装ったが、手綱を握った手に、音が鳴りそうなほど力が籠ってしまっていた。
「……ああ、それでいい。ここを通りたいなら俺たちを殺してからにしろ!」
叫びと同時に、力を解放する。周囲を黄金色の光が取り巻く。自身とエンジュとセルヴァの身体に、薄明かりが纏い、消えた。攻撃を軽減する能力、続いて膂力を強化する力を発動する。
レイゲンとセルヴァが激突する。セルヴァは自身の敏捷性を既に向上させていたらしい。槍が目にも止まらぬ速さで繰り出される。レイゲンは大剣で穂先をいなして見せるが、得物のリーチの差に攻撃に移ることができないでいる。
セルヴァの周囲に黄緑の輝きが現れ、レイゲンの敏捷性が引き下げられた。続けて雷撃が放たれる。
レイゲンは手綱を引き回避しようとするが、間に合わない。雷撃は翼竜の身体を掠り、鱗の色を黒く変えた。直撃は免れたが、翼竜は甲高い悲鳴を上げると、風を捉えきれずに落下していく。セルヴァは翼竜の腹を蹴り、降下する。
続けて到着した三体の死天使は、黒い翼を羽ばたかせセルヴァに続いた。風を切り裂く音を鳴り響かせて、一斉に急降下する。空中にいるリヴェンよりも、落下したレイゲンを先に仕留めようと判断したらしい。
レイゲンとセルヴァの攻防を見て、ルカの中に違和感が兆したが、深く考えを巡らせる余裕はなかった。地上から顔を反らす。
レイゲンを追おうとしたリヴェンに接近し、大剣を振り抜いた。風切り音を聞きつけたのか、リヴェンは上半身を左に傾け躱す。
「周りを見てる余裕なんてないだろ」
「テメェ……!」
リヴェンは眉間に深く皺を寄せる。至近からの雷撃。ルカは降下し、回避する。
「バカルカ! 補助担当が前に出てどうすんのよ!」
「お前、セルヴァの援護に回っていいぞ。こいつは俺が片付ける」
声を荒げるエンジュに、ルカは振り返らずに言う。
こうするしかないのだ。
すべてを選ぶだなんて不可能だ。一番大事なもの以外は、切り捨てるしかない。
ディーティルドに背けば、アーティは魔人にされてしまう。
怖気を抱かせる異形の怪物。その胎内に取り込まれ、腹を裂かれ魔獣の肉を埋め込まれる。魔人化に成功したとしても、血塗られた日々が待っている。命じられるままに人を殺す――命の価値がわからなくなるような環境に、アーティを落としたくない。
リヴェンは翼竜を突撃させた。大剣を薙ぐが、膂力を上昇させた腕から繰り出される刃は呆気なくリヴェンの切っ先を阻んだ。そのまま上方に振り上げると、風圧が刃となりリヴェンに襲いかかる。翼竜は吹き飛ばされるが、既の所で持ち直した。
(……なのに、なんで)
リヴェンは自身の敏捷性を向上させると、ルカと距離を詰めつつ雷撃を放出する。ルカは翼竜を御し、雷を躱していく。リヴェンはルカの行く手を遮るように雷撃を放つ。その間も互いの翼竜は前進しており、ついに間合いが零になる。
リヴェンの神速の剣が、ルカの翼竜の胴を斬る。
(なんで、迷いを捨てられない……!?)
バランスを崩しかけた翼竜はしかし、すぐに体勢を整える。傷が瞬く間に塞がったのだ。
ルカの後方に浮遊するエンジュが、治癒の力を行使したのだろう。
「……なーんか単調だなぁ。ルカ、手ぇ抜いてるでしょ?」
子供のように小首を傾けて、無邪気な仕草をして見せる。日の当たる角度によって、赤く染まる暗紅色の瞳に、疑惑の念が透けていた。
「……んなわけねーだろ。リヴェンは強い。お前らだって知ってるだろ」
エンジュにそう返しながらも、ルカの胸中は波打っていた。
「お姉様もこのちっこいの評価してたもんね。でもでも、それにしたって必死さが感じられないよぉ。あたしの目にはどうしてもルカが本気だしてるように見えないんだぁ」
紅を塗った小さな唇が、弧を描く。
「……やっぱり兄弟で殺し合うのは、辛かったりするの?」
背筋が凍った。
何故今、このタイミングでそんな話を持ち出してくるのか。
否定しようとしても、手遅れだった。リヴェンの元々鋭い瞳が更に険しくなる。
「……兄弟だあ? 何訳わかんねぇこと抜かしてんだ」
「あれぇ、知らないの? ルカはあなたのお兄ちゃんなんだよ。子供二人が立て続けに侵蝕病を患うなんて、笑っちゃうくらい不幸な話だよね」
「……俺の兄弟なんざ、とっくの昔にくたばってんだよ」
予想通り、両親は自分たちに都合のよい説明をリヴェンにしていたらしい。
侵蝕病を患った兄弟を置き去りにしたり、自らの手にかける。残った兄弟には、病気や事故で死亡したなどという嘘を吹き込む。そんな話は、ディーティルド帝国が侵蝕病患者を買い取るようになる以前から、掃いて捨てるほどよくある話なのだ。
だから、魔人と化した者ほぼすべてが、親元の姓――自分が人間だった証を捨てる。ルカのような潜入任務を行う者だけが、ディーティルドから架空の姓を与えられるのだ。
ルカと同じく親に捨てられてしまったリヴェンも、人間だった頃の姓は使っていない。辺境の都市には戸籍を売買している組織がある。それを利用したのだろう。
「侵蝕病を患った兄弟を家から追い出して、死んだことするなんて昔からよくある話じゃん!」
エンジュは細い指先をリヴェンに突きつけて、嘲笑した。
彼は黙考していたが、しばらくすると鼻で笑った。取るに足らない話だと、表情が語っている。
「それが何だ? テメェが兄弟だとわかっ
たら、俺が加減するとでも思ったのかよ」
「……そんなんじゃねーよ」
否定しながらも、暗鬱とした感情に囚われている自分に気づく。
自分が兄弟だと知ることで、リヴェンが何かしらの反応をしてくれることを、無意識に期待してしまっていたのかもしれない。
思い至ると同時に、軟弱な考え方に吐き気がした。




